住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『上田秋成ものがたり』(その1)

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今からおよそ290年ほど前の江戸時代のおはなし。
 美しくも悲しい『雨月物語』という怪奇小説を書いた[上田秋成]は、大阪は賑やかな曽根崎新地で生まれました。
 彼は作家であり、国学者であり、医者でもありました。
 それでは、多芸多彩で波乱に飛んだ上田秋成のお話をさせて頂きましょう。
 はじまり、はじまりー。
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 上田秋成は、幼少[仙之助(せんのすけ)]と言いました。
 仙之助こと[秋成]の実の両親については、はっきりとは分かっていません。
 彼は4歳の時、[上田家]という紙油の商家にもらわれて養子になりました。
 上田家は裕福な家で、秋成はそこの両親の跡取り息子として大事に育てられたのです。
・・が、秋成は5歳の時に【天然痘】という疫病に掛かってしまいます。
 信心の篤かった養父は、秋成が回復するように、『加島稲荷=[現・香具波志神社]』で懸命に祈ります。
 その甲斐あって、指に後遺症は残りますが一命は取り留めることは出来ました。
 のち、秋成は一生この神社を大切にして、お参りを欠かせませんでした。
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(香具波志神社・大阪市淀川区)
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(神社のすぐ横にある秋成の墓?※見つけにくい場所でした)
つづく
 

紙芝居:『万能の天才レオナルドダビンチ』(その5最終回)

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幅広い分野でその才能を発揮して、のち『万能の天才』と呼ばれたレオナルドダビンチ。
彼はルネサンスの激動の時期を生き抜き、波乱の生涯を終えました。
絵画だけではなく、建築、科学などの分野でも天才と呼ばれた世界的偉人レオナルドダビンチ。
この万能の天才の名にあやかって、今、日本医学界にも[万能医療ロボット『ダビンチ』]と名付けられた「内視鏡手術支援ロボット」が出来上がり、治療の難しい現代の手術を幅広く活躍させています。
この紙芝居を描いた私も、この「ダビンチロボット」に助けられた一人として、病室で、感謝の心を持ってこのお話を描かせてもらいました。
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さてそれでは最後に、ダビンチの残した言葉を少し書かせていただいて紙芝居を終わらせて頂きます。
『芸術に決して完成ということはない。途中で見切りをつけたものがあるだけだ』
おしまい

紙芝居:『万能の天才レオナルドダビンチ』(その4)

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そしてレオナルドは(イタリアの)ベネチアや若い頃に修行したフィレンツェ、そしてウルビーノなどへ旅をします。
ウルビーノでは彼は軍事技師、建築技師として雇われ、軍隊に同行します。
が、戦いを各地で目の当たりして、レオナルドは戦争に嫌気がさし、戦場をある日突然去ります。
そして再びフィレンツェに向かいました。
そのフィレンツェで、レオナルドは生涯のライバルに出会うことになります。
その名は[ミケランジェロ]でした。
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ミケランジェロはレオナルドより年下でしたが、彼に闘争心をむき出しにする天才彫刻家でした。
フィレンツェの役人達は、この二人を競わせようと、教会の向かい壁に、フィレンツェ戦闘場面絵画をお互いに描くように依頼します。
がしかし、この世紀の芸術対決はレオナルドの技法の失敗、そしてミケランジェロのローマからの召喚により不成立に終わってしまいました。(ああ残念)
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やがて、年老いたレオナルドは病気(脳卒中か?)もあって、絵画.芸術への情熱も薄らいで来ました。
そんな時、フランス国王から「是非、我が国においで下さい。大歓迎します」と手紙が来ます。
ぼやき老人になっていたレオナルドはこれを受けます。
そして、フランスの宮廷画家として迎えられ、高額な年金をもらいながら、穏やかにフランスで晩年を過ごし、67才でその生涯を終えました。(次回最終回)つづく

紙芝居:『万能の天才レオナルドダビンチ』(その3)

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レオナルドが幸運であったのは、ミラノ君主が彼の才能を軍事ではなく、芸術的なものに使おうと考えた事にありました。
宮廷のお祝いの為のイベント舞台装置の設計や、騎馬像の設計などを任せて働かせました。
そして一躍彼を有名にしたのが、修道院の食堂の中に描く事を任された『最後の晩餐』の絵画でした。
この絵によって彼はついに、画家として不動の地位を確立したのでした。
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このミラノでの暮らしの中、レオナルドは幼い頃に別れた実の母と再会します。
彼は父と結婚出来なかった母が、貧乏で生活に苦しんでいると風の噂を聞いて、彼女を引き取ったのです。
そして母が亡くなるまで、一緒に暮らしたそうです。
後年、レオナルドの描いた『モナリザ』のモデルは、実はこの実母であったという説も(有力に)あるのです。
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ミラノで大成したレオナルドでしたが、それは長くは続きませんでした。
それは、隣国フランス軍が、ミラノへ侵入して来たからです。
この戦争の為、制作途中のレオナルドの作品も破壊され、落胆した彼は弟子達と共にミラノを去ったのでした。つづく

紙芝居:『万能の天才レオナルドダビンチ』(その2)

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この工房でレオナルドの芸術的才能は、親方をしのぐほど花開きます。
特に彼は、物事をしっかり観察してスケッチする才能に優れていました。
こんなエピソードがありました。
町の中で反乱を企てた男が、絞り首になって見せしめになりました。
町の皆は見ないように避けて通りましたが、レオナルドだけはスケッチブックで熱心に遺体を観察して描いたそうです。
又、後年は亡くなった人の解剖を熱心にして、それを描き彼の描く事の探究心は尽きる事が無かったようです。
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やがてレオナルドは27才で工房から独立します。
が、なんでもじっくりする彼の仕事のスピードが遅かった為、あまり仕事の人気はでなかったようです。
そんなある日、大都市ミラノから、今度は音楽家としてこちらで演奏会を開いて欲しいとの依頼が来ます。彼はなんでもできたのです。
仕事がぱっとしなかった彼は「これは自分を売り出すチャンスだ!」と、インパクトのある楽器を作り、ミラノの君主の前で演奏をして、自分を印象づけます。
そして、さらに次にミラノ君主に手紙を出して・・、
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『ミラノ君主さま、私レオナルドは軍事兵器も作れる才能があります。それはびっくりするような秘密兵器です!空を飛んだり、又海中から攻撃できる兵器も考えました。又、絵画も書けます。彫刻も作れます。どうか、ミラノ公国にお雇い下さい。お願いします。』と手紙を出しました。
 「レオナルドとやら、面白そうな男じゃ!」と君主は彼を雇いました。
そしてレオナルドは、ミラノの軍事技師になりました。(戦争にも参加した事が一度も無いのにです)
そして君主のお気に入りとなって、様々な分野の文化人達とも知り合いになっていきました。つづく

紙芝居:『万能の天才レオナルドダビンチ』(その1)

(はじめに)
 この紙芝居は、大学病院の病室で入院中に作ったものである。(令和5年2月21日から3月4日までの間)
 ある時は手術の後の苦しさ痛さに眠れず、それを誤魔化す為に真夜中に、スマホの灯りで絵を描いた。(たまに見つかって看護師さんに叱られた)それで、結構絵が雑になった。(彩色は退院してから塗った。)
 何故、ダビンチを描いたのかというと、僕を執刀して下さったのが、主治医T先生と医療チームの先生方、そして『ダビンチ』という名のロボット手術機なので、改めてこの名前の偉人に興味を持ち、スケッチブックを使ってベッドの中で、スマホで調べて紙芝居にして描いてみた。
それでは、波乱の人生レオナルドダビンチの半生のはじまり、始まりー。
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有名な絵画『モナリザ』の作者で知られる「レオナルドダビンチ」。
彼は15世紀(日本の室町時代)、イタリアの小さな「ダビンチ村」で生まれました。
レオナルドは絵画の才能だけでなく、楽器の演奏、制作もでき、軍事技術、建築、舞台の演出、そして人体の解剖学など幅広い分野でその才能を発揮して、のちに「万能の天才」と呼ばれました。
がしかし、絵画や彫刻の依頼を受けても最後まで完成出来ず、ほとんどの作品は「ちゅーと半端」に終わり、晩年彼は「私はまだ何もしていない」とぼやいたり、その孤独な性格から「私には友達がいない」と落ち込んだりしました。
それでは、ルネサンス期の巨人・ダビンチの生涯の始まり、はじまりー。
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レオナルドダビンチは、イタリアで生まれました。
そのイタリアの文化都市[フィレンツェ]、そして大都市[ミラノ]で才能を発揮して最後は、フランスで亡くなりました。
ダビンチは生涯独身で、旅から旅の人生を送りました。
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レオナルドの父はお金持ちの公証人でした。
が、母は貧しい家の娘。
それで父と正式な結婚はできず、レオナルドが生まれても、一緒に住む事はできませんでした。(蓮如さんに似てるなぁ)
やがて父は他の女性と結婚し、母も他の男性と結婚しました。
一人ぼっちになったレオナルドは、祖父に預けられ親族によって育てられました。
レオナルドの叔父は、そんな彼を大事にして、大変可愛がりました。
自然の生き物を深く観察する大切さを教えたのは、叔父の影響だと伝わっています。こんなレオナルドを母は、星飛雄馬の姉のようにそっと見守っていたようです。
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祖父の家で13才にまで育ったレオナルド。
「こいつは絵画の才がある」とレオナルドの才能に気づいた父は、芸術都市フィレンツェに連れ行き、そこの芸術家工房に預け弟子入りさせました。
そこで、彼は下積みの仕事から、イベントの出し物の制作、そして彫刻から絵画の基礎まで学んだのでした。つづく

紙芝居:『僕のダビンチ手術体験記』(後編)

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「そう、あの万能の天才「レオナルドダビンチ」から名前をとった手術機ですよ。アメリカの開発会社がそう付けたのです。」と先生は言われた。
偉人好きの僕はそれを聞いて、「その偉大な名前の手術機で是非僕の手術もお願いします」とお頼みした。
そして手術の説明や順番を待ち、もちろんリスクも聞いて、僕のダビンチ手術の日は令和5年2月24日に決まって手術は始まった。
手術室は大きく手術スタッフは10名以上は居られた。又、部屋の端っこに例の「ダビンチ」機は(映画ロボコップの敵型ロボのように)どっしり待機していた。「僕はまだ全身麻酔が効いていなかったので、その目で回りをしっかり眺めて、その景色を覚えていた。・・が、あっという間に意識は遠のいた。
 「宮本さん、手術は成功しましたよー」という主治医の先生の声に目を覚ましたのが、5時間後。まだ、麻酔が効いているのか痛みは無かった。
その日は集中治療室で一泊。(痛みが始まり、この日が一番しんどかった。)
次の日からは一般病棟へ移動。そして、身体中のコードを抜いて、3日目からリハビリの開始。そして、一週間後に無事退院となった。(早っ!・・が、まだ身体はしんどい。一ヶ月は安静にしなければならないらしい。が、心臓はドックドックと言い、もうシューとは言ってない。すごい。しかも血液の輸血もしなかったそうだ・・。ダビンチ恐るべし!)
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僕は思う。もし、あの『レオナルドダビンチ』の霊魂がこの世に現れ、このロボット機と出会ったら、どう思うだろう?
「人の命を救う神の手として、私の名前を使ってくれて大変嬉しく思う・・が、私はもっと俗っぽい人間だったのだがな・・はっはっはっ」と笑ったのではなかろうか。(その俗っぽさと偉大さは、次の人間「レオナルドダビンチ」の紙芝居で描かせて頂きます。その作品も病棟で描きました。)
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未来の医療機の名前にも使われる偉大な名前ダビンチ。
この名前だったからこそ、僕はすぐ手術をお願いしたような気がする。
なにわともあれ、ダビンチと医療スタッフの先生方のお力によって、私の命は助かった。この命を大事に使わせていただきます。大学病院の先生、そして医療スタッフの皆さま、本当にお世話になりありがとうございました。合掌。おしまい

紙芝居:『僕のダビンチ手術体験記』(前編)

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令和5年2月、僕は『僧帽弁閉鎖(そうぼうべんへいさ)不全症」という、心臓の病気(心臓弁膜症)になり手術をした。
・・これは、結構大きな手術であった。
お陰様で手術は成功した。そして今はリハビリ中。ありがたい事である。
さて、今から発表するこの(2本の)紙芝居は手術も終わり、痛さと辛さを紛わす為に病室で何とか描いたものである。それでは、はじまり、はじまりー。
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・・月日は少し遡り、令和4年。
僕は河南町の町民健康診断で、「心雑音がします。心臓がシューシューと鳴り、ドックドックとなってません。精密検査を受けて下さい。」と言われ、地元の大病院からさらにセカンドオピニオンを経て、大阪天王寺の大学病院の検査を受ける事になった。
 以前から、すぐしんどくなって休む事が多かった僕は、この病気が原因なのであった。
 大学病院の先生は言われた。
「僧帽弁とは、お坊さんの帽子のような形をした弁膜の事。これが切れています。血液が逆流し、はっきり言って重症です。そのままほっておくと心不全になり命の保証はできません。手術しか治す方法がありません。」と言われた。
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大学病院の(のち)僕の主治医となったT先生はこう言われた。
「この病気の手術は、ひと昔前は胸と骨を切って、心臓を直接治すしかなかったのですが、今は大きく切らず、小さな穴を何箇所か開けてロボットアームを挿入して遠隔手術をする方法があります。このロボット手術機を使うと出血も少なく回復も速いのです。・・これを[ダビンチ]ロボット手術と言います。」と言われた。
「ええ、ダビンチ!?」 続く

紙芝居:『泳げ!夢応の鯉魚』(その3 最終回)

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「・・私は、高熱であまりの苦しさに気を失い、気がつくと私の魂は身体を離れ、なんと琵琶湖の辺りに立っておりました。
そこで私は裸になり湖に飛び込んだのです。
・・初めて泳いだ湖の底。とっても気持ちが良いものです。
その時、魚の神様が突然現れて、私に話しかけられたのです。
「ギョギョ、いつも我々を助けてくださって、ありがとうギョざいます。そのギョ恩に報いる為に、この金色の鯉の着物を差し上ギョます。・・ただし、釣り針には気をつけてくださいね。ギョギョギョー」と。
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それから、金色の鯉になった私は、この大きな琵琶湖の素晴らしい景色を味わい堪能して泳ぎ回りました。
しかし、あまりにお腹が空きすぎて、目玉がぐるぐる回っちゃい、たまにはエビでも食べなけりゃ、淡水ばかりじゃふやけてしまう〜。と、私は鼻歌を歌いながら、目の前のエビにかぶりついたのです。
・・が、それは小さな釣り針でした。
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・・やっぱり私は坊さんです。
少しクセある坊さんです。
釣り上げた漁師は喜んで料理人に手渡し、私はあなた方の宴会の席で、切られようとしたその瞬間、私は布団の中で目が覚めたのです。
 ・・が、これは夢か誠かわからぬので、あなた方においで頂き、お尋ねしたという事なのです。申し訳ございませんでした。・・でもこれで、あれは誠の事とであったとハッキリいたしました。ありがとうございました。合掌」
「・・おおー、これは何と不思議な話じゃろうか!我ら、今すぐ帰りましたら、食べずに置いたあのお刺身を湖に返すといたしましょう。」と言いつつ帰って行きました。
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その後、この興義というお坊さんは、ずいぶんと長生きをされ、さらに絵をたくさん描き幸せに暮らされたという事です。
・・ただ、このお坊さんの描いた鯉の絵は、いつの間にか絵の中からみんな逃げ出してしまい、今では一枚も残っていないという事です。おしまい

紙芝居:『泳げ!夢応の鯉魚』(その2)

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そんなある日の事。
興義は重い病気になりました。
そして、あっという間に亡くなってしまいました。
ただ、その遺体は息はしていないのですが、胸のあたりがまだ暖かいのです。
それで、弟子達は不思議に思い、埋葬せずに大事に寝かしておきました。
すると、三日目に・・・、
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突然、興義は息を吹き返し、布団から起き上がり、弟子達にこう言ったのです。
「おい、誰か!今すぐ、檀家の平(たいら)の助(すけ)殿の屋敷に行って、皆に『今すぐお寺に来てくだされ』と伝えてはくれんか!」と言いました。
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「急に何事ですか!?この宴会の途中に・・」と言って、平の助殿の皆は弟子の知らせを受けてお寺に集まりました。
そして、布団の中で興義はまず、皆に無礼を謝りこう話し出したのです。
「皆様、今から私は突拍子もない事を申しますが、どうかお許しください。
最初に・・平様、貴方さまは本日、宴会の為に、漁師から大きな金色の鯉を買われたのではありませんか?」
「ああ、はい。その通りでございます。」と不思議そうに答えました。
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そして興義は言い続けました。
「・・その鯉が来た時、お二人は囲碁をされ、もう一人は桃の実をかじりながらそれを見ておられた。」
「はい、全くその通りです。金田一興義探偵。」
「そこへ料理人が包丁を持って『おお、これは立派な鯉じゃ!お刺身にしましょう。』と言われた。・・そうですね。」
「はい、その通りです。でも何故?あなた様はまるで見た来たように知っておられるのですか?」
「その訳を今から、お話ししましょう。実は・・」つづく

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