住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その4 最終回)

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(加賀屋甚兵衛 後編)
 数々の苦労を乗り越え・・、
 そして宝暦5年(1755)、甚兵衛さんの新田は誕生します。
 のち、新大和川の川沿いに実る稲穂を見つめながら、甚兵衛さんは
「・・新大和川を付け替えた中甚兵衛さん。あなたが人の命を守る為に生涯を掛けて作られたこの大河。
 この同じ名前の、この甚兵衛がお米や農作物を作ることによって、同じように人の命を守り、生かすために志を引き継がせて頂きましたよ。」とつぶやかれた・・かもしれません。
 そしてこの地は、大阪の代官によって検地を受けて、『加賀屋新田』と正式に名前を付けられました。
 ここから、『加賀屋』という地名が生まれ現在に至っています。
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 この功績によって加賀屋甚兵衛は名字帯刀が許され、「自分は富田林の出身なので、生まれた地名の名である喜志村の『櫻井(さくらい)』という姓を名乗りたい。」と言って、この時から[櫻井甚兵衛]という名前になりました。
 宝暦7年(1757)、甚兵衛さんは婿養子に家督を譲って、その翌年、中甚兵衛さんと同じように、仏教に帰依して『圓信(えんしん)』と名乗り、新田会所で静かな隠居生活を送ります。
 そして宝暦12年(1762)、83才で往生されました。
 その後、[甚兵衛]の名はその子孫が代々継いで、会所も大いに発展します。
 やがて、甚兵衛さんの造った『新田会所』という管理運営施設も、大阪の豪商の財力が示すような大邸宅となり、そこは美しい庭園や茶室などが作られ、文化人たちのサロンとなりました。
 ‥以上が『二人の甚兵衛さん』のお話です。
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 たぐいまれな精神力で嘆願活動を続け、幕府を動かし水害から人々を守る為に[新大和川]を付け替えた中甚兵衛さん。
 そして、その新大和川沿いに西大阪最大の新田を作り、農地を成長させた加賀屋甚兵衛さん。
 二人の甚兵衛さんは、大和川という大阪の大河に関わり、懸命に働きその生涯を終えました。
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(加賀屋新田会所跡)
 21世紀に生きる我々も、彼らからどんな困難にぶつかっても意志を貫く強い精神力を学びたいものですね。 おしまい
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(加賀屋緑地)

紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その3)

※余談だが、この紙芝居制作には僕自身にも不思議なご縁がある。
 僕が紙芝居を作り、そして演じるきっかけになった場所が、「北加賀屋」駅近くにあった『特別養護老人ホーム白寿苑』というところである。(もちろん今もある。[笑])
 毎月、こちらに紙芝居法話を演じに、富田林駅から行かせて頂いていた時、この地下鉄「北加賀屋」駅で降りた時、いつも「へんな名前の駅だなぁ?・・昔に大きな旅館か料亭があったのかな?」と思っていた。まさか、この駅の名前が『加賀屋甚兵衛』の名前から付けられたものだと思わなかったのだ。
・・毎月、僕は加賀屋甚兵衛さんの生まれた所(富田林)から電車に乗って(途中から車に変えたが)加賀屋さんの新田会所まで行っていたのだ。
 又、加賀屋甚兵衛さんの旦那寺である[明尊寺]様へも『紙芝居法話』で二度ほど行かせてもらっている。・・ここでは書かないが中甚兵衛さんにも不思議なご縁があった。
・・それがわかった時、これは紙芝居を作らねばいけないなと(勝手に)思い、この紙芝居の制作に入ったのである。余談が長すぎた。・・話に戻ります。
(加賀屋甚兵衛 前編)
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 加賀屋甚兵衛さんは、延宝8年(1680)に、河内の国石川郡(現在の富田林市喜志町)で生まれました。
 11才で大阪淡路町(現在の本町近くか?)の両替商(今の銀行のようなものか?)の[加賀屋]という店へ奉公人として入りました。
 そして35才で『のれん分け』、つまり独立開業を許され、自分の店を持ちました。
 ここで[加賀屋の甚兵衛]という名前になります。
 甚兵衛さんは商売で堺へ行く途中、この新大和川をいつも眺めながら、新事業を夢見ていたのです。
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 この頃、大都市大阪は人口が増え、農作物の収穫を増やす為、農地の開発(これを新田といいます)が盛んに行われていました。
 財力のある商人は、川沿いの土砂で干上がった土地などを工事して、新田作りに挑戦していたのです。
(甚兵衛)「新大和川の河口部(今の住之江区西側)も土砂で干上がっていたなぁ・・。あの部分を干拓すれば、きっと立派な新田が出来るに違いない!」と、加賀屋甚兵衛も開発工事に挑戦したのでした。
 この時、甚兵衛45才。大工事が始まりました。
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(甚兵衛が作った高崎神社)
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(甚兵衛がこちらも故郷富田林の神社から分け御霊をもらい造った高砂神社)
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(甚兵衛)「なんとか、この地に立派な新田が出来ますように!そして水害から守ってもらえますように!」
 と甚兵衛は自分の故郷富田林の喜志にある産土神社から分け御霊を頂戴して、新田工事の場に『高崎神社』と『高砂神社』を建てて祈念しました。
(甚兵衛)「この新大和川の上流は、自分の故郷富田林につながっている。だから故郷の神様、どうかこの地もお守りください!」と信仰心の篤い甚兵衛さんは常に祈りました。
 そしてその後、本業の両替商も止めて、新田開発一本に打ち込みます。つづく

紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その2)

(中甚兵衛 後編)
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宝永7年(1714)、新・大和川の付け替え工事が始まりました。
 工事は、川下の堺の海側から開始されました。
 幕府と各命じられた藩が競うように、分担区間を工事してゆき、結果的にわずか8か月間で、シン・ヤマト川は完成しました。
 堺から河内の国[志紀郡柏原村(現柏原市)]の合流地点まで、長さ約14キロメートル・幅180メートルの新・大和川はここに完成したのです。
 この時、甚兵衛も『普請御用』という役を幕府からもらい、息子と一緒に現場で指揮したそうです。(詳しくは、このホームページの出前メニュー127の『中甚兵衛ものがたり』を見てください)
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 この付け替え工事によって、中河内の村人は大きな水害からまぬがれる事ができました。
 中河内とは今の『東大阪市・八尾市・柏原市などエトセトラ』です。
 又、鴻池(こうのいけ)新田を初め(約1050ヘクタール)の新しい田んぼや畑が、川の水が無くなった所に開発され、農業が盛んになりました。
 干上がった砂地は水はけが良く、綿栽培が最適で、こうして中河内一帯は全国一の『綿作地帯(河内木綿)』になり、大阪の大発展に貢献しました。
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 しかし、付け替え工事の南側(主に堺市や今の大阪狭山市の一部)では排水が機能せず、結局水害からは逃れる事ができず、住民に迷惑を掛けました。
・・・それが原因かどうかはわかりませんが、
 中甚兵衛は、川の付け替え工事完成の翌年、頭をそって仏教に帰依してその後、表舞台には出ずひたすら信仰に生きたそうです。・・しらんけど。
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 さて、ここで少し時間を戻して・・、
 もう一人の甚兵衛さんのお話に移りたいと思います。
 新大和川が完成した時、ひとりの若い商人が、商いで堺への道中、この川沿いを歩きながら、一人つぶやきました。
(もうひとりの甚兵衛)「ほぉー、これが中甚兵衛という御方が付け替えたという新大和川か!‥立派なものだ。私の名前も甚兵衛(じんべえ)。・・まぁ、中甚兵衛さんとは縁もゆかりもないが、同じ名前だ!
 この大和川をご縁として、私も社会に貢献できる仕事がしてみたいなぁ・・。」
 この若者の名前は[加賀屋(かがや)の甚兵衛]と言いました。
 中甚兵衛さんとは、40才ほど違う若手気鋭の商人でした。
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(二人の甚兵衛の年表)
 つづく

紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その1)

(中甚兵衛 前編)
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昔むかしの江戸時代の半ば・・、
これは大阪に生まれ、偉大な事業を成しえた[二人の甚兵衛(じんべえ)]のお話です。
 
 一人は、今の東大阪に生まれた庄屋の[中甚兵衛]さん。
 彼は当時、洪水の絶えなかった大和川(やまとがわ)を付け替えました。

 そしてもう一人が、今の富田林市喜志(きし)に生まれた[加賀屋(のちの櫻井)甚兵衛]さん。
 彼は両替商(今の銀行みたいなものか?)の店に幼いころ奉公に出て、やがて独立。自分の店を持ち、そののち大和川を西大阪最大の新田に開発し、大阪の町の発展に尽くしました。

 これは、大和川が紡いだ二人の甚兵衛のお話です。
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(現在の大和川)
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 さて、初めは[中甚兵衛]さんの話をしましょう。
 彼は寛永16年(1639)、河内の国(今米村・今の東大阪市)で生まれました。
 家の仕事は村の庄屋で、今の村長さんのような役割でした。
 この当時の大阪は、大雨が降れば川は増水、氾濫し人々の生活は常に脅かされていました。
 甚兵衛さんの村も洪水被害を常に受け、その度に村民から「なんとかしてくだせぇ!」と庄屋は泣きつかれておりました。
(甚兵衛)「うーん、この水害を防ぐ方法はたった一つ!」と甚兵衛は思いつきました。
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 それは、奈良から大阪の平野へと分散して流れ込む[大和川]とは別に、もう一本南に[新・大和川]を作って、そこへ水を流し込もうという方法でした。
 甚兵衛たちは庄屋の仲間は、何度も話し合い、その草案を持って江戸幕府に頼みに行きました。
 しかし、新・大和川の川筋に当たる地区の根強い反対運動にあって、中々工事まではいきませんでした。
 そして結局、幕府がこの川の付け替え工事を承認するまで、40年掛かりました。
 ・・40年、なんと長い嘆願運動でしょう。
 もはや、老年期に入った中甚兵衛さん。
 自らの人生のほぼすべてを使った嘆願運動でした。つづく

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