昔、僕が子供だったの頃、《(ばんそう)の飛び出す絵本》という〔しかけ絵本〕があった。
それは、本を開けば、パッと《絵》が飛び出すしかけになっていて、僕はそれが大好きでハマッていた。
でもその絵本はけっこう高価なもので、なかなか買ってもらえず、本屋や図書館でいつもその〔しかけ〕を触っては覚え、家に帰ってそのコピーを作って遊んでいた。
僕は『紙工作』が大好きだったのである。
しかし、大人になっても、まさかまだ作り続けるだろうとは思ってなかったが・・。(幸か不幸か・・〔笑い〕)
・・で、本題に入る。
『お寺の出前』に行くと、必ず最初は自己紹介をするのだが、「こんな○○風な感じのお寺から来ました」と言うのではインパクトがなく、分かりにくい。
そこで僕は、「今日は僕のお寺を持って来ました。ご覧下さい!」と言って、(写真の)『飛び出す観念寺』の絵本をパッと開くことにしている。〔エエ年してこんなん作りましてん!〕
・・するとたいていの人が「おー!」とか言って、拍手とか歓声が起こり、下を向いていた人も、こっちを向いて〔ニヤッ〕と笑ってくれる。
そう、これは僕の話を聞いてもらう為のセコイ〔つかみ〕の小道具なのである。
良かったら、どうぞ皆さんも一度自分の家を〔飛び出す絵本〕風に作ってみてはいかがでしょうか?
きっと、どこかで(?)役に立つと思います!・・・・か?(〔か?〕と違うやろ、〔思います〕やろ!《吉本新喜劇風にここは読むとこです》)。
ちなみに、姉妹品の『飛び出す仏壇』もあります〔笑い〕
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飛び出す観念寺!
『看病用心鈔』 第六条 「死を覚悟するということ」
ミャンマーの水害、そして中国での大地震・・。
ここ最近、次から次へと《大天災》が起こっている。
そして、たくさんの犠牲者の方のニュースが報じられ、連日涙がこぼれる・・(僕は泣き虫なのだ)。思いも寄らぬ突然の天災による《死》。お亡くなりになられた方々は、まだまだこの世でやりたい事がいっぱいあったであろうにと思うと、つらく悲しい。
・・話は変わる。・・先日、このブログに書いた『看病用心鈔』の(第六条)にも「突然やってる《死》についての覚悟」について書かれてある章があり、今日はそれを抜粋して書いてみたい・・と思う。
『どのような病気や事故で、どのように《命》が終わってしまうかなどわかりません。
あまり私達の知る余地のない《死に様》についてあれこれ悩なまい様にしたいものです。なぜなら、思い通りの《死》は決して訪れないからです。戦争・火事・水害などにみまわれ命を失ったり、突然死などがありえるからです。
・・私達は日頃から持つべき信仰を持ち、生きる目的をしっかり持って、これを備えとしたいものです。そしてその上で、心安らかに自らがあこがれ願う次の世界へ旅立ちたいものです。(以下略す)』
・・良忠上人はこのように述べられている。きっと鎌倉時代も、目も当てられない様な〔天災〕や〔戦争〕があり、上人は心を痛め、この《章》を書かれたのだろうと思う。
今、平成の時代に生きる私たちにも、突然の思いがけない《死》はいつやって来るかわからない・・。
それに備えることができるような、しっかりとした《信心》を常に固めておきたい・・と僕は思った。
《看護の日》にあたり・・ 『平成版 私訳 看病用心鈔』
昨日は《看護の日》・・、ナイチンゲールの誕生日だった。
『お寺の出前の会』をやっていた頃、この『〔ナイチンゲール〕に負けてたまるか!・・かつてこの日本でも《看護》の本は有ってんぞー、胸を張れニッポン!』と日本人に《エール》を送りたくて、(先日、このブログでも紹介した)『看病用心鈔』の小冊子を作り《頒価 八百円》で出版した事がある。
実はこの冊子、今でも時々地方から〔電話注文〕があってお頒けしている。(今でも在庫がたんまり有るが、別に儲けたいが為に作ったのではないので、売れなくてもかまわない。・・本当は三百円ぐらいにしたかったのだが、『紙芝居』を挿絵としてカラーで載せたのでこの値段になってしまった)
実は、どうしても僕はこの『看病用心鈔』という〔仏教看護〕の本を、読み安くして世に出したかった。絶対にこの書物は《医療と福祉と宗教》の架け橋になるであろうと思ったからである。(一部の大学の研究書としてしまって置くのはもったいないと思ったのが本音だ)
この書と出会って一番驚いたのが、実は僕で、「日本にここまでターミナル・ケアを事細かく解説する書物があったのか」とマジでびっくりした。その気持ちが日に日に大きくなって、出版となったわけだ。
小さな冊子ではあるが、ご縁があって有難い事にあの『聖路加病院』の理事長である《日野原重明》先生に推薦文も書いて頂くことができ、『医療』の世界に少しだけ、知れる事ができた。・・もうこれで十分だと思っていたら、まだ今もあちこちの病院やお寺から、この『紙芝居』を《医療者》や《ヘルパー》そして《僧侶》の前でやってくれとの連絡があるので、本当に出して良かったなと思っている。
・・そんでもって、後はこの書物の内容を少しでも実践してくれるような、そんな《医療・福祉従事者》や《僧侶》の出現を待つだけでなのである。(たのんまっせ!・・誰に言うてんねん??)
人が亡くなるということ・・
今年は《お葬式》が多い・・。
人が亡くなると、なるべく早めにその方の枕元で《読経》せねばならない為(・・これを一般に〔枕経(マクラキョウ)〕という)、常に僕のいる場所や、携帯電話の番号などは〔門徒さん〕や〔葬儀屋さん〕にお伝えしてある。
人が亡くなるのは昼夜を問わない。・・だから深夜でもその電話がかかってくることがある。
深夜に電話が鳴ると「ああ、どなたか亡くなられたな・・」といつも覚悟する。そして時間を聞いて《読経》に伺う。
その〔枕経〕の現場は、いつも独特の空気が流れている。
泣いておられる方や看護疲れの為か憔悴しきっておられる方、テンションが上がりすぎて〔葬儀〕の打ち合わせの声がでかくなっておられる方、などエトセトラ・・である。
それで、・・僕はいつも思うのだが、〔人がおひとり亡くなる〕というのは、大変な事だと感じている。
この世からその方が完全に姿を消すのだから、それは仕方がない事だと思うのだが、家族・親戚は悲嘆に暮れる時間がなく〔お葬式〕の準備の為、その瞬間・瞬間に即決していかねばならない事がなんと多いことか!〔たとえば、葬儀の場所の設定・時間・連絡する知人・親戚の宿泊場所・細かい所では焼香の順番などもある〕。
それは御家族にとって慣れてない事だと思うので、神経を使い、凄いエネルギーがいるに違いない。
だから、僕はなるべく〔葬儀〕に関しては細かい事は言わないようにしている。・・たとえば「うちの宗派は、こんな事は絶対しませんよ!」などとは、まず言わないようにしている。おかしな事があれば、そっと葬儀屋さんに言ったり、自分で直せる所は直してしまう。
それぐらいしか僕には協力出来ないからだ。聞かれたら答えるが、なるべくこちらからは言わない。
時々、なんで《お葬式》って、こんなしんどい事を一遍にしなければならないのだろうかと思うが、すでに或るものは仕方がないので、僕はなるべく遺族さんの精神的負担が(宗教的な面では)最小限になるように心がけて行ってるつもりだ。
そんでもって・・今日の最後の一言。お葬式というのは、しんどい儀式やから、最近はみんなちっちゃく《家族葬》で済ますのやろなぁ・・と思う。
ペットとの相性
ご門徒さん宅にお参りに行かせていただいていると、毎日様々なペットと出会う。
犬や猫、小鳥(ジュウシマツ・インコ・文鳥・鳩)、熱帯魚、エトセトラ・・・。
僕の仕事は〔仏壇の仏様〕を拝むことで、たいてい仏壇は家の〔奥〕の部屋におまつりしてある為、その場に行く途中その家のペットとよく出会うのだ。
それで・・、いつも思うのだが、ペットとは〔相性〕があると感じている。
僕と相性の悪い犬は、僕が読経している間ずっと鳴いている。〔室外犬なら良いが室内犬の場合は・・・。〕
反対に相性の良い犬は、僕が行くと喜んで喜んで離れない。〔これも又困るのだが・・、たまに家の方がいない時に鼻にコンパチ(中指で弾く)攻撃をするとびっくりして逃げて行く!僕は悪い坊主である(笑い)〕
・・猫の場合、相性も割とクールで・・、良い猫は仏壇の前に座れば必ず〔しっぽ〕で着物にスッと触れて挨拶してくれる。反対の場合は出て来もしない。
又、面白いのは読経しているとずっと一緒になって鳴くインコたちだ。これも読経が終われば鳴き止むので、きっと僕に対抗意識をもっているのだろう。(いつか餌で引き寄せてコンパチしてやろうと思っている!)
又、ペットの名前も面白いのがある。(そのお宅の家族の名は覚えてないのにペットの名は覚えてしまうから、あかん坊主やなぁと自分を褒めてやりたい〔笑い〕)
ポチ、おそめ、たろう、ゆず、マイケルとジャクソン〔兄弟〕、ジャッキーとチェン〔ご主人が俳優のファンだそうだ〕エトセトラ・・。
昔は何とか〔相性〕の悪いペットとの関係を修復しようと〔ジャーキー〕などを持って行き、手なずけ様と試みたのだが、二度ほど手を噛まれたので、この作戦はもうやめて、今は完全無視作戦を行っている。(その内、コンパチ作戦を決行したいと思っているのだが、返り討ちにあわんようにせねば・・)
『ロッキー』を聴きながら・・・
・・最近、《お葬式》が続いたせいか疲れ気味である。
二~三日休みたいが、《お参り》は誰も代わってくれないので、頑張るしかない。
それで、せめて〔気力〕だけでも出さねばと、先日映画『ロッキー』のサントラ版CDを買って今、車で聴いている。
この古いCDアルバム、確かに効き目がある・・と感じた。
先日も〔法事〕に遅れそうな時、CDの威力か!着物姿で駐車場からお家まで走って間に合った。ただし後の読経では息がぜいぜいして苦しみ、年を感じたが・・〔笑〕。
又、大音量で聴いてたら、高速道路の料金所で窓を開けた瞬間、窓口のおっちゃんに笑われた。
「へんな坊主やなぁ」と思われたのだろう。
それでも元気になったら、こっちのもんや!
その内、檀家さんの家の前で、「エイドリア~ン!(ロッキーの恋人)」と叫ぶかもしれないが、その時はタオルを投げて許してほしい・・。
春が来ると思い出す・・・
今年もようやく春らしくなって来た。
僕は毎年、この季節になると思い出すことがある。
それは、大阪の〔不二家〕というケーキ屋さんの店先で、路上〔紙芝居〕をやった時のことである。
ここの店長は、僕の前に勤めていたお寺の〔総代〕さんで、熱心な仏教徒であった。
店長の口癖は「わしは仏教徒やけど、ケーキ屋やから毎年〔クリスマス〕には盛大ケーキを売って儲けさせてもろてます。・・そやけど、やっぱりキリストさんの誕生日だけではなく、おシャカさんの誕生日にも何かせんとアカンと思ってまんねん」であった。
それで或る年の4月の《花まつり》から、店先で《仏像》を出して〔甘茶かけ〕を通行人にしてもらい、シュークリームをプレゼントするというイベントを始められた。
・・が、ある時、うちに電話を掛けてこられて、「今ひとつ、通行人に〔甘茶かけ〕の意味が理解してもらわれへんのです。それで申し訳ないけど、店先でおシャカ様の『紙芝居』をやってもらえんやろか?・・わしが客引きして、店の前に椅子用意して座ってもらうようにするから・・」とむちゃくちゃな吉本の若手芸人がやるような話をしてこられた。
・・それでオモロそうだったのですぐ受けた。
たくさんの車と、忙しく自転車で人が行き交う中、店先で《店長》が、「さぁさぁ、寄ってらっしゃいよ・・今から『おシャカ様の紙芝居』が始まるよ!」と言って、無理やり通り掛かりの人を何人か集めて来て、そこで僕が拍子木を鳴らして『紙芝居のはじまり、はじまりー』と調子を合わせて演った。
一日何回、同じ紙芝居を演ったであろう・・、よく覚えていないが、とにかく恥ずかしかった。・・が、面白かった。排気ガスでのどが痛かったが、《ギャラ》としてシュークリームとケーキとペコちゃん人形をもらったので〔まぁええ〕とした。
それから何年か経ち・・よく流行っていたこの店も、今はもう閉店して無い。それは店長の跡継ぎ息子さんが病気で亡くなり、それから店長は働く《気力》を無くしてしまわれたからである。・・が、いつか又、必ずこのオモロイ店長は不死鳥のように《復活》されるであろう!・・と思う。僕はそう信じている。
『正しいこと』って何?
前回、『八正道』について簡単に説明させてもらったが、今回はそれについて少し補足したい。
たとえば〔正見(ショウケン)〕とは『正しく見る』と説明したが、・・では『正しく』って何なのだろうか?
・・現代の世界の中の《局地的戦争》一つ取っても、皆が「これは我が国の《正義》の戦いである!」という大義を掲げて戦い、人を殺している。
『正しい』ということの意義づけは〔政治〕を通して見ると実に難しい・・。
・・では〔仏教〕ではいったいどのようなことが『正しい』というのか?
その答え・・。
仏教の『正しい事』とは、《自他(ジタ)〔自分と他人〕を活かし共に喜ぶこと》を云う。
反対に『悪い事』とは、《自他を殺し、悲しませること》を云う・・のだ。
仏教では『他の人を泣かすような〔正しさ〕などはない!』・・。実にシンプルな答えである。
つまり〔正見〕とは『偏らず皆が幸せになるような見方をする』という事になる。
・・この考え方でいけば《聖戦》なんてモノはないのかもしれない・・と僕は思うのだが、皆さんはいかに・・?
おしゃか様は何を悟られたのか・・?
・・昨日の続きになるが、おしゃか様は〔悪魔〕に打ち勝ち、ついに35才で《悟り》を開かれる。
では、おしゃか様はいったい何を悟られたのか・・?
・・いったいどのような〔苦〕の解決法を考えだされたのか?
今日はその内容を簡単にお話したい。
結論からいうと、おしゃか様は三つの事を《お悟り》になったと云われている。
その一つ目は〔縁起(エンギ)〕・・。
これは『縁(ヨ)りて起(オ)こる』という意味で、〔この世の一切のものは、他の物に縁りて(依存して)起きるのだ〕。つまり物事は独立してあるのではなく、お互い関係しあって在るのであ~る、という意味。(だから、〔苦〕にも必ず〔原因〕があり、それを無くせば〔苦〕も消えると考え出された)
二つ目は〔四諦(シタイ)〕。
この〔四諦〕とは《四つの真理》という意味で、〔苦諦(クタイ)・集諦(ジッタイ)・滅諦(メッタイ)・道諦(ドウタイ)〕を云う。
・・ややこしくなるから、できるだけ簡単に説明する。
〔苦諦〕とは『人生は〔苦〕だ!楽しい事があっても、いずれ必ず悲しみに変わってしまうも~ん』という真実=《真理》。
〔集諦〕とは『〔苦〕があるという事は、必ずそれを作る〔原因〕がある!』という真実=《真理》。
〔滅諦〕は『〔原因〕があるならば、必ずそれを〔消滅〕させる事が出来る!』という真実=《真理》。
〔道諦〕とは『〔苦〕の原因をつきとめ、必ずそれを〔消滅〕させる〔具体的方法〕はある!』という真実=《真理》。
三つ目が〔八正道(ハッショウドウ)〕。
これは〔道諦〕の《具体的八つの実践方法》である。(読まれている方は、だんだんと頭がパニくッて来られたかもしれないが、ここは避けることができない大事なトコなので勘弁してほしい・・)
一、正見(ショウケン)『「お~ママ、ママ~」それはショーケンや!ちゃうちゃう、本当は〔正しく見る〕』
二、正思惟(ショウシユイ)『正しく考える』
三、正語(ショウゴ)『正しく語る』
四、正業(ショウゴウ)『正しい行い』
五、正命(ショウミョウ)『正しい生活』
六、正精進(ショウショウジン)『正しい努力』
七、正念(ショウネン)『正しい道を想い念じる』
八、正定(ショウジョウ)『正しい精神統一』
・・以上が、簡単そうでなかなか困難な『八正道』という〔苦〕を消滅させる〔具体的実践方法〕である。
・・大急ぎで、おシャカ様の《悟り》の内容を説明してきたが、・・ではこの『八正道』が実践できそうもないという人はどうしたら良いのか・・?
その答え!できない人の為に『南無阿弥陀仏』という「ワテ何も修行できまへんけど、阿弥陀仏様にすべてお任せしてます。だから安心なのよ、ありがとう!」というお念仏がありまんねんで・・。以上。おわり 合掌
『ゴメンください、ドナタですか、アミダ仏です・・ありがとう』
先日、或るお寺の〔お説教専門〕の先生がこう教えて下さった。
「浄土真宗の〔他力本願〕の教えというのは・・、
アミダ仏の『人間を救うぞ!』という願いが、我々の元に届いたその証として、私たちの口から『〔仏様ありがとう〕という意味の《ナムアミダブツ》という感謝の《お念仏》』が出てくるのです」と言われた。
考えてみればこの理論はややこしく難しい・・。
この考え方でいけば、我々は困った時でも、「仏様っ!救ってくださ~い」と《お念仏》を称えるのではなく、「仏様っ!救って下さっているのですね、ありがとう」と言っていることになる。
つまりもう結果がでているというべきなのか・・。
困ったままに《感謝》をすべきという事なのか・・。
又、これでいくと《仏様》と《私》は、常に対象的にあるのではなく、《仏様》がすでにこの《私》を統括してくださっていると考えて良いのだろうか・・。
つまり、この私は《仏様》の救いの中で悩んでいるのか?
《仏》と《私》ではなく、《仏》の中の《私》・・か。
ああ、頭の回線がコンがらがる!
一晩考えて、僕は『吉本新喜劇』流にこう結論を出した。(なんで『お笑い』に走るねん・・〔笑い〕)
新喜劇には〔クワバラカズオさん〕という芸人がおられ、劇中でいつも登場する時、「ごめんください、どなたですか、私は○○に住んでるクワバラと申します、お入り下さい、ありがとう」と全部一人でやってのけ笑いを誘うギャグを披露する。
僕は、《仏》と《私》の『お念仏』での関係は、この〔ギャグ〕で表せると思ったのだ。(「怒られるで、しかし・・」)
つまり僕の勝手な《仏の中の私》という《お念仏》解釈はこうだ!
『(ゴメン下さい、どなたですか) 私は皆ができない難しい修行をみんなの代わりにやって仏となった《アミダ仏》というものです、だからあなたはもう修行をしなくて良いのです、すでに救われているのですよ、信じますか、信じてますよ、ありがとう、いえいえこちらがありがとう』・・・と一人でやっている、これが浄土真宗の《お念仏》ではないだろうか・・?!
「なんか僕、間違った事言うてまっか!」・・今度いっぺん偉い先生に聞いてみたろ!(「やばいで、しかし・・」)
もういっぺん言おか・・。『ゴメン下さい・・やめとこ』