住職のつぼやき[管理用]

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『仏説落語の会』in〔天満天神繁昌亭〕に行ってきました

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 昨日、大阪天満の〔繁昌亭〕に、『仏説落語(プロの落語家さんによるお説教落語)』なるものを見て来た。
 入場料をちゃんと払って見て来たので、好きな感想を言わせてもらうが、(僕自身は)50パーセントの笑いであった。
 なぜか?・・理由は二つある。
 プロの落語家さんたち(監修はプロのお坊さん)が、〔悩める現代社会の為に、仏教に生きるヒントを見出したい!〕と、志を立て、仏教を『笑い』ながら、学んでもらおうと、この『会』を起こされたようなのだが、・・・やはり、落語の内容も、噺家さんのスタイルも、〔仏教もどき〕で終っているような気がするのだ。(もちろん、それはそれで良いのだろうが・・、お客もそこまで求めてないのだろうが・・。)
 なぜか、落語家さんの活躍舞台を『お寺』に広げたいという『商業欲』のような匂いが鼻についてしまうのだ。(会場に、お坊さんたちも、観客として半分以上は来られていたと思うので、自分の『お寺』に、落語家さんを招いて、お参りの方の集客数を上げたいという、その『集客欲』の気持ちは解る。・・又、「需要と供給がぴったり合っているのでエエじゃないか」と言われれば、返す言葉もない。)
 ・・が、が、やはり噺家さんは話はうまいが、(噺家さん自身に)『信心』の浅さを(話の中身から)感じてしまうのだ。(そんなトコまで、味わう奴おらんやろ~と、言うかもしれないが、今後、このような『仏説落語』をお寺で広めていくのなら、噺家さんの『信心の有る無し』は、重要なことだと僕は思ってしまう。)
 余談になるが、以前、うちのお寺に来て、『仏教落語』をして下さった《イベント坊主ご住職》さんの話の方が、(話は荒削りだが)信心の大切さは、(身体から出るオーラのようなもので)キチンと伝えてくださっていたように感じた。おそらく、それはうちの門徒さんも感じられたはずだ。(イベント坊主さん、偉そうなことを言ってすみません)
 でもでも、仏教落語をするなら、絶対っ、『信心』の有る無しの問題は、避けれない事だと僕は思うのだ!!
 ・・長くなったが、もう一つ。
 落語の中身の問題。
 僕が昨日見た、『仏説落語』も、古典落語とよく似たパターンで、たとえば、『物知りのAさんの家に、アホなBさんが尋ねて、〔仏教〕の講釈を聞く。・・感激したBさんは、生半可な理解で、それをCさんに教えに行くが、むちゃくちゃな講釈をして、反対にCさんにやり込められる』とパターンである。・・どの話もみんな。・・これでは飽きる。 
 やはり、お寺をターゲットにして、志を立てて『仏説落語』を流行らせようとするなら、内容も色々と練り直した方が良いと思う。
 でないと、それこそ、飽きられてしまうような気がするからである。
 今日は、《『仏教』と『落語』は、親戚である!》と、常に思っている僕の苦言になってしまった。
 「せっかく、銭払ぉて笑いに行ったのに、ホンマ、ドンならんなぁ」と、落語の中の住人なら言うかもしれない。
 

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