住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『白骨の御文章~蓮如上人からのお手紙2』(その2)

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そして、娘はその日の夜、あっけなく亡くなってしまいました。
 民部(みんぶ)の夫婦は、それは驚き悲しみました。
 がしかし、氷のように冷たくなった亡骸はどうする事も出来ません。
 隣近所や友人達が手伝い、その次の日、娘の遺体は野辺送り(火葬)となりました。
 そして後に残ったのは、白い骨だけとなったのでした。
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「これが、待ちに待った娘の嫁入り姿なのか?!・・おぉっ、おぉっ・・」
と、民部は変わり果てた娘の骨を手に乗せて、泣き崩れました。
 ・・そして、その夜、民部も同じように息絶えてしまったのでした。
 又、妻も後を追うかのように、数日後、亡くなりました。(これは明らかに伝染病やね・・)
 こうして、数日の間に一家全員が亡くなってしまったのでした・・。
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 そしてその後、親類縁者が集まって相談して、残された民部の家財道具一式は、家族が信仰していた蓮如上人のお寺に寄進されることになったのでした。
 その時の事。縁者の一人が、蓮如上人に願い出ました。
「蓮如さま、民部一家の事は大変つらい出来事でした。
 どうか、私たちに人の世の無常のことわりを表し・・、又苦しみを和らげる・・、そんな御文(ふみ)を書いてはいただけないでしょうか?
 お願いいたします!」と。
「よし、わかった。すぐに筆を取ろう!」と蓮如上人は答えられました。つづく

紙芝居:『白骨の御文章~蓮如上人からのお手紙2』(その1)

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『朝(あした)には紅顔ありて 夕(ゆう)べには白骨(はっこつ)となれる身なり・・』
 この文は、浄土真宗の葬儀などの場で、読まれる『御文章(ごぶんしょう)』の中の[白骨の章]という有名な一節です。
 作られたのは浄土真宗八代[蓮如(れんにょ)上人]というお坊さんです。
 ご門徒(信者)に向けて、人の世の無常のみ教えを、手紙の形で書いておられます。
 さて、この紙芝居は蓮如上人がこのお手紙を書かれたエピソードを物語にしたものです。
 それでは始まり、はじまり~
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 昔々の室町時代。
 京の山科(やましな)という所に、[青木民部(あおき・みんぶ)]というお侍が住んでいました。
 民部には妻と娘が居り、貧しいながらも、つつましく幸せに暮らしておりました。
 そして、この家族は自宅近くにあった蓮如上人のお寺によくお参りをしておりました。
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 ある時、民部の娘に身分の高いお武家からの、たいへん良い縁談の話が持ち上がりました。
 この話はすぐにまとまり、民部はそれは喜び、先祖伝来の鎧などを売りお金に換えて、嫁入り道具をそろえました。
 ・・そして、結婚式の当日の朝を迎えました。
 「お父様、お母様、今までお育て頂きありがとうございました。」とあいさつを終えたその時・・、
 娘はフラッとその場で倒れてしまったのです。つづく
 

紙芝居:『蓮如上人からのお手紙~伝染病について』(その5 最終回)

 そして最後に蓮如上人は次のようにおっしゃいました。
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『このような時代じゃからこそ、御門徒の皆様には、今まで言いました事をお忘れなき様お願いいたします。
 ・・私達は皆、阿弥陀如来の救いの中にあるのじゃよ。もったいない事、もったいない事、南無阿弥陀仏。』
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このお手紙を聞いて、御門徒達はハッとしました。
「・・蓮如様の仰るとおりじゃ。
 この病気に罹らなくても、いつかはワシらの死んでゆく身であった。
 その事を蓮如様は思い出させて下さった。
 一日一日を大切にして、頂いた命をありがたく過ごそうぞ。なっ、皆の衆!南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。」 
 こうして念仏道場は、安らかで力強いお念仏の声が響き渡ったのでした。おしまい
 (終わりに)
 現在、世界中で[新型コロナウイルス]が猛威を振るい、我々は不安な日々を送っております。
 このような病や死を身近に感じる時、私達は蓮如上人からのお手紙の中で、「我々は死んでゆく身である。」と改めて学ばせていただきました。
 そして不安に思う私たちへ、「限られた命を大切にして欲しい。阿弥陀様が見守ってくださっている。」とメッセージを受け取らせていただきました。
共に悩み、共に苦しみながらも、お念仏のみ教えを聞き、共に歩んで参ろうではありませんか。合掌

紙芝居:『蓮如上人からのお手紙~伝染病について』(その4)

 蓮如上人のお手紙はつづきます。
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『・・だがな、阿弥陀如来は常に私達を見守って下さっておられる。
 必ずお浄土へ連れて行くと誓われた仏様じゃ。
 御門徒達よ、私達が気づいていない時でも、阿弥陀如来は私達を救おうとされているのじゃ。
 この事を今一度思い出してくだされ。
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 ・・私達の不安な気持ちは消えるものではない。
 しかし、そんな私達一人一人を必ず救うと阿弥陀如来はおっしゃってくださっておられるのじゃ。
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 私達は「南無阿弥陀仏=[仏様ありがとうございます]」と、そんな阿弥陀如来に向かって感謝のお念仏を常に申すのじゃ。
・・皆様方の不安な気持ちはこの先もつづくじゃろうが、どうか阿弥陀仏を信じ、限られた命を大事にしてくだされ。』つづく

紙芝居:『蓮如上人からのお手紙~伝染病について』(その3)

・・御門徒の一人が、蓮如上人からのお手紙を読み始めた。(以下、私訳)
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『御門徒の皆様へ
 この頃、悪い疫癘(伝染病)が流行り、多くの人が亡くなっておられる。
 そちらの皆様も、さぞやご心配のことじゃと思われます。
 しかし、思い出してみて下されや。
 人は生まれた時から、皆死ぬ事が決まっておろう。
 それが私達の頂いた命のことわりというものじゃ。
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 今、多くの人達が伝染病で苦しんでおられる。
・・さぞや不安であろう。
 しかし、伝染病に罹った者は死に、罹らなかった者は死なないという事ではないのじゃ。
 私達はこの病気に罹らなかったとしても、いつかは命の終わりを迎えるのじゃ。
 助かろうとして、まじないや祈祷を行なっても、寿命を変えられる訳ではないのじゃ。』つづくじゃ

紙芝居:『蓮如上人からのお手紙~伝染病について』(その2)

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ここある村の念仏道場も・・、
「ナマンダブー、ナマンダブー・・」
この日もたくさんの御門徒(信者)さん達が集まり、お念仏を称えておりました。
 その一人の御門徒が悩みを話し始めました。
「伝染病は怖いのぉー。この前もわしの親戚が亡くなってしもた。・・いよいよ、人ごとでなくなって来たんじゃ。」
 それを聞いて、「わしらも、罹ったら死ぬんじゃろうか?これはわしらの行いに関係があるのかのぉ〜。」
「なんや、隣りの村ではまじないや祈祷をしたけんど、効かんかったらしいぞ!?」
と伝染病について話し合っておりました。
その時、一人の御門徒が走って道場に飛び込んで来ました。
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「おっおーい、皆の衆!今、蓮如様からお手紙が届いたぞー!」
「それは有難い!蓮如さまもきっとワシらの不安な気持ちを思いやって下さったんじゃろう!・・お前、その手紙を読んでくれ!」
「よしっ、皆、集まってくれ。・・うーん、何、なに」 つづく
つづく

紙芝居:『蓮如上人からのお手紙~伝染病について』(その1)

【御文章[第四帖九通]『疫癘(えきれい)の章』より】
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昔むかしの室町時代。
 この年[延徳4年(1492)]は、伝染病の流行により、多くの人々が亡くなっておりました。
 そこで、朝廷は[明応]と元号を改めましたが、一向に事態は良くなりませんでした。
 浄土真宗の本願寺第八代の『蓮如(れんにょ)上人』は、この当時流行していた伝染病にたいへん心を痛めておられました。
 そしてご門徒たちに一通のお手紙をお書きになります。
 それが『疫癘(えきれい)の御文(おふみ)』と呼ばれるものでした。
 疫癘というのは、今でいう伝染病のことです。
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 ここある念仏道場も・・。つづく

紙芝居:『悲劇のゼンメルワイス医師「それでも手を洗え!』(その5 最終回)

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 そしてゼンメルワイスは、44歳の頃から精神のバランスを崩して、躁鬱病を発症。
 やがて、おかしな行動を取るようになり、ついに彼は認知症を発症、精神病院に入院します。
 が、入院してから僅か2週間で院内で暴れ出し(脱走を試みたという説あり)、職員が彼を取り抑えようとして暴行。
 そしてその時の傷が元で、僅か47歳で亡くなりました。
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 イグナーツ・ゼンメルワイスは、[手洗い消毒法]を考え出した偉大な医学者でした。
 がしかし、医療者達がゼンメルワイスが言ったように、こまめに手を洗うようになったのは、彼の死後2年が経ってからでした。
 又、手洗い消毒法が、健康管理の一環となったのは、それから100年も待たねばなりませんでした。
 今では、『感染制御の父』又は『母親達の救い主』と呼ばれるゼンメルワイスですが、その生涯は短く悲劇的なものでした。
おしまい

紙芝居:『悲劇のゼンメルワイス医師「それでも手を洗え!」』(その4)

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ゼンメルワイスの独断専行の性格も悪くとられた事もあったでしょう。
 [消毒手洗い法]という大発見をしたにも関わらず、彼は大学病院の反逆者として、大学者のお偉い方から、大学病院を辞めさされる事になるのです。
 その後・・、
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 彼は故郷ハンガリーに帰り、街の病院や地元の大学などで働き、『手洗いの必要性』を書いた論文を発表します。
 がしかし、彼の説は医学界に広く受け入れられる事はありませんでした。 
 医学者達が、それを無視したからです。
 それはやはり医者が、今まで多くの患者を殺してしまった事を認める事にあったからです。
・・が、それに対してゼンメルワイスは猛反発して反論しました。
 その結果、彼は医師の資格をはく奪され、医学界から追放されます。
つづく 次回、最終話

紙芝居:『悲劇のゼンメルワイス医師「それでも手を洗え!」』(その3)

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ゼンメルワイスは考えました。
「これは空気中の悪い空気が原因ではない。
・・私は[第一産科]の医師達と、[第二産科]の助産婦達をじっくり観察した。
 そして、その決定的な違いを発見した!
 それは[第一産科]の医師達だけが、お産の前に死亡した患者の解剖研究をしていた事が関係する。
 死亡した患者の体を触る事によって、『死体粒子』とでも言おうか、細菌が医者達の手に付着し、その手で妊婦を診察した為、産道に悪い菌が付き病気を起こしたのだ。
・・助産婦はそれをしない。
 つまり原因は、我々医師に原因があったのだ!」と。
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 そして彼は思いました。
「・・ならば、この悪い菌を取り除くには、・・徹底的に手を洗えば良いのだ!」と。
 そこでゼンメルワイスは、上の先生の許可も得ず、産婦人科の部屋の前で、
『解剖室から出て来た医者は、入り口の前の洗面器で徹底的に手を洗う事!』
と書いた紙を貼り、病室の前で医師達を監視続けました。
 他の医師達は「何故、オレ達は手洗いなんてしなくちゃいけないのだ!」とブツブツ・・。
 しかしゼンメルワイスは「それでも手を洗え!」と、もの凄い形相と気迫で迫るものですから、皆はしぶしぶ従いました。
 その結果・・、
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 この塩化カルシウム液を使った手洗いの効果は絶大でした。
 第一産科の産褥熱発症率は激減。
 入院患者の死亡率は劇的に少なくなったのです。
 こうしてゼンメルワイスは、のち『母親達の救い主』と呼ばれる事になるのですが、それはずっと後の事で・・、
 「患者の死亡は、手洗いをしなかった医療者たちに原因があった」と言われた医師達は、皆ゼンメルワイスに敵意を向けたのです。 つづく

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