住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その3)

※余談だが、この紙芝居制作には僕自身にも不思議なご縁がある。
 僕が紙芝居を作り、そして演じるきっかけになった場所が、「北加賀屋」駅近くにあった『特別養護老人ホーム白寿苑』というところである。(もちろん今もある。[笑])
 毎月、こちらに紙芝居法話を演じに、富田林駅から行かせて頂いていた時、この地下鉄「北加賀屋」駅で降りた時、いつも「へんな名前の駅だなぁ?・・昔に大きな旅館か料亭があったのかな?」と思っていた。まさか、この駅の名前が『加賀屋甚兵衛』の名前から付けられたものだと思わなかったのだ。
・・毎月、僕は加賀屋甚兵衛さんの生まれた所(富田林)から電車に乗って(途中から車に変えたが)加賀屋さんの新田会所まで行っていたのだ。
 又、加賀屋甚兵衛さんの旦那寺である[明尊寺]様へも『紙芝居法話』で二度ほど行かせてもらっている。・・ここでは書かないが中甚兵衛さんにも不思議なご縁があった。
・・それがわかった時、これは紙芝居を作らねばいけないなと(勝手に)思い、この紙芝居の制作に入ったのである。余談が長すぎた。・・話に戻ります。
(加賀屋甚兵衛 前編)
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 加賀屋甚兵衛さんは、延宝8年(1680)に、河内の国石川郡(現在の富田林市喜志町)で生まれました。
 11才で大阪淡路町(現在の本町近くか?)の両替商(今の銀行のようなものか?)の[加賀屋]という店へ奉公人として入りました。
 そして35才で『のれん分け』、つまり独立開業を許され、自分の店を持ちました。
 ここで[加賀屋の甚兵衛]という名前になります。
 甚兵衛さんは商売で堺へ行く途中、この新大和川をいつも眺めながら、新事業を夢見ていたのです。
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 この頃、大都市大阪は人口が増え、農作物の収穫を増やす為、農地の開発(これを新田といいます)が盛んに行われていました。
 財力のある商人は、川沿いの土砂で干上がった土地などを工事して、新田作りに挑戦していたのです。
(甚兵衛)「新大和川の河口部(今の住之江区西側)も土砂で干上がっていたなぁ・・。あの部分を干拓すれば、きっと立派な新田が出来るに違いない!」と、加賀屋甚兵衛も開発工事に挑戦したのでした。
 この時、甚兵衛45才。大工事が始まりました。
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(甚兵衛が作った高崎神社)
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(甚兵衛がこちらも故郷富田林の神社から分け御霊をもらい造った高砂神社)
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(甚兵衛)「なんとか、この地に立派な新田が出来ますように!そして水害から守ってもらえますように!」
 と甚兵衛は自分の故郷富田林の喜志にある産土神社から分け御霊を頂戴して、新田工事の場に『高崎神社』と『高砂神社』を建てて祈念しました。
(甚兵衛)「この新大和川の上流は、自分の故郷富田林につながっている。だから故郷の神様、どうかこの地もお守りください!」と信仰心の篤い甚兵衛さんは常に祈りました。
 そしてその後、本業の両替商も止めて、新田開発一本に打ち込みます。つづく

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