住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『続・白隠さま』(その1)

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 第一部の紙芝居では、一人の僧侶が偉大な宗教者『白隠さま』になってゆくまでを中心に、お話させて頂きました。
 さて、この第二部の続編では、有名な白隠さまの二つのエピソードを紹介させて頂きたいと思います。
 それでは「白隠さまの赤ん坊」というお話からスタートです。
 はじまり、はじまりー
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[白隠さまの赤ん坊]
 このお話は、白隠さまが駿河の国(今の静岡県)の松蔭寺の住職をされていた頃のお話です。
 お寺の近くに、一件のお金持ちの檀家の家がありました。
 この家で、ある事件が起こりました。
 家の年頃の娘に、父親知らずの赤ちゃんが出来てしまったのです。
「馬鹿者め!いったいその子の父親は誰なんだ!言え、言えんのかー!」と娘の父親はカンカンです。
 娘は焦って、口を開きました。
「はい、白隠さまです。」
「何っ?!それは本当か?」
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 そしてその数ヶ月後・・、無事に赤ん坊は生まれました。
 がしかし、我慢がならない娘の父親は、娘から力づくで赤ん坊を奪って、その足で白隠さまのお寺へと向かいました。
 そして、「あんた、偉い坊さんだと思っていたが、とんでもない坊主だ!さあ、責任を取れ!この赤ん坊を引き取れ!」と言って、赤ん坊を白隠さまに手渡し、さっと帰ってゆきました。つづく

 

紙芝居:『白隠さま』(その4 最終回)

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この白幽仙人は、他にも秘法と呼ばれる病いの治療法を白隠さまに授けられました。
 そしてこれらの治療法は、身体や心を病んだ多くの弟子たちや、一般の庶民達の命を救うことになっていきました。
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 やがて多くの庶民を助け、あちこちのお寺を建て直し、多くの弟子達を育て上げた白隠さまは、明和5年(1768)12月11日、84歳の生涯を閉じられました。
「駿河には過ぎたるものが二つある。富士のお山と 原の白隠」。
 臨済宗の中興の祖と呼ばれる偉大な僧侶、白隠さま。
 今も多くの人々に慕われておられます。おしまい
 さて、この紙芝居には続編があります。
 次回から、白隠さまの面白いエピソードをお話ししましょう!

紙芝居:『白隠さま』(その3)

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悟りを開いた白隠さま。
・・がしかし、悟り開けども病気はします。(そうなんやなぁ・・,)
 長い間の厳しい修行が、白隠さまの身体を病いで冒しておりました。
 それは有名な医師でも治す事が不可能でした。
 そこで白隠さまは、今度は自分の病いを癒す事のできる医者探しの旅に出ます。
 そしてある日、京都の山奥の洞窟に住むという、医学に詳しい仙人の噂を聞くのです。
 白隠さまはそこに向かいました。
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 白隠さまは山中を彷徨いながら、ようやく仙人の洞窟に辿り着きました。
 「お頼み申します!どうかお救い下さい。私の病いを癒して下さい。」
仙人の名前は[白幽(はくゆう)]と言いました。
白幽仙人は「お前さん、坐禅のやり過ぎからなる[禅病]じゃな・・」と言って、白隠さまに[軟酥(なんそ)の秘法]という治療法を授けて下さいました。
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 それは、頭の上にバターのような栄養に塊りを置くという一種の[イメージ治療法]でした。 
 大雑把に説明すると、頭の上にバターを置くとイメージして、それが少しずつ溶けてゆきながら、身体の中の悪いものが全て溶かして、大地へと流して消して行くと想像する瞑想法でした。(余談ながら、僕も以前、これを実践した事があります。時間は掛かりますが、結構スカッとします。)
 このイメージ治療法は、白隠さまを徐々に元気にしていったのでした。つづく

紙芝居:『白隠さま』(その2)

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 そして、白隠さまは若くして修行先の越後(新潟県)のお寺で、悟りを開いたのでした。
「私は悟りを開いた!天下でこのような境地に達したのは、釈迦以来、私だけだ。
 もう何も怖くない!ワッハッハッハッ!」と思いました。
が、しかし・・
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 師匠は白隠さまの悟りを認めません。
「あんな師匠はダメだ!」と白隠さまは別のお寺を探して、自分の境地を解ってくれる師匠を探しました。
 そして、自分と同じような境地に達したと噂の師匠を探し出し、自分の悟りに境地を話しました。するとその師匠から、白隠さまは鼻をつままれ、こう言われました。
「このおごっている天狗の鼻はこれか!
 一度や二度の不思議を体験をしたからと言って、良い気になるな!この慢心ものめ!」と。
 そこで初めて、白隠さまは自分の奢りに気がついたのでした。
「あれは小さな悟りであった!もっと大きな悟りを目指さねばならない!」と。
 そしてさらに修行を続けました。
 そんなある日のこと。
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 托鉢を断られてたたずむ白隠さまに、そこの家のお婆さんが「さっさと帰れ!」と怒りのホウキが白隠さまの頭に直撃!
 白隠さまは気を失ってしまいました。
 が、その一撃が迷っていた白隠さまに、大きな悟りへのスパーク(導火線)となったのです。
 このきっかけによって、白隠さまは本当に大きな悟りの境地に達したそうです。(悟った事の無い僕はようわからんねんけど・・)
 この日、白隠さまは「悟りを開いた証明書」である印可(いんか)を、師匠から受けたのでした。つづく

紙芝居:『白隠(はくいん)さま』(その1)

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 昔、静岡県は[駿河(するが)の国]と呼ばれていました。
 こんな歌があります。
「駿河には、過ぎたるものが二つある。富士のお山に、原の白隠(はくいん)」。
 白隠さまは、臨済宗の『中興の祖』と呼ばれる立派なお坊さまです。
 江戸時代の半ば、駿河の原(はら)宿(今の沼津市)に生まれました。
 それでは、白隠さまのお話をさせて頂きましょう。
はじまり、はじまり〜。
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 白隠さまは、宿場町の大きな運送業の息子として生まれました。
 幼き頃の名は[岩次郎]と言い、よく母親と共に近くのお寺にお説教を聴きに行っておりました。
 そんなある日のお寺での事。
 いつものように、住職がお説教を始めました。
「良いか、悪い事をすれば、あの世で閻魔大王に裁かれて地獄に落ちるんじゃぞ!・・たとえそれが子供であってもな・・、わかったかな。」と話されました。
 それを聞いて、岩次郎は心の底から「地獄には行きたくない!」と思いました。
 で、悩んだ末・・。
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 15歳で両親を説得して、出家することにしました。
「よし、私はお坊さんになって、これから一生懸命修行して、必ず極楽へ行かせてもらうぞ!」と誓うのでした。
 お坊さんになった岩次郎は[慧鶴(えかく)]と名を改めました。
(が、この紙芝居では悟りを開いたのちの名である[白隠]で通します。)
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 それから白隠さまの修行の日々は続きます。
 朝のお勤め、座禅、掃除、そして托鉢。
 それは地獄に行かずに済む、悟りを求めた骨身を削るような修行でした。
 そして、良い師匠を求め、全国各地の国を旅して巡り歩きました。
 つづく

紙芝居:『鬼となった元三(がんざん)大師』(その3 最終回)

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永観2年(984)、元三大師72才の時、疫病が大流行します。
そして、比叡山の元三大師の元にも、疫病の疫病神が現れます。
 疫病神は元三大師の枕元に現れて、襲いかかろうとしました。
 するとそれに気がついた大師は、「ここから身体の中に入れ!」と小指を差し出して、疫病神をご自分の体内に入れたのでした。
 そして・・.
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ご自分はデビルマン、いや鬼に変身して自分の体内で疫病神と戦いやっつけ、見事に追い出したのです。(元三ビームは熱光線!元三キックは悪くだく!仏のチカラ~、身に付けたー、比叡のヒーロー、元三マーン!)
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そして目が覚めた元三大師は、弟子たちに大きな鏡を持って来させて、その前で座りました。
そして、こう言われます。
「良いか、今から鏡に写す姿は、わしが疫病神と戦い追い払った時の鬼の姿じゃ! お前たちはこの鬼の姿を、半紙に写してそれをたくさん印刷し、世間で、疫病を恐れる人の家の玄関に、貼るように命じなさい。きっと疫病の疫病神はそれを見て、わしじゃと思って退散するに違いないから!」と言われました。
 そして、その一年後、正月(元旦)の三日に亡くなられました。
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これが今も残る有名な[元三大師のお札]です。
 今コロナ禍な中、様々な疫病退散のお札が注目されていますが、その中の一つ、この元三大師のお札は、庶民を疫病から守ろうとした一人のお坊さんの願いが込められた物なのです。
 このお札、玄関に貼ってあるのを見られた方も多いはず。
 このようなエピソードがある立派なお坊さんの一生のお話でした。おしまい
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(四天王寺 元三大師堂)

紙芝居:『鬼となった元三(がんざん)大師』(その2)

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康保三年(966)、元三大師は若くして(55才で)[第18代天台座主]に就任。お山のトップに立ちます。
 そして荒廃したお寺を立て直し、改革してゆくのです。
 がしかし、就任三か月後・・・、 
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 比叡山から山火事が発生。
 根本中堂・横川中堂など、主なお寺の大伽藍がすべて焼けてしまいます。
 が、元三大師はたぐいまれな手腕を発揮して、お寺の造営・再興に成功させます。
 これによって、元三大師は比叡山の[中興の祖(復興の偉大な統治者)]と呼ばれるようになります。
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 がその後、またまた問題発生!
 お寺の中での風紀は乱れ始め、山法師たちは暴れ、僧侶たちの対立騒動が激しくなっていきます。
 そこで悩んだ末、トップとして、すべてにおいて決断せねばならぬ元三大師は・・、
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 中国の古い学術書を研究して、そこから、仏様に祈り物事の良し悪しを占いで決める『おみくじ』法を編み出しました。
 これは一番から百番まで、観音様のみ教えを、小さな紙に小分けして書きます。
 そして仏さまにお祈りした後、くじを引き、出たくじの番号によって、そこに書かれてある仏さまの教えを吟味して、物事の良し悪しを占うというものでした。
 これは今の『おみくじ』の元祖です。(※これは伝説であって、フィクションであるとも云われてもいます。・・が、今でも比叡山ではこのおみくじ占い法というものがあり、お坊さんが一般の方を占ってくださいます。(要予約)これは安易なものではなく、カウンセリングのようであり、真剣な心構えが必要でもあります。以上余談)
 どうしても自分で決める事が難しい、と思われることをこれによって仏様のお告げと受け取り、決めたのですね。
 つづく
 

紙芝居:『鬼となった元三(がんざん)大師』(その1)

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昔むかし、今からおよそ1100年前のお話。
 これは京都は『比叡山延暦寺』のひとりの(元祖おみくじ発明者ともいわれている)偉いお坊様のお話です。
 このお坊様はお正月(元旦)の三日に亡くなられたというので、『元三(がんざん)大師』とも呼ばれています。(本当は[慈恵大師・良源]さまと言います)
 そして、又この方は当時流行した[疫病(えきびょう)]から人々を守る為に、身体を(デビルマン、いや違います・・)鬼の姿に変身させたという伝説もあるのです。
 それでは平安時代の僧、元三大師の(伝説からなる)お話をさせて頂きましょう。デビッーール!(昔、僕はデビルマン大好きでした)
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 元三大師こと、良源(りょうげん)さまは『平安時代(延喜12年[912]』に近江の国浅井郡(今の滋賀県長浜)に生まれたと伝わっています。
 信心のあつい母親の勧めもあり、12才で得度しお坊さんになられました。
 そして[良源]という名前をもらわれます。
 が、この紙芝居では『元三大師』という名前でお話を進めます。
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 元三さまは修行場所を『比叡山延暦寺』に移し、さらに厳しい修行に打ち込んでいかれます。
 もとより頭も良く、お話も上手であったという元三大師。
 厳しい修行にも耐えて、どんどんお寺の中で出世していきます。
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(四天王寺・元三大師堂)
 つづく

紙芝居:『星に願いを〜岩橋善兵衛ものがたり』(その4 最終回)

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今や大人気となった善兵衛さんの望遠鏡。
京都・大阪・江戸の大名屋敷の武士や、又海運業の大商人からも「是非とも善兵衛殿の望遠鏡が欲しい!」と言われ、一つ一つ作っては納めました。
 又その精度の良さから、日本地図を初めて作った[伊能忠敬(いのうただたか)]公も、善兵衛さんの望遠鏡を持って、日本中を歩き測量したそうです。
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 もちろん当時、日本で望遠鏡を作ったのは善兵衛さんだけではありません。
が、自らレンズを磨き、望遠鏡作りを専門としたのは、日本においては善兵衛さんだけでした。 
 その為、性能では他を圧倒していたのです。
 がしかし、望遠鏡販売によって得たお金を、より精密な望遠鏡の研究費用に当てた為に、善兵衛さん家は常に貧しかったそうです。
 夜空の光輝く星々に興味を持ち、もっと知りたいという夢を持ち、勉強し努力を続けた善兵衛さん。
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 文化八年(1811)、行年56歳で亡くなりました。
 法名は[釈 義天]。辞世句「今死ぬる 既に燃火(もえび)の消え失せて 無量寿仏(=阿弥陀仏)と なるぞ嬉しき」
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現在、善兵衛さんの故郷であった貝塚市では、その偉大な功績を讃えて[善兵衛ランド]を開館しています。
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 ここは、ドーム式天体観測室のある大阪府下最大の天文台施設です。
 又もちろん、善兵衛さんに関する資料の展示や実際の望遠鏡も見ることが出来ます。
 星が好きで、星に夢を持った善兵衛さん。
 皆さんも一度、こちらの施設で、善兵衛さんと同じ夢を味わってみては如何でしょうか。おしまい

紙芝居:『星に願いを~岩橋善兵衛ものがたり』(その3)

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いつしか善兵衛さんは37才になっていました。
 今や一人前の科学技術者となった善兵衛さん。
 大阪貝塚の自宅に帰り、本格的な[望遠鏡]作りを開始しました。
 そして寛政五年(1793)、ついに新たな高性能の[望遠鏡]が完成したのでした。
 善兵衛さんは、それを『窺天鏡(きてんきょう)』と名付けました。
 そしてその年の七月・・・、
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 京都伏見の恩師の元(=『黄華堂(こうかどう)』)に、窺天鏡(望遠鏡)を持って行き、そこで当時の文化人たちと共に、日本初の『天体観望会』を開いたのです。
 その観望会に出席した文化人の一人の先生がこう記録しています。
(以下、現代語私訳)「・・この望遠鏡は普通の物より10倍は長い。・・木星を観ると本当に円形をしており、まるで満月のようである。・・これを作った大阪貝塚の善兵衛という男、世にまれなたくみ職人である。」と。
 この成功に自信を得た善兵衛さんは、この後さらに工夫を重ね、新たな望遠鏡を作り出していきました。
 又、模倣品の防止の為か、自分のオリジナルシンボルマーク(車の形)をあみ出して、望遠鏡に塗装しました。
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(貝塚市:善兵衛ランド)
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(善兵衛さんの窺天鏡(望遠鏡))
つづく

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