住職のつぼやき[管理用]

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宮澤賢治の故郷:『花巻』へ (後編)

『雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ 夏ノ暑サニモマケヌ・・』で始まる有名な宮澤賢治の詩は、東日本大震災の後、マスコミを通して、日本全体、電波に流れた。
ファイル 756-1.jpg(賢治の手帳〔復刻版〕買いました)
 それほどこの詩は、人を癒し元気にする効果があると、皆が感じられたからに違いない。
 余談になるが、実はこの詩には、実際モデルになる人があった?と言われている。今回とは主旨が違うので長々と書かないが、賢治には、同郷〔花巻〕の知り合いで、熱心なクリスチャンであった『斉藤宗次郎』という友人がいて、彼がこの詩のモデルだと云われているのだ。斉藤宗次郎は(ある意味)壮絶な生き方をして、賢治は(宗教は違うが)彼を大変尊敬し、『ソウイウモノ二 ワタシハナリタイ』と心から思い、この詩を(病状悪化の中)書いたと言われているのだ。(もっと詳しく知りたい方は『斉藤宗次郎』でウィキペディアで引かれると出るので参考に。とにかく凄い人です!)
ファイル 756-2.jpg(宮澤賢治記念館)
 さて、僕は今回(短い時間の中)、できるだけ宮澤賢治のことを調べてみたいと思ったので、『宮澤賢治記念館』に向かった。
 そして館内を見学し、先ほどの『賢治の手帳』の現物が見たいと思い、学芸員さんに聞いたのだが、実物は現在『宮澤家』が大切に保管しているために、ここではレプリカ(複製)しか見れないと云われた。
 僕は、そこをもうちょっと食い下がって、では、その『手帳』には、他に何が書かれてあるのかをしつこく聞いた。
 熱心な奴だと思われたのか、それともヘキヘキされたのか、「それでは、中身もそのままの〔復刻版〕を買われませんか?」と聞かれたので、値段はちょっと高かったが(二千五百円)で、その復刻版を買った。
 これも余談になるので、細かく書かないが、とにかくこの手帳の中身は、落書きのようにいろんな事が書きなぐってあり、やたら『南無妙法連華経』という文字がよく出てきて、賢治の信仰の篤さがよく解る。この他、例の『雨ニモ・・』の詩の後のページに『凡ソ 栄誉ノアルトコロ 必ズ 苦禍ノ因アリト 知レ』と書かれてあって、これも又、賢治が自分自身に言い聞かせていた言葉なのだと興味深く思った。 余談終り・・。
ファイル 756-3.jpg
 その後、賢治が愛用していた『チェロ』を見たり(あまりうまくなかったらしい)、実際の原稿やお経の本なども見学した。
ファイル 756-4.jpg(レストラン『注文の多い料理店』)
 その後、記念館前に建つレストラン『注文の多い料理店〔山猫軒〕』で、ミルクを飲んで一休みした。(この『注文の多い料理店』の話は以前、紙芝居にしたことがある。)
ファイル 756-5.jpg(レストラン入り口)
 僕はこの『注文の多い料理店』の話は、前々から不思議に思っていたことがあり、こんな機会は二度とないだろうと、又、学芸員さんを摑まえて聞いた。
 それは、このブラックな童話は、賢治の信仰心がピークに達している、その若き晩年の頃に書かれたお話なのだが、この話は一向に宗教臭くない。『それはなぜか?』を聞いてみたかったのだ。 
 聞いてみると、学芸員副部長さんが出て来られ、次のように語って下さった。
「・・この『注文・・』の童話は、正に賢治の寿命が尽きようとしている頃に書かれたお話で、その信仰心も(賢治自体が生き仏のようになっていて)正にピークになっています。しかし、私も不思議に思うのですが、この頃の童話はあまり説教臭くないのです。神とか仏とかが姿を消して、『すべてを(善いも悪いもずるいも)ありのままに受け入れて、ただ生きぬく』という心境になっているのですね。・・それはなぜかは、私もわからないのです」と云われた。
 その言葉を聞いて、僕はなぜ、宮澤賢治が好きなのかが解ったような気がした。
 賢治は、(その若き晩年に)一つの宗教宗派(イデオロギー)の思想の枠を超越してしまったのではないかと思うのだ。そして行き着いた先にあったのは、(努力はするが、又泣いたり、喚いたりするが、)自然をそのままに受け入れるという心境になっていたのだはなかろうか?・・そう思うのだ。
 宮澤賢治が今、この東日本大震災に遭遇したらどうするか?
 おそらく、おろおろ、うろたえ、泣きながらも、細々とボランティア活動を続けるのではなかろうか?
 そんな事を思いながら、僕も『ソウイウモノ二 ワタシ(モ) ナリタイ』と思って、東北を後にした。  おしまい

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