住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その2)

(中甚兵衛 後編)
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宝永7年(1714)、新・大和川の付け替え工事が始まりました。
 工事は、川下の堺の海側から開始されました。
 幕府と各命じられた藩が競うように、分担区間を工事してゆき、結果的にわずか8か月間で、シン・ヤマト川は完成しました。
 堺から河内の国[志紀郡柏原村(現柏原市)]の合流地点まで、長さ約14キロメートル・幅180メートルの新・大和川はここに完成したのです。
 この時、甚兵衛も『普請御用』という役を幕府からもらい、息子と一緒に現場で指揮したそうです。(詳しくは、このホームページの出前メニュー127の『中甚兵衛ものがたり』を見てください)
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 この付け替え工事によって、中河内の村人は大きな水害からまぬがれる事ができました。
 中河内とは今の『東大阪市・八尾市・柏原市などエトセトラ』です。
 又、鴻池(こうのいけ)新田を初め(約1050ヘクタール)の新しい田んぼや畑が、川の水が無くなった所に開発され、農業が盛んになりました。
 干上がった砂地は水はけが良く、綿栽培が最適で、こうして中河内一帯は全国一の『綿作地帯(河内木綿)』になり、大阪の大発展に貢献しました。
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 しかし、付け替え工事の南側(主に堺市や今の大阪狭山市の一部)では排水が機能せず、結局水害からは逃れる事ができず、住民に迷惑を掛けました。
・・・それが原因かどうかはわかりませんが、
 中甚兵衛は、川の付け替え工事完成の翌年、頭をそって仏教に帰依してその後、表舞台には出ずひたすら信仰に生きたそうです。・・しらんけど。
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 さて、ここで少し時間を戻して・・、
 もう一人の甚兵衛さんのお話に移りたいと思います。
 新大和川が完成した時、ひとりの若い商人が、商いで堺への道中、この川沿いを歩きながら、一人つぶやきました。
(もうひとりの甚兵衛)「ほぉー、これが中甚兵衛という御方が付け替えたという新大和川か!‥立派なものだ。私の名前も甚兵衛(じんべえ)。・・まぁ、中甚兵衛さんとは縁もゆかりもないが、同じ名前だ!
 この大和川をご縁として、私も社会に貢献できる仕事がしてみたいなぁ・・。」
 この若者の名前は[加賀屋(かがや)の甚兵衛]と言いました。
 中甚兵衛さんとは、40才ほど違う若手気鋭の商人でした。
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(二人の甚兵衛の年表)
 つづく

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