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紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その2)

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幕府軍「なんじゃ、このボロ砦。一日で潰せるわい!皆の者、かかれー!」と、幕府軍は笑いながら[赤坂城]に挑みかかりました。
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 すると、塀は崩れ、丸太や岩石が転がり落ちて来たのです。
幕府軍「ひぇー、この砦、カラクリがあるぞ!・・まるで、『風雲たけし城』のようじゃー。」
楠木軍「ざまぁ、みやがれ!ナハナハ、ナハぁ。コマネチッ!」
幕府軍「うわー、こりゃたまらん!引け、引けー。」と幕府軍は初戦は大負けしたのでした。
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 こののち、『楠木正成という男、只者ではない』と幕府軍は恐れ、城を攻めず、ぐるりと囲んで兵糧攻めにしたのでした。
 そして、20日ほどが経ちました。
 城の中の食料は無くなり、又、京都で旗揚げした[後醍醐天皇]も捕らわれたという噂も流れてきました。
 そこで正成は、自ら城に火をつけ、ひそかに脱出したのでした。
 正成は(河内弁で)思いました。
「この戦、まだ負けたわけやないで。わしのような小さな豪族が、天下の幕府軍相手にここまで戦えたんや。・・きっと全国の武士たちは『幕府なんて怖くない』と、思ったはずや。・・そんな武士たちは、やがて民たちの声に押し上げられ、立ち上がるはずや!・・それまで、わしは身を隠そう。それからや・・。」と。つづく
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(千早赤阪村・赤坂城跡1)
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(千早赤阪村・赤坂城跡2)

紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その1)

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 時は鎌倉時代の末期。
 民の幸せを考えず、時の政権[鎌倉幕府]の権力者たちは、好きな事をやりたい放題、し放題。
 民は、重い税金に苦しんでおりました。
 それを憂いて、反旗を掲げ立ち上がったのが、『後醍醐(ごだいご)天皇』でありました。
 しかし、天皇側は如何せん、幕府に対抗できる武力がありません。
 そこで、天皇は[知恵]と[人望]と[勇気]を持った一人の武将に目を付けました。
 その武将こそが、大阪は南河内《千早赤坂(ちはやあかさか)》の山里に住む[楠木正成(くすのき・まさしげ)]公だったのです。パパンパンッ!(扇子で机をたたく音)
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 後醍醐天皇は、正成を呼びました。
帝「そちが、楠木正成か?朕(ちん)は後醍醐の帝(ミカド)じゃ。
 正成、どうすれば、幕府に勝てるか?教えよ。」
正成「はい、帝。武力では、とうてい幕府軍に勝てまへん。 ・・しかし、万民の心を味方にすれば、負けへんでしょう。
 万民の心の先駆けとして、この楠木正成、幕府軍に戦いをいどみまひょう。」
帝「うむ、頼んだぞ、正成!」
 こうして、正成は地元[南河内]で、反旗を翻したのです。
 この時、楠木正成、37歳でした。
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 『南河内の楠木正成、帝に味方し、幕府に戦いを挑む!』、という知らせは、関東の鎌倉幕府にすぐ知れました。
 幕府軍は数万の軍隊で、正成が籠る河内『赤坂城』を囲みました。
 楠木軍は、わずか五百人。
 しかも大半が、日頃は百姓をして暮らしている地侍たちだったのです。 
 さぁ、どうなる正成軍!どうする正成!パパンパンッ。つづく
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(千早赤坂村・楠木正成生誕の地)
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(同じく、生誕地すぐ近くの正成公産湯井戸跡)