
29歳の時、〔緒方洪庵〕は大阪へ戻ります。
そして、ここで『医院』を開いて、診療に努める一方、オランダ語を教える《塾》も開きました。
ほぼ同時に、結婚もしました。
妻は〔八重(やえ)〕といい、優しく物静かな女性でした。
〔八重〕は、終生〔洪庵〕を助け、塾の生徒たちから、母親のように慕われました。
〔洪庵〕は、自分の塾の名を、自分の号である〔適々斎〕から取って、《適塾(てきじゅく)》と名付けました。
《適塾》は人気が出て、全国からたくさんの若者たちが集まって来ました。
《適塾》は、素晴らしい学校でした。
門も運動場もない、普通の二階建ての〔民家〕でしたが、どの若者も、勉強がしたくて、遠くからはるばるやって来るのです。
江戸時代は、身分差別の社会ですが、この学校はいっさい平等で、侍の子も、町医者の子も、農民の子も、入学試験無しで学べました。
塾へは、多くの学生達が入学して来ましたが、先生は〔洪庵〕一人です。
〔洪庵〕は、病人たちの診療をしながら教えなければならないので、体が二つあっても足りませんでした。
それでも塾の教育は、うまくいきました。
それは、塾生のうちで、よくできる者が、できない者を教えたからでした。 つづく
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紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その4
紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その3
紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その2

・・しかし、〔洪庵〕の父の許しは遂に出ませんでした。
そこで、〔洪庵〕は16歳の時、ついに置手紙をして家出したのでした。
そして『大阪』へ向かいました。
なぜ、大阪だったかといいますと、その当時、この地で〔蘭方医〕が、塾を開いていたからなのでした。
〔洪庵〕は、この塾に入門して、オランダ医学の〔初歩〕を学びました。
又、幸いなことに、父親も大阪へ転勤となって移って来た為、やがて〔洪庵〕の医学修行も許してくれるようになったのでした。
大阪の塾で、すべてを学び取った〔洪庵〕は、さらに《師》を求めて江戸に行きました。
そして、江戸では『あんま』をしながら学びました。
『あんま』をして、わずかなお金を貰ったり、他家の玄関番をしたりしました。
それは、今でいうアルバイトでした。
こうして〔洪庵〕は、江戸の塾で四年間学び、遂に〔オランダ語〕の難しい本まで読めるようになったのです。
その後、〔洪庵〕は『長崎』へ向かいます。 つづく
紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その1

〔緒方洪庵〕は、今の岡山県〔足守〕という所で生れました。
父は〔藩〕の仕事をする武士でした。
(洪庵)「父上、私は医者になりたいと思います!」
十二歳の時、突然〔洪庵〕は、父親に言いました。
しかし、父は嫌な顔をしました。
(父)「武士の子は、どこまでも武士であるべきだ!!」
父は〔洪庵〕を立派な武士にしたかったのです。
・・では、なぜ〔洪庵〕は、それほどまで〔医者〕に成りたかったのでしょうか?
それは・・、
〔洪庵〕が子供の時、岡山の地で、《コレラ》という病気が凄まじい勢いで流行しました。
人が嘘のように、ころころ死んだのです。
〔洪庵〕を可愛がってくれた隣の家族も、たった四つ日間の間に、みんな死んでしまいました。
又、当時の《漢方医術》では、これを防ぐ事も治療する事も出来ませんでした。
(洪庵)「私は医者になって、是非人を救いたい。そして出来るなら、漢方ではなく、オランダの医術《蘭方》を学びたい!」
〔洪庵〕は人の死を見ながら、こう決心したのでした。 つづく
紙芝居:「洪庵のたいまつ」 プロローグ
唐突ですが、お釈迦様のニックネーム(別名・あだな)を知ってますか?
『大医王』なのですって。・・意味は〔偉大な医者の王様〕。
そういえば、お釈迦様の教えに『応病与薬(おうびょうよやく)』というものがありました。
その意味は「その人(病人=悩める人)に応じた、お薬(お話)を出して心と体を治す」ということらしいです。
確かに、お釈迦さまは、当時の超エリート王族のお一人だったので、医学知識は豊富だったでしょうが、それだけではなく、その人の心の苦しみの原因を見抜いて、治療されるのがお得意であったと思われます。・・・今で言う『心理カウンセラー』であったのかもしれません。
さて、この日本にも、お釈迦さまのような《慈悲》のお心を持つ『大医王』がおられました。
しかも江戸時代後期に!
・・が、その方は『宗教家』ではなく、本当のお医者さまでした。しかも、紛れもなく『お釈迦様』のようなお心を持たれた方。
「それは『JIN-仁』かって?」・・あれは漫画のお話〔笑い〕。
その方のお話を、今から紙芝居を使ってお話させて頂きましょう。そのお方の名は《緒方洪庵(おがたこうあん)》、といいました。
司馬遼太郎原作 〔緒方洪庵生誕200年記念〕
世の為に尽した人の一生ほど、美しいものはありません。
これから、特に美しい生涯を送った人についてお話します。
それは『緒方洪庵』という人の事です。
この人は、江戸時代末期に生れました。
お医者さまでした。
この人は名を求めず、利益を求めず、溢れるほどの実力がありながらも、他人の為に生き続けました。
そういう生涯は、遥かな山河のように美しく思えるのです。
つづく
紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」 その8

(西行)「・・そろそろ、わしの話も終る時がきたようじゃ。
70歳を越えて、わしは、ここ〔河内の国〕の『弘川寺(ひろかわでら)』に、草庵を結んだ。
思い返せば、23歳で、出家したのち、旅から旅の人生であった。
わしは歌を作るのが好きじゃたので、旅をしながら多くの歌を作った。
わしの作った歌は、いつしか《仏の声》そのものに成っていたような気もする。
・・・わしはのぉ、インドの〔おしゃか様〕に憧れた。そして〔おしゃか様〕を《お手本》としたかった。
〔おしゃか様〕は、わしと同じ〔武家の名門〕の出身であり、子供がありながら家庭を捨てて出家し、一生、旅の人生を送られた。とても他人とは思えんかったんじゃ。
・・わしも願わくば、そうありたいと思って、おしゃか様の《真似まね人生》を送ろうと誓った。
その真似も、願わくば、おしゃか様と同じ日に死ねれば、完璧なんじゃがと思っておったが、そううまくゆくまいとも思っておった。
・・が、どうやら、(一日遅れるが、)それがうまくゆきそうな気がするんじゃ。
昨日(2月〔如月〕15日)は、おしゃか様のご命日。そして今日は、ご命日と同じ満月(望月)の日・・。そしてわしの好きな〔桜〕も満開!
・・完璧じゃ。完璧すぎる! 有難い、有難い。
・・ああっ、仏さま!お迎えに来て下さったのでございますか?
はい、ご一緒に参ります。 ありがとうございます。南無仏、南無仏・・。」
『ガクッ!』(往生された音)
『パラパラパラ・・・』(桜が散った音、効果音じゃ。)
「仏には桜の花をたてまつれ 我が後の世を人とぶらはば」(西行)
行年73歳 おしまい
(現在の弘川寺内の『西行堂』)
(現在の弘川寺、本堂)
紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」 その7

(西行)「・・が、しかし、そんなわしの活躍を面白くないとする僧侶がおった。
その坊主の名は、〔文覚(もんかく)〕といって、暴れん坊で有名な奴じゃった。
〔文覚〕は、わしがちゃんと修行もせず、歌ばかり作って遊んで旅をしていると、勘違いしておったんじゃな。
〔文覚〕は弟子たちに、「一度、〔西行〕と顔を合わす機会があれば、ゲンコツを喰らわしてやる!」と息巻いておったんじゃよ。
そして、ついに〔文覚〕は、わしと顔を合わす時がきた。
・・それがじゃ、なんと〔文覚〕は、わしを一目見るなり、ニコニコ顔になって、手厚く持て成してくれたんじゃ。
そして、わしは〔文覚〕と円満に別れた。
・・〔文覚〕の弟子たちは、わしを見送った後、師匠に詰め寄ったそうじゃ。
「師匠、話が違うではありませんか!〔西行〕をぶちのめすのではなかったのですか!」と。
すると〔文覚〕は、「お前たちは、あの〔西行〕の面構えを見なかったのか。・・あれは紛れもなく、武士の顔じゃ! もし、わしが殴りかかったとしたら、反対にわしがボコボコにされたであろうよ。」と、言ったそうじゃ。
〔僧侶〕として、又〔歌人〕として、穏やかに生きて来たつもりであったが、見るものが見れば、わしは紛れもなく〔武士〕の臭いがしたのじゃろうな・・。
まぁこの話は、わしの他愛もないエピソードじゃがな。わっはっはっ。
次回、いよいよ最終回じゃ。」
紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」 その6
(西行)「・・まぁ、そんな訳で、わしは再び〔寄付金〕集めの旅に出ることになった。
それで、まず、わしが向かったのは、大金持ちのハトヤマ家・・。いや間違えた、奥州の〔藤原家〕であった。
この頃の〔藤原家〕は、《金》の産地をその領地に持っておったので、大層裕福だったのじゃ。
それで次の話は、奥州に向かう途中のエピソードじゃ。
わしは途中、〔鎌倉〕に寄って〔鶴岡八幡宮〕を、参拝しておった。
その姿を、源氏の頭領〔源頼朝〕の家臣に見つかってしもうてなぁ、・・家臣たちは、わしを〔頼朝〕の面前に案内したんじゃ。
〔源頼朝〕公は、わしを見て喜んでなぁ、わしに『武家としての心構え』や『歌の詠み方』などを講義してくれと言うんじゃよ。
わしは「みんな忘れました」と言ったら、大層がっかりされたので可哀想に思って、「あっ、思い出しました!」とボケをかまして、しゃべるだけしゃべってやったわい。
それで〔頼朝〕は喜んでな、お礼にと言って《白銀製の猫の置物》をくれたんじゃ。
・・が、わしにはそんな品物、不用の物。
館を出た時、外で遊ぶ童たちに、ポンとくれてやったわい。
太っ腹なわしじゃろう。・・が、しかし、後で考えたら、やっぱりお金に代えたら良かったと、ちょっぴり後悔したわい。ワッハッハッ。
・・そののち、わしは無事に〔奥州〕に着き、〔寄付〕の願いをちゃんと聞き届けてもろたんじゃ。」 つづく
紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」 その5
(西行)「結局、わしは高野山に〔30年間〕居ったことになる。
その後、わしは60才で〔伊勢の国〕に移った。
伊勢にはわしの歌友達、通称〔歌トモ〕が多くおってのぉ、そこで〔草庵〕を結んで、歌の編纂に力を注いだんじゃ。
・・が、時代は荒れ始めた。
源氏と平家の戦いは、全国各地を炎に包んでいったんじゃ。
たくさんの人が死に、また多くの神社・仏閣が焼かれた。
わしはその時、『死出の山 越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ』、〔あの世への山を越えてゆく人のなんと多きことか〕と、歌を詠んだ。
それから間もなくして、又、わしに友人から「京・奈良の神社・仏閣復興の為の〔寄付金〕集めをしてくれんか」と頼みの手紙が来て、わしはまた旅に出る決心をしたんじゃ。・・・わしはのぉ、水戸黄門さまのような、安易で旅好きな、ただのご隠居ではないのじゃぞ。フォッフォッフォッ(笑い声じゃ!カクしゃんも聞きにゃしゃい、シュケしゃんも聞きなしゃい。) つづくじゃ」
紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」その4

(西行)「出家したのち、わしは『西行』と名乗り、あちこちに場所を移し、修行生活に入った。
京の〔嵯峨〕や〔鞍馬山〕、そして山深い奈良の〔吉野山〕に庵を設けて、修行したんじゃ。
・・が、わしは出家したのちも、歌を作るのはやめんかった。
歌はわしの生き甲斐じゃった。
出家した当時、わしは次のような歌を作って詠んでおる。
『世の中を捨てて 捨てえぬ心地して、都はなれぬ我が身なりけり』と・・。これは〔世を捨てたつもりなのに、京の都の思い出が煩悩となって忘れられないよ~〕という意味じゃな。・・わしの出家仕立ての頃の弱い心の内を歌ったもんじゃなぁ。
それからわしは、奥州の〔平泉〕や〔出羽〕へ旅をした。
そして帰ってからは、〔高野山〕で草庵を結んだ。
当時、〔高野山〕は落雷の為、火事で大きな被害を受けておった。
だからわしは、〔高野山〕で修行しつつも、寺院復興の為、《勧進》という『寄付金』集めの旅に出ざるを得んかった。
わしは出家しても、元は〔有名人〕で顔は売れていたから、チャリティー活動がやりやすかったんじゃよ。
平家の総帥、『平清盛』の所にも寄付のお願いにいった。
『清盛』とは、北面の武士の頃からの付き合いで頼みやすかった。
又、わしの親戚に当たる奥州の『藤原家』にも頼みに行った。
そう、わしは政治の世界から出た身じゃから、『平家』にも『源氏』にも『藤原家』にも、出入り自由だったんじゃ。そう、わしは全国あちこちを回って『寄付金』集めをした!
今の〔二十四時間チャリティーテレビのメインキャスター〕兼〔チャリティーマラソンランナー〕の《走り》みたいなもんじゃな。・・なんじゃったら一曲『サライ』でも唄おうかのう・・。『サクラ吹雪の~ サライの空は~』・・何、つづくじゃと。残念!

