住職のつぼやき[管理用]

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《ターミナル・ケア》って何・・!?

《ターミナル・ケア》とは、何ぞや?
・・『辞書』には、『人生の(回復の見込みの無い、病による)終末期において、身体的にも精神的にも苦痛を軽減し、平安を目指す医療・介護のこと』とある。
 僕は、『お寺の出前』を始めた(14~5年前の)最初の頃は、この《ターミナル・ケア》ができるのは《ホスピス》病院だけだと思っていた。
 ・・が、それは違っていた。
 今では『老人ホーム』も《ターミナル・ケア》の現場だと思っている。
 よく、《ターミナル・ケア》をしたいという後輩僧侶から、「『ホスピス』にはボランティアやお話に行きたいと思うのですが、『老人ホーム』は主旨が違うような気がするので、行きたくないのです」と言われる。
 僕は『それは違う』と思う。
『老人ホーム』も、《ターミナル・ケア》の現場なのである。
 僕は、毎月、同じ『老人ホーム』にお話に行っているので、それがよく解る。
 ご老人方は、皆さん、ご自分の『ターミナル(終着駅)』地点を考えて、探っておられる。(・・いかにうまく到着さすかを!)(認知症の方も例外ではない!)
 僕が『老人ホーム』に毎月顔を出す意味も、そこにあるような気がしている。
 『老人ホーム』も、(年齢の差はあれ、)『ホスピス』と余り変わらない。
 たとえば、先月、元気良く『法話会』に来ておられた方も、今月行くと「もう、あの方は肺炎をこじらして亡くなられました」という話を、もう何十回聞いたことか。(その言葉を聴く度に心が張りつめる・・)
 お年寄りに取っては、毎日が《ターミナル(終着駅)》近くの駅なのである。
 いや、ひょっとしたら『老人ホーム』だけではなく、『生・老・病』のすべての場所が、《ターミナル》近くの駅現場なのかもしれないが、話が広がり過ぎてしまうので、今日の所はこの辺でやめるとしよう・・・。
 いずれ、この話の続きはじっくりと・・・。

総代さんの涙・・

 昨日の〔総代さん〕のまた別の話・・。
 先日、〔総代さん〕宅でのお参りの後、雑談として《涙》を流しながら、次のような話をして下さった。
 「・・何年も前の体験なのですが、今でもこの話をすると涙がこぼれてくるのです。
 息子の嫁が〔重複障害児(知的・身体的障害)〕の学校に勤めておりまして、私も或る時、この学校の〔運動会〕を見に行きました。
 そして・・それは、小学五年生の〔20メートル競争〕の時に起こりました。
 その或る生徒が、笛の合図とともに走り始めたのですが、周りの〔応援席〕の人の多さに緊張もあったのでしょう、15メートル程でもう走れなくなって、しゃがみ込んでしまいました。
 ・・先生は手を貸しません。(貸してはダメなのです)それで会場はシーンとなってしまいました。
 すると、〔応援席〕からその子の弟(小一)が、突然走り出して来て、兄の前まで来ると、『兄ちゃんガンバレ!、兄ちゃんガンバレ!』と手を叩きながら応援するのです。・・その突然の《兄弟愛》の声援に、会場のみんなは驚き、それからもう涙、涙でした。
・・そしてその兄は(誰の手を借りることもなく)再び立ち上がって残りの5メートルを走り切りました。
・・会場は割れんばかりの拍手でした。・・私、この事を思い出す度に、今でも《涙》がこぼれるのです」と、大粒の《涙》を僕の前でポロポロこぼしながら、お話して下さった。
 お話自体、感動的で素晴らしいものであったが、・・僕はこの優しい〔総代さん〕の涙の方が、大変印象に残っていて忘れることができないのである。

お通夜の席での『紙芝居』

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 上の写真は〔お通夜〕の席で『紙芝居』をしている様子である。
 実はこの写真、昨年の夏頃のものなのであるが、遺族さんから「遅くなりましたがプリントしましたので受け取って下さい」と頂いたものなので、本日披露することにした。
 「お通夜の席で『紙芝居』をするなんて不謹慎だ」という声もあるかもしれないが、僕にとって『紙芝居』はひとつの法話のスタイルなのである。
 これも実は、葬儀屋さんから「亡くなられた方の奥さんの落ち込み方が通常でないので、住職の例の『紙芝居法話』をして慰めてもらえないか?」というお話を頂いたので実行した訳である。(ちょっと勇気がいったが・・)それでも、下ばかり向いておられた奥さんの笑顔が少し戻ったので、演じて良かったと思っている。

 ・・これに懲りず、つい先日も〔環骨勤行・初七日〕の後に紙芝居をしたお家があるのだが、(紙芝居が終った時、拍手喝采で、お骨になられた仏様に対して複雑な心境だったのだが・・)それは又別のお話。機会があればいたしましょう。(今年も冠婚葬祭のあちこちで『紙芝居』を使いそうな予感・・〔笑い〕)

この《ホームページとブログ》のテーマ

 先日、友人から「君は何の為に(何を目的として)、ホームページを作り、かつブログを書いているのか?」と聞かれた。
 改めて聞かれたので僕自身困ってしまった。
「好きで書いてまんねん!」と言えばそれまでだが、良い機会だと思って、自分の過去のブログを所々読み返してじっくり考えてみた。
 結論!
 このHP・ブログのテーマは、『手作り「紙芝居」の発表の場を通して見る、〔老・病・死〕の実相(ありのままの姿)』を皆さんに知ってもらいたいと思ったからなのである。
 本来、オチャラカの性格なので、時々(いや、大抵)脱線するが、基本はこんなトコだと思う。
 ホンマに『老・病(老人ホームや病院)』そして『死(お葬式の現場)』は、悲しく、寂しく、かつ優しい雰囲気が漂い、そして時に滑稽で面白い・・ものなのである。
 これからも客観的な目で見たモノを書いていきたいと思う。

今年の「出前」先・・パンフレットから振り返る

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今日は、今年「出前」した《施設・病院》等の『パンフレット』を少し読んでみたい。
 はじめに《老人施設》などに「出前」に行くと、たいてい担当の職員が出て来られて、そこの施設の『パンフレット』を差し出され、《施設の理念》などをお話して下さる。
 (そのお話によって『宗教色をどこまで出してしゃべるか』を決めるのだが、「好きなようにしゃべって下さい」と言われたら、ホンマに好きなことを、べらべらべらべらとしゃべるので、私は或る意味、危険な男なのです。〔笑〕・・以上、余談)
 さて、今年頂いた『パンフレット』からの抜粋。 
 たいていどの施設も同じような事が書かれてある・・が、特色もある。
 たとえば、『・・そもそも、老人の《老》と云う字は「ねれる」という大変尊敬される意味を持っています。又、親孝行の「孝」という字は、子供が老人をいたわり背負う姿です。(なるほど!)当施設では、この「尊敬」と「いたわり」の精神をモットーにお世話したいと思っております。』と書かれたパンフレットがあって、「ここは文字の意味から理念を掲げるのか」と思い、結構こう云う《落とし文句》は僕は好きである。
 又、こういうのもある。
『介護技術はもちろん大切。しかし、利用者の思いやニーズを汲み取る心と、やさしい笑顔を忘れてはなりません。ここ○○は、愛情こそが福祉サービスの原点だと確信しています。』というのもあって、ここは『愛情』がコンセプトなのだとわかる。
 最後にもう一つ。『ここ○○はこだわりました。話すことや笑うこと、ふれあうことを忘れないでいただきたいと。・・ご老人の持てる力を引き出し、その人らしい生活を支えます。』と、ここも凄く立派なうたい文句が並ぶ。
 やはり施設の宣伝『パンフレット』だけあって、一読しただけで『ここに決めよう!』と思ってしまうだけの殺し文句が並べてある。
 後は、本当にそこがその通りの『施設』なのかが問題なのだが・・、それは又別の話。その〔見聞記〕はいつかコッソリお話しましょう。〔笑〕

今だから言える話・・・

 先々週の話・・。
 うちの村の一人の高齢男性が、三日三晩行方不明になっていた。
 ご本人は「タバコを買いに行く」と言って車に乗って出たまま、夜になっても帰宅されず、ご家族の方が心配になり、役場・警察に連絡を入れ、村全体に行方不明者の放送も流れ、大々的な捜索となったのである。
 二日目には、車だけが山奥の駐車場で発見された。・・が、本人はおらず、事故や事件の可能性もあるかと、ヘリコプターまで出て捜索となった。
 この方、うちの檀家さんでもあるので僕も大変心配し、三日目には覚悟もした。
 四日目になり、奈良県側で一人で(裸足で)山を降りて来られたのが発見され、無事にこの騒動は終った。
 (この時本人はいたって元気であり、病院に行かれてもすぐに帰って来られた)
・・が、多くの疑問が残った。いったい何を食べ、どこでどのように過ごして居たのか?本人に聴いてもよくわからないのだ。(話のつじつまが合わないのである。)
 ご高齢の為、少し忘れっぽくなっておられるは知っていたが、このような事がおこると、これから先の事が心配である。(居場所の判る携帯電話を買ってはいても、本人が所持してなけれれば意味が無い)
 ・・でも、僕としては、今ホッとして本当に見つかって良かったと思っている。
 今だから言えるお話でした。

紙芝居:『夫婦善哉』を作ったもう一つの理由

 2002年9月、2003年4月、<法善寺>横丁は、二度の火災にあった。
 ちなみに《法善寺》は浄土宗のお寺で、ご縁があって〔御住職〕さんと二度ほどお会いした。
 それで、一度目の火災の後、復興ボランティアとして、僕も(宗派は違うが)横丁の人達へのカレーライスの炊き出しに行かせてもらった。
 〔法善寺〕横丁は大阪の顔である。
 それで、もっと何かお手伝いが出来ないと考え、作ったのがこの「紙芝居」である。
 実は〔横丁〕の人達に、元気を出してもらおうと、2003年の春に浄土宗の青年会が〔イベント〕を企画して、・・そしてその余興の一つとして、僕にも声が掛かり、この紙芝居の製作を決めたのである。
 ・・が、もう一度の火災が起こり、〔イベント〕は中止となり、この「紙芝居」はお蔵入りとなった訳である。
 あれから5年が経ち、〔法善寺〕横丁も見事に復興した。
 この「紙芝居」が、このお話の舞台〔法善寺〕の水掛不動さんの前で、今度は、楽しいイベントとして披露できることを今、夢見ている。
 

〔死後の旅〕と《七つの裁判》

「・・住職さん、うちの死んだお婆ちゃん、今頃どの辺まで往ってるんでっしゃろな~」とお葬式の後、七日毎のお参りの時によく聞かれる。
 僕の宗派の考え方では、阿弥陀仏のお力によって、死後すぐに〔極楽浄土〕に生まれる事が出来ると考えるが、・・今日はひとつ一般的な仏教の考え方で話を勧めたい。
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 ・・となると、仏教哲学の大御所〔ひろさちや〕先生の著書『仏教百科』を頼るしかないので、その本からそのままパクらせて頂く。
 それでは〔死後の旅〕のはじまり、はじまり~。(あんまり楽しそうじゃないなぁー〔笑〕)

 人は亡くなると〔四十九日間〕の旅を経て、その後〔六道輪廻〕の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)に生まれると仏教では考える。
 それでは、その〔四十九日間〕、いったいどのような旅路が待っているのか?
 では参りましょう・・。
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 人はまず、死後〔七日間〕を掛けて《死出(シデ)の山》を歩く。その山は岩がゴツゴツしていて、人は《星明り》を頼りに歩き続けなければならない。
 そして〔七日〕後、《秦広(シンコウ)王》という裁判官のいる『裁判所』に着き、〔五戒(殺生・盗み・邪淫・嘘・飲酒)〕についての書類審査を受ける。
 その後・・、
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 いわゆる一つの《三途の川》を渡る。
 なぜ《三途》か?・・それは善人は〔橋〕。罪の軽い者は〔浅瀬〕。重い者は〔激流〕の三つの道があるからである。(なるほど!)
 そして、川を渡ると、
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 《奪衣婆(ダツエバ)》と《懸衣翁(ケンエオウ)》というボディービル級のマッチョな婆さん、爺さんに会わなければならない。
 二人の後ろには《衣領樹(エリョウジュ)》という一本の木があり、マッチョな(・・もうエエか〔笑〕)《奪衣婆》が死者の服を剥ぎ取り、《懸衣翁》がその木に服を懸ける。生前の罪が軽ければ、少し揺れ、重ければ、大きく揺れる。この事を〔証拠物件〕にし、次の法廷へ向かう。

〔十四日目〕、《初江(ショコウ)王》の裁判所に着き、〔殺生(みだりに生き物を殺していないか)〕について裁かれる。
〔二十一日目〕、《宋帝(ソウテイ)王》の裁判所に着き、〔邪淫〕について裁かれる。
〔二十八日目〕、《五官(ゴカン)王》の裁判所に着き、〔生前の言動〕について裁かれる。
〔三十五日目〕、(やっと出ました!)《閻魔王》の裁判所で〔嘘〕をついた事を裁かれる。
〔四十二日目〕、閻魔王の報告に基づき《変成(ヘンジョウ)王》の裁判所で〔大裁判〕が行われる。
 そして〔四十九日〕、《泰山(タイザン)王》の最高裁判所で〔判決〕が下される!

 その『判決方法』とは、《泰山王》が六つの《鳥居》を指差し、死者は自ずから、自分が往く《鳥居》を選ぶのである。この《鳥居》の向こう側が〔六道の世界〕となる。
 この時、死者は、自分の往く世界の選択権が、自由にありそうに思われるが、これだけの〔裁判〕に次ぐ〔裁判〕を経て来たからには、自分の《業》に自ずから気づき反省し、正直に自分に合った世界に進んでしまうという事である。

 ・・以上が〔死後の旅〕の全日程コースでございました!楽しんでいただけましたでしょうか??お疲れ様!! 
 
 
 

『ブログ』な・・一年

 この『ブログ』を書き始めて、ちょうど一年が経った。
 これまでは『紙芝居』を作るのに時間を費やしていたが、このホームページが出来てからは、その『紙芝居』を『ブログ』に載せて発表するのに時間を費やした。(といってもまだ半分の作品も発表してないが・・)

 以前にも書いたかもしれないが、最初は『紙芝居』をホームページ上で載せるつもりはなかった。

 たが、或る檀家さんに「一部の方(老人ホームのお年寄り達や病院の入院患者さん)だけに見てもらうだけではもったいない。一般の方もこのような話を求めている人がきっといるはず・・」と熱心に発表を勧められ、載せる決意をしたのだが、今ではその方法を選んで本当に良かったと思っている。
 確かに、「たかが『紙芝居』、されど『紙芝居』なのだ!」と思うことが最近多い。
 というのは、「話の内容をイメージしやすい」というのがトップに来て、二番目は「その物語の〔趣旨〕をつかみ易い」という感想を多くの方から頂戴するからである。

 先日も、或る知的障害を持たれた子供さんのお母さんからお礼のお手紙を頂いた。
 そこには、「子供が『くもの糸』の紙芝居を見て、それをお母さんがさらに詳しく説明し、それから小さな生き物を大事にするようになった」という内容が書かれてあった。
 このような手紙を知らない方から頂くのは本当に嬉しい。

 願わくば、この『HP紙芝居』が、さらにこんなお話を求めている人達に届くことができますように!
 これからもボチボチ書き続けてゆきます。合掌
 
 
 

『情報』って大事なの?

 秋も深まり、近くの住職さんや友達と一杯飲む機会も増えてきた。
 当然、酔いが回ってくると皆、饒舌になる。
 「中年よ、良く飲んでよく喋れ!」とばかり、ストレス発散もあるが、身近な人の話題(失敗談や滑稽談が多い)で盛り上がる。
 ・・・が、たいていどうでも良い、話題ばかりである。
 それがお互いの『情報交換』の場になってるとはいえ、「聞かなければ良かった」と思う話題もある。
 酔っていても、後日それは覚えているものだ。
 よく友達が「情報は大事ですよ!兎に角、色んな情報を聞いて知っておきましょう」というが、僕はそれに疑問符をつける。

 ・・たとえば、先日或る葬儀屋さんが、霊柩車からご遺体を引き出す時、しくじって地面に落としてしまい、ご遺族が怒り大騒動であった、とその顛末を知り合いから聞いたのだが、聞いた時、「それは大変やったろうなぁ」と思い正直びっくりしたが、次の日になってそれを思い出した時、ものすごく後味が悪く『聞かなければ良かった』と思った。

 確かに今は『情報』が商売となり、生活の如何にもかかってくるが、なんでもかんでも取り入れるというのは、僕は反対だ!
 願わくば、聞いた人間が〔元気になる〕ような、そんな『情報〔話題〕』ばかりを聴いていたい・・・。

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