千栄子さんは【映画女優】になりました。
が、彼女は映画会社の給料未払い騒動に巻き込まれて、一度映画界から足を洗います。
そして昭和5年。この時期にのちに夫となる喜劇役者兼、劇作家の[二代目]渋谷天外(しぶやてんがい)に出会います。
天外達、喜劇団の仲間たちは「松竹家庭劇」、(のちの「松竹新喜劇」)をつくり、千栄子もそれに加わり、女優業を再開するのでした。
そして、彼女は喜劇団の看板女優兼、座長の妻として、20年間夫を支えてゆくのでした。
が、しかし。つづく
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紙芝居:『ナニワの浪花千栄子女史』(その8)
紙芝居:『ナニワの浪花千栄子女史』(その7)
千栄子さんは、小さな芸能プロダクションに入社しました。
が、しかしこの芸能プロはすぐに倒産してしまいました。
潰れる前に、そこの監督さんから「君はこの仕事に向いているよ」と言われ、『村田栄子一座』という旅回りの劇団を紹介されます。
彼女は、そこでの厳しい稽古に懸命に励み、実力を付けてゆくのでした。
が、やがて劇団の座長から推薦から、仕事は映画会社へと移り、千栄子さんは『映画女優』になってゆくのでした。
ところで、『浪花千栄子』という芸名は、役者仲間の先輩から「あんた、大阪の女優さんやから、苗字を【浪花(なにわ)】にしたらどう?」と言われ決めたそうです。
又、名前の【千栄子】は、先の旅劇団の師匠の名【栄子】から、一字をもらって【浪花千栄子】になったということです。つづく
紙芝居:『ナニワの浪花千栄子女史』(その6)
千栄子さんは、京都で『カフェバー』に就職しました、
カフェバーというのは、今のキャバレーのようなもので、綺麗な着物を着てお化粧をして、お酒を勧める華やかな世界でした。
こういう世界は、人間の欲望がいっぱい渦巻いています。
本来まっすぐな性格で田舎者の彼女は、こうゆう世界が嫌いでした。
が、彼女はここでも、後年お芝居に役立つ人間観察の勉強をいっぱいしたそうです。
それでも、この仕事が嫌でたまらなくなって来た時、カフェバーの友達の紹介で彼女はお店を辞めて、興味のあったお芝居の世界が広がる、小さな芸能プロダクションへ、試験を受けて入ります。
当時、水商売から芸能界へ入る人が多かったのです。つづく
紙芝居:『ナニワの浪花千栄子女史』(その5)
浪花千栄子さん、17歳。
又、運命が変わる時が来ました。
それは、突然父親が仕出し弁当屋に乗り込んで来て、お店にいちゃもんを付けて、彼女を辞めさせて、今度は富田林の大きな材木商に(前金を自分がちゃっかり貰って)下働きに出したのです。(※この父親というのが、なかなか曲者の男なのですね)
が、その材木商のご家族は、大変親切で良い人たちでした。 彼女は、そこで家族同然に大切にされます。
特にお店の大奥さんには可愛がられ、ここで人の世の愛情や善意などを学んだそうです。
そして、年季奉公も無事に終り(又、父親がお金をせびりに来る前に)に、彼女はひとりこっそり、あこがれの地『京都』へ旅立つのでした。
さて、あこがれの地『京都』に着いたものの、知り合いもいません。
そこで、口入屋(今の人材あっせんセンター)に行き、『カフェバー』を紹介してもらうのでした。
カフェバーとは、今のキャバレーのようなものだったそうです。つづく
紙芝居:『南河内が生んだ大女優 ナニワの浪花千栄子女史』(その4)
いつしか、浪花千栄子さんが仕出し弁当屋に奉公に来てから、8年が経とうとしていました。
今では彼女も16歳です。
ある日、弁当屋の主人に、お化粧をしたいと願いでたら、けんもほろろに「なんや、急に色気付きおって、どつかれんぞ!」と、罵声が飛んで来ました。
彼女は、あまりの悲しさに「死んでやる!」と、お便所に駆け込み、首をくくろうとしました。
その時いつの間にか、いつも可愛いがっている猫が一緒に入って来て、ニャーニャーと彼女の裾を加えて離さないのです。
「なんや、お前のせいで気が抜けたわ。死ぬのは今度にしょう。」と自殺は中止しました。
余談ですが、この時、命を救ってくれた猫に感謝して、彼女は一生猫や生き物を大事にしたそうです。つづく
紙芝居:『南河内が生んだ大女優 ナニワの浪花千栄子女史』(その3)
大阪で、下働きの女中さんのことを『おちょやん』と呼んでいました。
浪花千栄子さんが、九歳で女中奉公に出た時、仕出し弁当屋の主から「ええか、お前は今日から『おちょやん』や。おちょやんっと呼ばれたら、『ハーイ』と大きな声で返事せなあかんで!」と云われました。
そして朝から晩まで、弁当作りの手伝いから、芝居小屋への弁当配達、又主人の子の子守まで、ただひたすら働きました。
その当時の唯一の楽しみは、芝居小屋への配達だったそうです。
それは毎日の役者のお芝居が、チラッと見えるからでした。
彼女はお芝居が好きでした。
そのうち、彼女は役者の台詞も全部覚えるようになったそうです。
この頃から、彼女は女優の片鱗があったのです。
朝から晩まで働く彼女の一番辛かったことは、文字の読み書きが出来ない事でした。
そこで彼女は、いらない新聞紙をため込んで、お便所でそのチラシを出して、一文字づつ覚えたそうです。
それで、先輩から「おちょやんの便所は長いなぁ。昼寝してんのとちがうか?」と、嫌味をよく言われたそうです。つづく
紙芝居:『南河内が生んだ大女優 ナニワの浪花千栄子女史』(その2)
紙芝居:『南河内が生んだ大女優 ナニワの浪花千栄子(なにわちえこ)女史』(その1)
(はじめに)
何年も前に、「うちのお寺の近くに、昔、大女優というか⁈怪女優が生まれ育った所があるんやで⁉」と、一人の檀家さんから聞いた。
ホントかな?と半信半疑ながら、時間を見つけて調べていくうちにそれが事実だと判明して、ご先祖のお墓などお参りさせて頂いた。
そして、長い時間を掛けて調べていくうちに、段々興味を持ち始め、ついに『紙芝居化』してしまった。
自伝も探して読み、そして所縁の地の取材もした。
そう、僕はこの女優さんはテレビドラマ『細うで繁盛記』に出演しておられる時から好きでした。又尚かつ、映画『夫婦善哉』や『蜘蛛巣城』に出ておられる時からファンだったのです。
それでは、その彼女の波乱の生涯を紙芝居で見て頂きましょう。
始まり、はじまりー。
『ナニワチエコでございます。家族みんなで・・○○軟膏。』というテレビCМで一世風靡した大女優、浪花千栄子さん。
彼女は南河内郡東板持町(現在は富田林市)の生まれで、本名は『南口(なんこう)キクノ』といいます。
この名前、『虫刺され・やけどに、この軟膏(なんこう)効(き)くの』というダジャレから、このコマーシャル起用になったとか⁈・・・知らんけど(笑)、・・いや、これウソのようなホンマの話なのです。
(現在の富田林市板持町)
つづく
紙芝居:『富田林のはじまり~寺内町の話』(後編)
こうして『富田の荒れ地』の開発工事が始まりました。
周囲の四つの村から、各二名ずつ代表を決めて計『八人衆』で、お寺の建立や周りの屋敷の町割り、そして田畑の場所などを取り決め工事を開始したのです。
こうして[永禄四年]、寺内町は完成しました。
この町は、東西七本、南北六本の街路で区画された[13.3ヘクタール(東京ドーム約三つ分)の]町で、(興正寺という)お寺を中心に創られました。又、周りは堀などで囲み、夜は門を閉め、誰彼なしに入れないようにしました。(結果、野武士たちは入れなくなりました。)
そして町全体をお寺の境内とみなし、信者たちが平和な話し合いで物事を取り決めのできる『宗教自治都市』になったのです。
又、同じ宗教の[浄土真宗](本願寺)が織田信長軍と戦い、浄土真宗に味方した町が、信長軍に焼き払われる中、富田林寺内町は信長に逆らわず、お金を出して中立を守った為、焼き討ちに合わずに済みました。
宗教.寺院の威光を利用しながら、自分たち町民の事は、自分たちで決め、そして守るという、したたかさもあったのです。
こうして寺内町は、彼ら民衆で『富田林(とんだばやし)』と名付けられ発展してゆくになります。
そして江戸・明治時代を経て、富田林全体の商業中心の役割を担い、木綿業、材木商、清酒業などが大いに発展していきました。
戦乱の世に、自分たちの[極楽浄土]を作ろうと、庶民が立ち上がり、完成した町『富田林寺内町』。
今、令和の時代、寺内町はその歴史と文化の大きさから、『重要伝統的・建造物群保存地区』の指定を国から受け、新しい街づくりの試みが始まっています。
それでは、最後に寺内町で生まれ育った歌人『石上露子』の一首の歌でこの紙芝居を終わることにいたしましょう。
『今はとて 還りゆくべき古里は 哀しかりけり 恋しかりけり』 おしまい
紙芝居:『富田林のはじまり~寺内町の話』(中編)
各村の農民たちは、それぞれ代表を決めて集まりました。
「どないしまひょか⁈このままでは、我々はずっと泣き寝入りや。‥米は奪われ、家は焼かれる。・・それに兵隊には取られるし、年貢は取られても、ご領主は我々の命を守ってくれへん。」
「そや、武士に頼らん、我々だけの町を作るんや!」
「それはええ案やけど、そんな土地はどこにあんねんな?」
「ひとつ、あるでぇ!」
「えっ?それはどこや?」
「あの『富田(とんだ)』の芝地やがな!」
そこでみんなは、その土地を見に行きました。
「・・あの荒れた土地でっか⁈」
「そやがな、みんなで力を合わせたら、きっと立派な町が出来るで!・・みんなで銭出して、土地を買うんや。」
「けど、わしらお公家や武士やお寺さんと違うから、土地なんか勝手に買われへんで⁉」
「そや![興正寺(こうしょうじ)]の証秀(しょうしゅう)上人にお願いしてみよ。お上人にわしらの代表になってもらおう。・・お寺を中心とした新しい町づくりを頼んでみよう!きっと賛成してくれはんで!」
そこでみんなは、大阪の興正寺へ向かいました。
お上人は、農民の代表者たちに会われておっしゃいました。
「お前たちの言いたいことは、よう分かった。
荒れた芝地を、お寺を中心とした[寺内町]にしようというこっちゃな。・・武士たちの好き勝手な事の出来ん、自分たちで運営する平和な[極楽浄土]みたいな町を作ろうというこっちゃな。
ようわかった。賛成や。・・しかし、あそこの土地は確か守護大名の土地や。売ってくれれば良いが・・、銭は百貫文(今の約2500000円)ぐらいは出さんとあかんやろなぁ・・。お前らはお金の工面をせぇ。わしは交渉に掛け合うたる。」
そしてお上人を代表に、守護大名と掛け合い、『富田の芝地』を、農民たちは手に入れました。つづく