住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その4

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 29歳の時、〔緒方洪庵〕は大阪へ戻ります。
 そして、ここで『医院』を開いて、診療に努める一方、オランダ語を教える《塾》も開きました。
 ほぼ同時に、結婚もしました。
 妻は〔八重(やえ)〕といい、優しく物静かな女性でした。
 〔八重〕は、終生〔洪庵〕を助け、塾の生徒たちから、母親のように慕われました。
 〔洪庵〕は、自分の塾の名を、自分の号である〔適々斎〕から取って、《適塾(てきじゅく)》と名付けました。
 《適塾》は人気が出て、全国からたくさんの若者たちが集まって来ました。
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 《適塾》は、素晴らしい学校でした。
 門も運動場もない、普通の二階建ての〔民家〕でしたが、どの若者も、勉強がしたくて、遠くからはるばるやって来るのです。
 江戸時代は、身分差別の社会ですが、この学校はいっさい平等で、侍の子も、町医者の子も、農民の子も、入学試験無しで学べました。
 塾へは、多くの学生達が入学して来ましたが、先生は〔洪庵〕一人です。
 〔洪庵〕は、病人たちの診療をしながら教えなければならないので、体が二つあっても足りませんでした。
 それでも塾の教育は、うまくいきました。
 それは、塾生のうちで、よくできる者が、できない者を教えたからでした。 つづく

紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その3

 長崎・・。
 当時、日本は鎖国をしていました。
《鎖国》というのは、外国とは付き合わない、貿易しないという事です。
 しかし、長崎の港、一ヶ所だけを、中国とオランダの国に限り、開いていました。
 長崎の町には、少しながら、オランダ人が住んでいました。
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もう少し、《鎖国》についてお話します。
 鎖国というのは、例えば、日本人全部が、真っ暗な箱にいると考えて下さい。
 長崎は、箱の中の日本としては、針で突いたような小さな穴で、その穴から、微かに《世界の光》が、差し込んでくる所だったのです。
 〔洪庵〕は、この長崎の町で、二年間勉強し、暗い箱の日本から、広く世界の文明を知ろうとしたのです。 つづく
 

紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その2

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 ・・しかし、〔洪庵〕の父の許しは遂に出ませんでした。
 そこで、〔洪庵〕は16歳の時、ついに置手紙をして家出したのでした。
 そして『大阪』へ向かいました。
 なぜ、大阪だったかといいますと、その当時、この地で〔蘭方医〕が、塾を開いていたからなのでした。
 〔洪庵〕は、この塾に入門して、オランダ医学の〔初歩〕を学びました。
 又、幸いなことに、父親も大阪へ転勤となって移って来た為、やがて〔洪庵〕の医学修行も許してくれるようになったのでした。
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 大阪の塾で、すべてを学び取った〔洪庵〕は、さらに《師》を求めて江戸に行きました。
 そして、江戸では『あんま』をしながら学びました。
 『あんま』をして、わずかなお金を貰ったり、他家の玄関番をしたりしました。
それは、今でいうアルバイトでした。
 こうして〔洪庵〕は、江戸の塾で四年間学び、遂に〔オランダ語〕の難しい本まで読めるようになったのです。
 その後、〔洪庵〕は『長崎』へ向かいます。 つづく

紙芝居:「洪庵のたいまつ」 その1

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 〔緒方洪庵〕は、今の岡山県〔足守〕という所で生れました。
 父は〔藩〕の仕事をする武士でした。
(洪庵)「父上、私は医者になりたいと思います!」
 十二歳の時、突然〔洪庵〕は、父親に言いました。
 しかし、父は嫌な顔をしました。
(父)「武士の子は、どこまでも武士であるべきだ!!」
 父は〔洪庵〕を立派な武士にしたかったのです。
 ・・では、なぜ〔洪庵〕は、それほどまで〔医者〕に成りたかったのでしょうか?
 それは・・、
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 〔洪庵〕が子供の時、岡山の地で、《コレラ》という病気が凄まじい勢いで流行しました。
 人が嘘のように、ころころ死んだのです。
 〔洪庵〕を可愛がってくれた隣の家族も、たった四つ日間の間に、みんな死んでしまいました。
 又、当時の《漢方医術》では、これを防ぐ事も治療する事も出来ませんでした。
(洪庵)「私は医者になって、是非人を救いたい。そして出来るなら、漢方ではなく、オランダの医術《蘭方》を学びたい!」
 〔洪庵〕は人の死を見ながら、こう決心したのでした。 つづく

紙芝居:「洪庵のたいまつ」 プロローグ

 唐突ですが、お釈迦様のニックネーム(別名・あだな)を知ってますか?
 『大医王』なのですって。・・意味は〔偉大な医者の王様〕。
 そういえば、お釈迦様の教えに『応病与薬(おうびょうよやく)』というものがありました。
 その意味は「その人(病人=悩める人)に応じた、お薬(お話)を出して心と体を治す」ということらしいです。
 確かに、お釈迦さまは、当時の超エリート王族のお一人だったので、医学知識は豊富だったでしょうが、それだけではなく、その人の心の苦しみの原因を見抜いて、治療されるのがお得意であったと思われます。・・・今で言う『心理カウンセラー』であったのかもしれません。
 さて、この日本にも、お釈迦さまのような《慈悲》のお心を持つ『大医王』がおられました。
 しかも江戸時代後期に!
 ・・が、その方は『宗教家』ではなく、本当のお医者さまでした。しかも、紛れもなく『お釈迦様』のようなお心を持たれた方。
 「それは『JIN-仁』かって?」・・あれは漫画のお話〔笑い〕。
 その方のお話を、今から紙芝居を使ってお話させて頂きましょう。そのお方の名は《緒方洪庵(おがたこうあん)》、といいました。
 司馬遼太郎原作 〔緒方洪庵生誕200年記念〕
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 世の為に尽した人の一生ほど、美しいものはありません。
 これから、特に美しい生涯を送った人についてお話します。
 それは『緒方洪庵』という人の事です。
 この人は、江戸時代末期に生れました。
 お医者さまでした。
 この人は名を求めず、利益を求めず、溢れるほどの実力がありながらも、他人の為に生き続けました。
 そういう生涯は、遥かな山河のように美しく思えるのです。
 つづく

紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」 その8

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(西行)「・・そろそろ、わしの話も終る時がきたようじゃ。
 70歳を越えて、わしは、ここ〔河内の国〕の『弘川寺(ひろかわでら)』に、草庵を結んだ。
 思い返せば、23歳で、出家したのち、旅から旅の人生であった。
 わしは歌を作るのが好きじゃたので、旅をしながら多くの歌を作った。
 わしの作った歌は、いつしか《仏の声》そのものに成っていたような気もする。
 ・・・わしはのぉ、インドの〔おしゃか様〕に憧れた。そして〔おしゃか様〕を《お手本》としたかった。
 〔おしゃか様〕は、わしと同じ〔武家の名門〕の出身であり、子供がありながら家庭を捨てて出家し、一生、旅の人生を送られた。とても他人とは思えんかったんじゃ。
・・わしも願わくば、そうありたいと思って、おしゃか様の《真似まね人生》を送ろうと誓った。
 その真似も、願わくば、おしゃか様と同じ日に死ねれば、完璧なんじゃがと思っておったが、そううまくゆくまいとも思っておった。
・・が、どうやら、(一日遅れるが、)それがうまくゆきそうな気がするんじゃ。
 昨日(2月〔如月〕15日)は、おしゃか様のご命日。そして今日は、ご命日と同じ満月(望月)の日・・。そしてわしの好きな〔桜〕も満開!
・・完璧じゃ。完璧すぎる! 有難い、有難い。
・・ああっ、仏さま!お迎えに来て下さったのでございますか?
 はい、ご一緒に参ります。 ありがとうございます。南無仏、南無仏・・。」
『ガクッ!』(往生された音)
『パラパラパラ・・・』(桜が散った音、効果音じゃ。)
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「仏には桜の花をたてまつれ 我が後の世を人とぶらはば」(西行)
 行年73歳 おしまい
ファイル 479-3.jpg(現在の弘川寺内の『西行堂』)
ファイル 479-4.jpg(現在の弘川寺、本堂)

紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」 その7

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(西行)「・・が、しかし、そんなわしの活躍を面白くないとする僧侶がおった。
 その坊主の名は、〔文覚(もんかく)〕といって、暴れん坊で有名な奴じゃった。
 〔文覚〕は、わしがちゃんと修行もせず、歌ばかり作って遊んで旅をしていると、勘違いしておったんじゃな。
 〔文覚〕は弟子たちに、「一度、〔西行〕と顔を合わす機会があれば、ゲンコツを喰らわしてやる!」と息巻いておったんじゃよ。
 そして、ついに〔文覚〕は、わしと顔を合わす時がきた。
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 ・・それがじゃ、なんと〔文覚〕は、わしを一目見るなり、ニコニコ顔になって、手厚く持て成してくれたんじゃ。
 そして、わしは〔文覚〕と円満に別れた。
 ・・〔文覚〕の弟子たちは、わしを見送った後、師匠に詰め寄ったそうじゃ。
「師匠、話が違うではありませんか!〔西行〕をぶちのめすのではなかったのですか!」と。
 すると〔文覚〕は、「お前たちは、あの〔西行〕の面構えを見なかったのか。・・あれは紛れもなく、武士の顔じゃ! もし、わしが殴りかかったとしたら、反対にわしがボコボコにされたであろうよ。」と、言ったそうじゃ。
 〔僧侶〕として、又〔歌人〕として、穏やかに生きて来たつもりであったが、見るものが見れば、わしは紛れもなく〔武士〕の臭いがしたのじゃろうな・・。
 まぁこの話は、わしの他愛もないエピソードじゃがな。わっはっはっ。
 次回、いよいよ最終回じゃ。」

紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」 その6

(西行)「・・まぁ、そんな訳で、わしは再び〔寄付金〕集めの旅に出ることになった。
 それで、まず、わしが向かったのは、大金持ちのハトヤマ家・・。いや間違えた、奥州の〔藤原家〕であった。
 この頃の〔藤原家〕は、《金》の産地をその領地に持っておったので、大層裕福だったのじゃ。
 それで次の話は、奥州に向かう途中のエピソードじゃ。
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 わしは途中、〔鎌倉〕に寄って〔鶴岡八幡宮〕を、参拝しておった。
 その姿を、源氏の頭領〔源頼朝〕の家臣に見つかってしもうてなぁ、・・家臣たちは、わしを〔頼朝〕の面前に案内したんじゃ。
 〔源頼朝〕公は、わしを見て喜んでなぁ、わしに『武家としての心構え』や『歌の詠み方』などを講義してくれと言うんじゃよ。
 わしは「みんな忘れました」と言ったら、大層がっかりされたので可哀想に思って、「あっ、思い出しました!」とボケをかまして、しゃべるだけしゃべってやったわい。
 それで〔頼朝〕は喜んでな、お礼にと言って《白銀製の猫の置物》をくれたんじゃ。
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 ・・が、わしにはそんな品物、不用の物。
 館を出た時、外で遊ぶ童たちに、ポンとくれてやったわい。
 太っ腹なわしじゃろう。・・が、しかし、後で考えたら、やっぱりお金に代えたら良かったと、ちょっぴり後悔したわい。ワッハッハッ。
 ・・そののち、わしは無事に〔奥州〕に着き、〔寄付〕の願いをちゃんと聞き届けてもろたんじゃ。」 つづく

紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」 その5

(西行)「結局、わしは高野山に〔30年間〕居ったことになる。
 その後、わしは60才で〔伊勢の国〕に移った。
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 伊勢にはわしの歌友達、通称〔歌トモ〕が多くおってのぉ、そこで〔草庵〕を結んで、歌の編纂に力を注いだんじゃ。
 ・・が、時代は荒れ始めた。 
 源氏と平家の戦いは、全国各地を炎に包んでいったんじゃ。
 たくさんの人が死に、また多くの神社・仏閣が焼かれた。
 わしはその時、『死出の山 越ゆる絶え間はあらじかし 亡くなる人の数続きつつ』、〔あの世への山を越えてゆく人のなんと多きことか〕と、歌を詠んだ。
 それから間もなくして、又、わしに友人から「京・奈良の神社・仏閣復興の為の〔寄付金〕集めをしてくれんか」と頼みの手紙が来て、わしはまた旅に出る決心をしたんじゃ。・・・わしはのぉ、水戸黄門さまのような、安易で旅好きな、ただのご隠居ではないのじゃぞ。フォッフォッフォッ(笑い声じゃ!カクしゃんも聞きにゃしゃい、シュケしゃんも聞きなしゃい。) つづくじゃ」

紙芝居:「願わくば、花の下にて春死なん~西行法師の一生」その4

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(西行)「出家したのち、わしは『西行』と名乗り、あちこちに場所を移し、修行生活に入った。
 京の〔嵯峨〕や〔鞍馬山〕、そして山深い奈良の〔吉野山〕に庵を設けて、修行したんじゃ。
 ・・が、わしは出家したのちも、歌を作るのはやめんかった。
 歌はわしの生き甲斐じゃった。
 出家した当時、わしは次のような歌を作って詠んでおる。
『世の中を捨てて 捨てえぬ心地して、都はなれぬ我が身なりけり』と・・。これは〔世を捨てたつもりなのに、京の都の思い出が煩悩となって忘れられないよ~〕という意味じゃな。・・わしの出家仕立ての頃の弱い心の内を歌ったもんじゃなぁ。
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 それからわしは、奥州の〔平泉〕や〔出羽〕へ旅をした。
 そして帰ってからは、〔高野山〕で草庵を結んだ。
 当時、〔高野山〕は落雷の為、火事で大きな被害を受けておった。
 だからわしは、〔高野山〕で修行しつつも、寺院復興の為、《勧進》という『寄付金』集めの旅に出ざるを得んかった。
 わしは出家しても、元は〔有名人〕で顔は売れていたから、チャリティー活動がやりやすかったんじゃよ。
 平家の総帥、『平清盛』の所にも寄付のお願いにいった。
 『清盛』とは、北面の武士の頃からの付き合いで頼みやすかった。
 又、わしの親戚に当たる奥州の『藤原家』にも頼みに行った。
 そう、わしは政治の世界から出た身じゃから、『平家』にも『源氏』にも『藤原家』にも、出入り自由だったんじゃ。そう、わしは全国あちこちを回って『寄付金』集めをした! 
 今の〔二十四時間チャリティーテレビのメインキャスター〕兼〔チャリティーマラソンランナー〕の《走り》みたいなもんじゃな。・・なんじゃったら一曲『サライ』でも唄おうかのう・・。『サクラ吹雪の~ サライの空は~』・・何、つづくじゃと。残念!

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