いつしか善兵衛さんは37才になっていました。
今や一人前の科学技術者となった善兵衛さん。
大阪貝塚の自宅に帰り、本格的な[望遠鏡]作りを開始しました。
そして寛政五年(1793)、ついに新たな高性能の[望遠鏡]が完成したのでした。
善兵衛さんは、それを『窺天鏡(きてんきょう)』と名付けました。
そしてその年の七月・・・、
京都伏見の恩師の元(=『黄華堂(こうかどう)』)に、窺天鏡(望遠鏡)を持って行き、そこで当時の文化人たちと共に、日本初の『天体観望会』を開いたのです。
その観望会に出席した文化人の一人の先生がこう記録しています。
(以下、現代語私訳)「・・この望遠鏡は普通の物より10倍は長い。・・木星を観ると本当に円形をしており、まるで満月のようである。・・これを作った大阪貝塚の善兵衛という男、世にまれなたくみ職人である。」と。
この成功に自信を得た善兵衛さんは、この後さらに工夫を重ね、新たな望遠鏡を作り出していきました。
又、模倣品の防止の為か、自分のオリジナルシンボルマーク(車の形)をあみ出して、望遠鏡に塗装しました。
(貝塚市:善兵衛ランド)
(善兵衛さんの窺天鏡(望遠鏡))
つづく
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紙芝居:『星に願いを~岩橋善兵衛ものがたり』(その3)
紙芝居:『星に願いを~岩橋善兵衛ものがたり』(その2)
「よしっ、わしは学問をする!一生懸命勉強して、西洋にも負けない[望遠鏡]を作るぞ!・・そして、あの星の流れやその秘密を明かしてみせるぞ!」と、善兵衛さんは志をたてました。
そして、メガネレンズを売って儲けたお金を、旅費と学問費に充てて旅に出ることにしました。
善兵衛さんは、望遠鏡レンズの事をよく理解している自然科学・物理学の先生(医者で文化人・学者の[橘南谿(たちばななんけい)]師や儒学者・文化人の[皆川淇園(みながわきえん)]師)を探し出し、それらの先生が京都に居られる情報をつかんで旅立ちました。
が、もともと仕事が忙しく、学問をする時間も無かった善兵衛さんです。
だから、先生の塾に入門しても、難しい言葉やその意味を必死で勉強しなければなりませんでした。
が、頑張り屋の善兵衛さんは、長い時間を掛け、根気よく、熱心に勉強したのでした。
(善兵衛の作った望遠鏡)
つづく