昨日、14才で肝臓がんで亡くなった愛犬ポッキーの夢を鮮明に見た。
早くこの紙芝居を全部載せよ、という事なのだろうか?・・ペットって忘れられないなぁ。では、続きをどうぞ。
犬や猫たちを乗せた回収車が帰って来ました。
皆、不安げに管理棟へと移動します。
この時、命の選別が行われるのです。
「おお、どの子も可愛いのぉ。全部、譲渡会へ出せんのかねぇ」と所長は言いました。が、それは育てる職員に負担があまりに大きくなる為、無理な事でした。
このセンターでは、収容する半数近くが子犬です。
子犬は野犬が産んだ子もいますが、飼い主が(自分の犬に子供を産まないようにさせる)不妊手術をしなかった為に産まれて、役所に持ち込まれたものも多くいるのです。
その何割かは、新しい飼い主を募集する譲渡会に出されて助かりますが、全てそうはいきません。
その大半は処分されるのです。
飼い主の責任の持てない命は、不妊手術を用いて飼い主によってコントロールされるべきなのに、それをしない為に不幸な命を作り出す結果となるのです。
さて、回収車から下ろされた大人の犬達が、管理棟の中の収容室に移されました。
この犬達は到着してから中五日、長くても中八日で、殺処分されます。
これらの犬は、飼い犬であったせいか、人間を信用しきっています。
職員が管理棟の中に入って来ると、大喜びで尻尾を振って走り寄って来ます。
きっと飼い主が迎えに来てくれたと思っているのでしょう。
が、しかし・・
犬達は収容室から誘導通路を通り、通称[ドリームボックス]という処分機に送られます。
この部屋に二酸化炭素ガスが流し込まれ、犬達は死に至るのです。
つづく
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紙芝居:『犬たちをおくる日(リメイク版)』(その2)
紙芝居:『犬たちをおくる日(リメイク版)』(その1)
コロナ禍、スティホームで人と人との繋がりが無くなり、子犬や猫などのペットを飼う人が増えたとか、・・と新聞に書かれていた。がしかし、その反面安易な気持ちで飼ったがゆえに育て方の難しさから、捨てたり保健所に預ける人も増えたとか・・。
この紙芝居は、原作者の今西乃子先生の許可を得て約10年前に作ったものだ。
内容は命の大切に考えるドキュメンタリー的なものなのだが、今一度[大人向け]にリメイクして、この時期に全て描き直して作ってみようと思った。
それでは、はじまり、はじまり。
「ねぇ、ここはどこなの?
それにどうして、僕を置いてご主人は行っちゃったの?
僕とっても不安だよ。これからどうなるの?」
・・と、言いたげな目でこっちを見ています。
ここは、捨てられた犬や猫たちが集まる動物愛護センターです。
いったいこの後、この動物達はどうなるのでしょうか?
これは、そんな捨て犬達と愛護センター職員のお話です。
ここは四国の愛媛県動物愛護センターです。
場所は松山市街の桜の木々に囲まれた山の中にあります。
このセンターに、愛媛県内20の市や町の犬や猫が回収車で集められます。
ここでの仕事は、主に二つあります。
その一つは、犬や猫を飼っている人、又これから飼いたいと思っている人への相談やアドバイス。又、センターにいる犬や猫の新しい飼い主を募集し譲り渡す会[譲渡会]やイベントの実施です。
これは人と動物が、これから上手に付き合ってゆく為の「知らなかった事に気づいてもらう活動」で、これを[愛護業務]といいます。
そしてもう一つは、
家庭で飼えなくなった犬や猫の引き取りや、野犬や野良猫、迷い犬の収容。そしてその処分や焼却です。
これを[管理業務]といいます。
つまりこのセンターでは、
(1)「犬や猫を可愛いがろうと呼びかける仕事」と、
(2)「捨て犬や猫を処分するという仕事」を行っているのです。
この二つは、まったく正反対の様に思われがちですが、実は根っこの部分で大きくつながっているのです。
愛護センターは、犬や猫の処分を目的とした機関ではありません。
飼い主が、動物への理解や知識が足りない為に放棄した犬や猫の処分を、これからどう減らしていくか、理解してもらうのが目的としてあるのです。
プップー、「バックオーライ。ストップ!」
今日も引き取られた犬や猫達を乗せた回収車が帰って来ました。
つづく
紙芝居:『紙芝居事始(ことはじ)め~私が紙芝居を始めた訳』(後編)
・・それはな、老人ホームには[目の悪い方]や[耳の遠い方]が多かったんじゃ。
そこで男は考えた。
「そうだ!大きな紙芝居を作って、色は原色を使って見やすくし、話はなるべく分かり易く、ストーリーは幼稚にならず、大きな声で仏様に関するお話をしよう。」と。
まぁ、この男は絵を描いたり話を作ったりするのが、小さいころから好きだったんじゃな。
それで、月一回の施設内での『紙芝居法話会』は始まった。
これは職員たちと話し合ってな、不安で夜に眠れないという声に応えて、午後7時半から始めて、時間も長くならないように30分間で終わり、必ず最後は感想を言い合う「語り合う時間」を作ったのじゃそうじゃ・・。
これは当たってな!それから毎月毎月、お年寄りたちはその紙芝居を楽しみに集まり、それからは皆よく眠れるようになったそうじゃ・・と。
それからというもの、この坊さんはせっせせっせと紙芝居を作り・・、
いつしかその数も『200本』近くなった。
又その施設も越えて、その紙芝居とやらを観てみたいという者も多くあらわれ、今では地域の老人会や子供会、お寺などへも紙芝居を持って、演じに回っておるんだと。
『お寺の出前 紙芝居屋亭』と言う名前でな・・。
めでたし、めでたし。おしまい
(終わりに)
この三部作は、第二部の『私が住職になった理由』と第三部の『紙芝居事始め』が微妙に順番が重なりあっておりますがご容赦ください。つまり、住職が先か?紙芝居が先か?と問うならば、紙芝居の方が先なのです。簡単にいうなら、紙芝居を描いていて、結果的にお寺の住職になったと言うことです。
又、一度体調を悪くしてから、今では施設などへの講演もなるべく少なく控えるようにしておりますので、そこのところもご容赦ください。おわり
紙芝居:『紙芝居事始(ことはじ)め~私が紙芝居を始めた訳』(前編)
むかーし昔とは違い、これは平成8年(1996)のお話じゃ。
ある所といっても、大阪市は西成区に[白寿苑(はくじゅえん)]という、特別養護老人ホームがあった。
ある時、こちらの施設長は考えなさった。
「‥この頃、うちのお年寄りたちは夜中によく眠れぬと言っておる。皆、何らかの不安な気持ちがあるのじゃろう。
・・何か気持ちを安らかにしてあげれる良い方法がないものじゃろうか?
・・おぉっそうじゃ⁉良い事を思いついたわい。確かうちに、毎月ボランティアでやって来るあの宮本という若者・・いやいや中年がおったわい。
あの男は坊さんじゃと言うておったのう。
あの男にうちで『仏様のお話(法話)』をしてもらうように頼んでみよう。
‥と言うわけで、さっそく施設長はその男に訳を話してみたそうじゃ。
男は大そう喜んだ。「それは仕事冥利に尽きる」と。
そしてすぐに引き受けた。
しかし、困った事があった。・・つづくじゃ
紙芝居;『私が住職になった理由(わけ)』(後編)
この話は冒険でした。
大阪とはいえ、広うござんす。
見知らぬ土地で、見知らぬ人達と一緒に住むというのですから・・。
しかも、妻と子供も一緒に来て欲しいというのです。(親とは離れて)
この時ばかりは悩みました。
僧侶になったからには、一ヶ寺の住職になって自分流の運営をしてみたい。
がはたして、こんなスタイルで生活が上手くやっていけるのか?
又、いつかきっと老姉弟の介護の問題も起こってくるに違いない。その時はどうするか?
いろんな問題を想像して、それから妻と子供達と残してゆく両親と何日も話し合いました。
そして最後に「やるだけやってみよう!」という結論に達しました。
両親も「店の事は心配するな、いずれは閉める。行って来い」と言ってくれ、妻も「あなたの夢について行く」と言ってくれました。
一方、お手伝いをしていたお寺も、ご子息さんが後を継ぐ事に決まり、心置きなく出発できる事になりました。
そして平成10年の夏、引っ越し。
見知らぬ土地での他人との同居生活が始まりました。
がやはり、上手くいきませんでした。
最初はお互い遠慮し合って、上手く生活していたのですが、その内、生活習慣の違いから話しがこじれ、やがて老姉弟は別居される道を選ばれました。(親戚の近所に家を買われ移られました。)
そしてお寺には私達家族だけが残りました。
結果的には、後味の良いものではありません。がしかし、正直この様な選択しかなかったのです。
こうして、私は「観念寺」の住職になりました。
今でも「これで良かったのか?」と悩む事があります。
がしかし、観念寺の檀家さん達から「住職さん、これからこの寺を頼みます!」と言われる度に、責任を感じ身の引き締まる思いがします。
ご縁あって、住職になったのです。
これからも、檀家さんの為に、世の為人の為に、仏様の元精進して行きたいと思っています。ご縁ある皆様、これからも御鞭撻のほど、宜しくお願い致します。おしまい
(終わりに)
平成18年、「宮本酒店」は閉店し、父も亡くなりました。母は健在です。
又、お寺を守っておられた老姉弟も老衰で亡くなられました。
現在、観念寺は私の娘が、次期住職として精進しております。
もちろん、私も住職として、バリバリ現役です。
最後に余談になるのですが、このお話では、私の弟が出てきませんでした。話がややこしくなるのでカットしたのです。(弟、すまん!優しい兄思いの弟です)
現在、弟は三重県で、家庭を持ち公務員になって働いています。
これで、第二部が終わりました。
いよいよ、第三部は、何故?私が紙芝居を制作するようになったかを、お話します。題して「紙芝居事始〜私が紙芝居を始めた理由」です。
紙芝居:『私が住職になった理由(わけ)』(前編)
私が後悔しない僧侶の道で生きていこうと思ってから、何年かが経ちました。
がしかし、相変わらず酒屋の二階に、家族(父母、妻と子供二人)と共に暮らして居ました。
さてこの紙芝居は、私がお寺の法務員(役僧)から、今のお寺(観念寺)の住職になるまでのお話です。始まり、はじまりー。
宮本酒店の規模は縮小し、父親一人でも運営出来るようになっていました。
・・というよりも、時代の波でお酒を置いたコンビニが増えだし、ウチのような小さな酒屋は縮小せざるを得なかったのです。
私は相変わらず、お寺の仕事をしながら、酒屋の仕事も手伝っていました。
又それとは別に、休みの日には、その頃[仏教ホスピス活動]と呼ばれていた[ビハーラ活動]にも参加していました。
これは、老人ホームや病院などへ宗教者が出向き、様々な奉仕活動をさせて頂くものです。
私はこのような[宗教と福祉と医療]が共に手を携えて、社会の為に貢献してゆく奉仕運動が本来したかったのです。(ちっちゃな事ですが)
この活動が私の運命を変えました。
ある日、このビハーラ活動の恩師から、次のようなお話がありました。
それは、平成10年の春でした。
恩師は私に突然言われました。
「大阪は南河内に後継を探しているお寺がある。
良かったらそこに来ないか?新住職として迎えるから・・」と。
「・・ただし、」と話しは続き、
「すでに、その寺には留守番僧として、老人姉弟が住んでいる。
その御老人達と暮らすのが、条件なのだが・・」と言われたのでした。つづく
紙芝居:『私が僧侶になった理由(わけ)』(後編)
そして、私は午前中、法衣を羽織り[檀家参り]をして、
午後からは(酒屋に戻り)、前掛けをして[お酒の配達]という[二足のわらじ]を履くという生活が始まりました。
やがて、檀那寺の御住職は腰痛の手術の為、病院に入院されました。
するとやはり、私のお寺の仕事は増え、今度は酒屋の仕事が疎かになり始めました。
父が怒り出しました。
当然です。
配達要員が居なくなったのですから・・。
父はそして堪忍袋の緒が切れました。
「商売をするのか、僧侶でいくのか?はっきりしろ!」と。
私は最終通告を出されました。
悩んだ末、私は恩師に相談に行くことにしました。
その恩師は私に言われました。
「人間というものは、いつか必ず死ぬ。・・それがいつかは分からぬが、その最後の臨終の時、『この仕事を選んで良かった』と思える道を選びなさい。君は酒屋か、僧侶か、どちらが後悔しないかな?」と言われたのです。
私はこの一言で、「後悔しない」と思う、僧侶の道を選びました。
そして、父にも自分の意志をはっきりと言いました。
父はがっかりしていましたが、「お前が選んだなら、それで良い」と最後は言ってくれました。
そして私は、正式にお寺の役僧(法務員)になったのでした。
第一部、おしまい 第二部『私が住職になった理由(わけ)』につづく
紙芝居:『私が僧侶になった理由(わけ)』(前編)
『お寺の出前 紙芝居屋亭』亭主の宮本直樹です。
私は出前先で、「なぜ?在家(一般の家庭)の者が、お坊さんになったのですか?」とよく聞かれます。
又、「なぜ?今のお寺の住職に?」とか、
「なぜ?紙芝居を作って演じるようになったの?」とかも聞かれます。
・・という事で、今回は[3部作]にして、その質問に「紙芝居」でお答えしようと思います。
題して第一部、私の短い自叙伝もどき「私が僧侶になった理由(わけ)」から始めたいと思います。はじまり、はじまり〜。
私は昭和35年、大阪の小さな酒屋の長男に生まれました。
店は私で3代目。当然、小さい頃は自分も大きくなれば、酒屋を継ぐものだと思っていました。しかし・・、
いつの頃からか、宗教に興味を持ち、学校も仏教の大学を選んで進みました。
大学卒業後は、結婚もして、酒屋の跡取りとして店を手伝い始めました。・・それが父親との約束でしたので。
が、どうしても心は満たされず、神仏、そしてスピリチャルなものに常に向いておりました。
ちょうど、そのような時・・.
私の家にお参りにくださっていた檀那寺のご住職が腰痛を起こし、「お参りを空いている時間だけ手伝ってくれないか?」という話が起こりました。
御住職には息子さんが居られましたが、まだお若かったのです。
「僕がお坊さんになる!?」というこのお話は、私自身の心の中のモヤモヤ感や闇を、照らす一筋の光に感じました。
両親も「困っておられる檀那寺を助け、空いている時間だけなら良い。」と賛成してくれて、このお話をお受けすることになりました。
後編へつづく。
紙芝居:『白骨の御文章~蓮如上人からのお手紙2』(その4 最終回)
『・・遺体はそのままにしておけないので、野辺に共に行き火葬する。
すると、夕方から夜にかけて煙となって、後には白い骨だけが残る・・。
あぁっ、なんと哀れな事じゃろう。
・・さてさて、死ぬことを考えると、人間のはかなきことは年寄りが先か、若者が後かは決まっておらぬ。
だから皆さま方、いつかやって来る[死]というものを、常に忘れないようにして下され。
そして、今を大切にして下されや。
もっとも大切なことは、極楽浄土へと導いて下さる[阿弥陀様]を頼りにして、お頼み申し上げることじゃ。
それは、お念仏することなのじゃ。
お念仏して下されよ。・・南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ。
・・もったいない事、もったいない事。合掌』
こうして青木民部の縁者たちは、涙してこの『御文(おてがみ)』を味わいました。
「・・なんとっ、わが身に迫る無常な思いが心にしみる。
蓮如さま、ありがとうございました。ナムアミダブツ、南無阿弥陀仏・・」と。
その後、このお手紙は『白骨の御文章(御文)』という名で、ご門徒たちに広く伝わり、時代を越えて多くの人に拝読されることになったという事です。 おしまい
(ほんの少しあとがきを・・)
以前、私の友達の僧侶から「蓮如上人の『白骨の御文章』は、蓮如さまのオリジナルではないよ。あれは、縁者にあたる[存覚(ぞんかく)]様と後鳥羽上皇の文章を基に、蓮如さまが作られたものだよ。」と聞いたことがある。
僕は「へっ~、そうなの⁉」と聞いていろいろと調べてみたら、その通りであった。・・知らんけど、(笑)・・本当の史実はどうなのかは?
・・しかし、この文章の持つ響きや深さ悲しさは、蓮如上人が持つ人間的魅力(発せられるインパクト)にぴったりではないかと、この紙芝居ではあえて『蓮如上人からのお手紙』という題名にさせて頂いた。余計なことだけど少し足させていただく。
紙芝居:『白骨の御文章〜蓮如上人からのお手紙2』(その3)
こうして蓮如上人は筆を取られました。(以下、現代語訳)
『さてさて・・、人の人生の移り変りをじっくり考えてみると、生まれてから死ぬまでの間は、幻のようにあっという間なのだ。
なぜなら、この世に1万歳も生きた人などいないからじゃ。
一生なんて、あっという間に過ぎてゆくのじゃよ。
100歳になって、元気で過ごして居られる人なんて、本当にまれじゃ・・。
死ぬのは自分が先なのか?
他人が先なのか?
・・それも今日なのか?明日なのか?
それもわからない。
人の命は、草の葉先の露や根元にかかっている滴のように、遅い速いの違いはあれ、いずれは落ちて無くなってしまう。
朝には元気な顔であっても、夕方には白い骨となってしまうような、そんな身なのじゃ。
無常の風が吹けば、二つの目はたちまちに閉じる。
そして息は絶える。
その元気だった顔も美しさも失い、親戚や家族が集まって嘆き悲しんでも、どうすることもできぬのじゃ・・。』
つづく