住職のつぼやき[管理用]

記事一覧

※画像をクリックすると拡大されます。

紙芝居:「石山合戦始末記」(その5 最終回)

ファイル 1274-1.jpg
 激動の時代を生き抜かれた『本願寺』第十一代[顕如]上人でしたが、京都に移られた翌年、文禄元年(1592)行年50歳で示寂。・・お亡くなりになります。
 そして、第十二代御門主には、長男の[教如]上人が就任されました。
 が、まもなくして天下人[豊臣秀吉]から、教如上人に呼び出しがありました。
 秀吉公は、「教如さんよ~。おみゃーさま、本願寺の第十二代御門主の地位をすぐに退任せりゃ~。そして、弟の[准如(じゅんにょ)]上人にその地位を譲りゃーも。
 こりゃなぁも、あんたの父の顕如上人の意志でもあるだがねぇ。・・ちゃんと、顕如上人の直筆の(准如上人への門主の地位の)『譲り状』がここにあるんだで。・・あんたの親族から、この秀吉の手元に届けられたんだがねぇ。つべこべ言ってんと、退任せりゃー。」と言われました。
 教如上人はまさに寝耳に水。びっくりしました。
 しかし、天下人の命令です。・・その命令は絶対でした。
 こうして、弟の[准如]上人が、正式な十二代御門主に成られたのです。

 教如上人は「・・おかしい。お父上の直筆の『譲り状』だと。私は、父上からそんな事一度も聞いてないぞ。・・又なぜ、そんなものがあるならば、父上が亡くなられた時、すぐにそれを出されなかったのだ。これは誰かの陰謀かもしれん。偽の『譲り状』なのかも。・・いや、もしかすると、父上は一度対立した私を、ずっと信用していなかったのかも・・?」と、悩みに悩みました。
ファイル 1274-2.jpg
 そんな姿をじっと見ていたのが、徳川家康でした。
 天下人秀吉が亡くなり、関ヶ原の合戦が起こり、その戦に勝利し、事実上の天下人となった徳川家康は、或る日、[教如]上人を呼び出しました。

 家康は「教如さんよー、この家康が天下を盗ったからには、何と言ってもおみゃ~さんを(又名古屋弁や)、本願寺のご門主の地位に戻してやりたいが、大阪城にはまだ秀吉の息子の秀頼がおるでぇ。・・そんで今、おみゃ~さんたちの本願寺後継ぎ騒ぎに、わしが介入したら、又、どえりゃあ騒ぎになって、大戦がおこるかもしれんでねぇ。
・・それで、わしはエエことを思いついたんだわー。
 今の本願寺の横に、もう一つ別の[本願寺]を作るっちゅうのはいかんかねぇ。わしが許可だしたるでぇ。そうせりゃー。決めてちょう。」と言いました。
 これは、本願寺の巨大な力を分裂させようという、家康の政治的もくろみであったと思われますが、家康と仲の良かった[教如]上人は、これを受けられました。
ファイル 1274-3.jpg
 こうして、弟[准如]上人が後を継いだ、通称(西)本願寺と、兄[教如]上人から始まった通称(東)本願寺に別れ、江戸・明治・大正・昭和を経て、平成の今にまで至っているというわけなのです。 おしまい
ファイル 1274-4.jpg
 ちょっとだけ、あとがきに変えて余談を。
 この東西本願寺を分けた[顕如]上人の『譲り状』は、はたして本物だったのだろうか?
 それは今も、なぞのままなのである。
 今月の初め、上の写真の[中外日報]という宗教新聞に載っていた記事から読むと、『譲り状』の筆跡鑑定からみると、これはまさしく[顕如]上人の直筆であると発表された。
 もう一度いう。・・昔に解ったことでない。これは平成26年2月の今に発表された事なのである。
 でもまだ、なぜ?が残る。なぜ、教如上人が御門主を継がれる前に、この『譲り状』を直接、教如上人に見せなかったのか?
 そして、その手紙がなぜ、直接秀吉の手元に渡ったのか?
 ・・はっきり言って、この『譲り状』の真偽は(じっちゃんの名にかけても)まだ解らないのだ。

 ・・しかし、本願寺が分裂したのは、歴史の事実。
 僕の結論。「もう、どっちでもええやん。・・西と東に仰山、お念仏を称える場が増えたんやから、エエとしょうや!」

 ほんまに、おしまいだぎゃーも。
 

紙芝居:「石山合戦始末記」(その4)

 ・・余談になるが、ここまで読んで頂くと、長男[教如(きょうにょ)]上人ってタカ派なの?って、思われる方も多かろう。
 確かに、戦国武将のような勇気と人間的魅力を持たれた御方であったと思われる。 
 しかし僕は、やはり教如上人も(誰もが持つ)人間的弱い部分を一杯もっておられたの方ではなかろうか?と思うのだ。
 実は昨年の10月、この紙芝居を作る為に、滋賀県の『長浜市長浜城歴史博物館』へ教如上人の事を調べに取材に行って来た。(ちょうど『顕如・教如と一向一揆』という、特別展が開かれていた為だ。)
 そこで、教如上人の直筆で書かれた、石山本願寺を退出するに当たっての母親への手紙というのを拝見してきた。
 その手紙には、(脱出時の)教如上人の不安な気持ちが、母親宛にいっぱい書かれてあった。(長くなるので内容は書かない。アニメ一休さんの終わりの歌「母親さま~、お元気ですかー」みたいなもの?・・ちょっと違うかな⁈)
 人間を一律に[タカ派]と[ハト派]に決めてはいけないような、そんな気が僕はしたのだった。(長い余談終わり)
 さて、『紙芝居』に戻りましょう。
ファイル 1273-1.jpg
 大阪城を脱出された[教如]上人は、その後、紀州(和歌山)・美濃・高山(岐阜)、そして越前を転々と秘回されます。(・・絶望的な気持ちであったかもしれません)
 が、しかし、又歴史が動く時が来ました。
 織田信長が、天正十年(1582)に、家臣の反逆によって、本能寺で自害するのです。
 信長は「是非に及ばずだぎゃー(「仕方がない」、大阪弁でいうと「しゃーない」という意味)」と言って、この世から去りました。
 この事件によって、のち、主君の仇討を果たした豊臣秀吉が天下人になります。
 そして、信長軍に追われていた[教如]上人も許されて、父[顕如]上人と和解。
 ようやく、又親子は仲よく?一緒に暮らすことができたのでした。
ファイル 1273-2.jpg
 そして顕如上人たちは、やがて和歌山を離れ、大阪府貝塚にある『願泉寺』を本願寺の寺基(じき=ご本山)として、転入されました。
 さらに、そこから大阪の「天満」に移り、やがて天下人秀吉からの助言(命令?)によって、京都の「堀川」(今の西本願寺の場所)に「荒れた京都の町を本願寺の力で、又復活させてちょう。頑張ってもらわんといかんわぁ。」と言われて移るのでした。 つづく

上に戻る