住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「カルピスを発明した僧侶 ~三島海雲伝~」 (その5:最終回)

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  昭和三十七年。
 〔海雲〕は全財産を投じて、『三島海雲記念財団』を設立します。
 この時、海雲は「私が今日あるのは、先輩、友人、さらに国民大衆の方々のカルピスに対する惜しみないご声援によるところのものです。 
 従って私の得た財産は、ひとり三島海雲のものではありません。
 あげて、社会にお返しすべきものです。
 その方法として、財団を設立することにしました。
 この財団で、良識ある分野で研究する人達に助成し、その結果、人類福祉に寄与したいのです。」と、述べました。
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 三島海雲は、昭和四十九年、九十六歳で往生を遂げます。
 その晩年まで、健康食品や健康法の研究に余念のなかった海雲ですが、その一方、「私は私欲を忘れ、公益の為に、広野に撒かれた〔一粒の麦〕になりたい。」と言い続けました。
 
 現在、海雲の生誕地である大阪:箕面の〔教学寺〕の境内には、〔海雲〕翁の偉業を示す石碑が、粛々と建っています。 おしまい
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紙芝居:「カルピスを発明した僧侶 ~三島海雲伝~」 (その4)

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 大正十二年九月一日、関東大震災が起こりました。
 家屋十三万戸、死者十万人の被害を出し、東京は焼け野原となり、壊滅的打撃を受けました。
 その時〔海雲〕は、東京の渋谷のカルピス本社に居り、この震災を経験します。
 が、運の良く、海雲の会社はほとんど被害を被りませんでした。
 しかし東京の大半は、見るも無残な状態で、水道も止まり、飲み水もままならない状態でした。
 この時、海雲は『自分の出来る事は何か?!』と考え、「そうだ!うちの本社は水が出る。水を配ろう。いや、せっかくだから、そこに〔氷とカルピス〕を入れて、美味しくして配ってあげよう!」と思いつきます。
 そして金庫の有り金〔二千円〕を全部使い、トラックを四台調達して、震災から翌日の九月二日に、東京中に〔カルピス〕を配ることにしました。
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 「どうぞ、皆さーん! 冷たいカルピスですよー。これを飲んで元気を出してくださーい! もちろん無料ですよー。」と、海雲はトラックに乗って、街中、カルピスを配って回りました。
 この行動の早さに、街中の人々は歓喜しました。
・・が、一部の新聞は、『感心なことである。・・広告なのであろうが。』
と書きました。
 これに対して海雲は、「私はカルピスを配ったら、広告になるだろうという気持ちは微塵も無かった。困った人達を助けたいという、全く純真な人間としての衝動から動いたのである。」と、のち語っています。 つづく 次回、最終回
 

紙芝居:「カルピスを発明した僧侶 ~三島海雲伝~」 (その3)

 やがて、日露戦争は終わりましたが、その後、中国で〔辛亥革命〕が起こり、日本人排斥運動が強くなり、命の危険を感じた海雲は無一文で日本に帰り着きます。
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 すべてを無くし、気が抜けたようになった海雲でしたが、
・・やがて心機一転、「あのモンゴルで飲んだ健康飲料を、日本でも作ることができないだろうか」と考え、一人自分のお寺(教学寺)の本堂地下に籠り、研究を開始したのでした。
 この時に作った試作の飲み物は、お寺の檀家さんに飲んでもらい、その感想を聞いて回ったという逸話が残っています。(えっらい、檀家さんに迷惑掛けたんとちゃうか?)
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 何度か失敗した海雲でしたが、大正八年、ついに『乳酸菌飲料カルピス』は完成します。
 その商品名の由来は、
「カル」は、カルシウムから取り、
「ピス」は、サルピスマンダという最高の美味という意味の仏教用語『醍醐』から付けました。
 さらに発売日を七月七日の〔七夕の日〕にして、包装紙を七夕の天の川の星を連想さすように、水玉模様にしました。
 そして海雲の後輩の言葉にヒントを得て、『初恋は甘くて酸っぱいもの・・。そんな清純な味、カルピス!』と宣伝文句を決め、売り出しました。
 そしてカルピスは大ヒット商品になり、製造会社・工場を首都:東京にし、大々的に売り出すことになったのでした。
 しかしその東京で、海雲は大きな天災に巻き込まれる事になるのです。 つづく  
ファイル 810-3.jpg(現在の教学寺〔この地下でフフフッ〕)

紙芝居:「カルピスを発明した僧侶 ~三島海雲伝~」 (その2)

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 こうして〔海雲〕は、24歳の時に中国大陸に渡ります。
 中国に着いた海雲は、中国人に日本語を教える一方、自分も中国語を学びます。
 ・・が、やがて中国で知り合った日本の友人に誘われ、教師を止め、一緒に会社を設立し、商人になるのでした。
 この時、海雲は〔僧侶〕の資格を返そうとしますが、本願寺の門主〔大谷光瑞〕師に諭され、僧籍は返還しませんでした。
 のち、海雲は亡くなるまで商人でありましたが、心は僧侶であろうとしました。
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 そして海雲は、北京の町で行商をして歩き、商売の基本を身につけてゆきました。
 さらに日露戦争が始まった為、海雲は軍馬の調達の仕事の為に、モンゴルに出かけてゆくことが多くなりました。
 しかし何度となく、中国とモンゴルを往復している内に、海雲はその疲れから体調を崩し、ついに倒れてしまうのでした。
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 体調を崩して苦しむ海雲に、或る日、一人のモンゴル人が「元気が出る飲み物がありますよ。私たちはこれを毎日飲んで健康を保っているのです。」と言って、一杯の飲み物を差し出しました。
 それは、牛乳のクリームを発酵させたものに、お砂糖を加えた『ジョウヒ』という飲み物でした。
 海雲は、一口飲み「うまいっ!」と言って、全部飲み干しました。
 「これは不老長寿の薬だ!」と感じた海雲は、それから毎日その『ジョウヒ』を飲んで、健康を取り戻していったのでした。
 これがのちの『カルピス』のヒントになるのでした。 つづく

紙芝居:「カルピスを発明した僧侶 ~三島海雲伝~」 (その1)

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 『カルピスは甘くてすっぱい初恋の味・・』。
 この宣伝文句で、大ヒットした乳酸飲料カルピスは・・、
 実は、浄土真宗のお坊さんが発明した飲み物だったのです。
 そのお坊さんの名は『三島海雲(ミシマカイウン)』といい、大阪の小さなお寺に生れました。(ちなみに、今は大きなお寺でっせ。僕の友人のお寺なのです。取材協力ありがとう・・余談でした。)
 それでは、そのお坊さんの一生と、カルピス発明のお話を聞いて頂きましょう。
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 三島海雲は、明治11年、大阪は箕面の〔教学寺〕の住職『三島法城』師の長男として生れました。
 幼い頃の『海雲』は、病弱で強度の吃音の為、ほとんど話ができなかったそうです。
 そこで母は、涙を浮かべながら近くの河原で、大声で話す練習をさせて、優しく粘り強く『話す事』を教えました。
 その努力の甲斐あって、五歳を過ぎた頃、海雲はようやく人並みに話す事ができたそうです。
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 やがて青年になった海雲は、西本願寺文学寮(今の龍谷大学)で学問を学び、卒業後は英語の教師として、山口県の中学校へ赴任します。
 ・・その後、海雲に、「中国大陸に渡って、そこで〔日本語教師〕として働かないか?」という話が来ます。
 お坊さんの資格(得度)は取りましたが、お寺の跡継ぎにはならず(父親との確執・不和もあったそうです・・)、冒険心溢れた海雲は、この時、中国へ渡る決意をしたのでした。 つづく 

紙芝居:「出家とその弟子(第三部 父と子)」 その5(最終回)

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(善鸞)「お父上、善鸞でございます! お会いしとうございました。・・どうか、お許し下さい。私は、私は・・」
(親鸞)「善鸞、許されておるのだ。 誰も裁くものなどおらん。」

(善鸞)「私は悪い人間でした。多くの罪を作りました。私のせいでたくさんの人が迷いました。」
(親鸞)「お前の罪はすでに、〔阿弥陀如来〕様が先に償うて下さっている。・・許されておるのじゃ。
 のぅ善鸞、わしはもうこの世を去る。
 ・・最後に聞きたい。お前は〔阿弥陀如来〕様の《お救い》を信じるか?」
 
(善鸞)「ゲッ!?」

(親鸞)「善鸞、わしを安心させてくれ。ただ『信じる』とだけ言うてくれ。」

(善鸞)「お父上、・・私には申せません。」

(親鸞)「ゲッゲッ!」
(唯円&その他の僧)「ゲッゲッゲのゲッ!」

(善鸞)「・・本当のところ、私は〔阿弥陀如来〕様のお力が信じきれないのです。
 本当に〔阿弥陀仏〕は、我々を救い取って下さっているのでしょうか? 私たちの罪をすべて償っていて下さっているのでしょうか?・・正直、私には解らない。だから、信じるとは言えないのです。」

(親鸞)「・・そうか、お前は〔阿弥陀如来〕様の救いが信じられんか。
 ・・・・いや、それで良いのじゃ。それで良い。
 阿弥陀如来という仏様は、信じきれない者も、救い取って下さる仏様じゃった。
 ・・ただ、阿弥陀様のお名前『ナムアミダ仏』とお呼びし、救い取って下さっていることに感謝申す。それが一番大切なことじゃった。
 ・・お前は〔阿弥陀〕様を信じきれなくても良い。
 それでも〔阿弥陀〕様は、お前を見捨てはしないだろう。
 信じきれぬままで、阿弥陀様はお前を救って下さっている。
 安心せぇ。」

(善鸞)「父上、意味、解りません?・・私はすでに救われているのでございますか? こんなに苦しみ悩んでいるのに・・。」

(親鸞)「・・解らんでもよい。すでに救われておるのじゃ。いつか解る。必ず解る、善鸞。・・南無阿弥陀仏。・・さらばじゃ。南無阿弥陀仏。」

(善鸞)「お父上!」
(唯円&その他)「お師匠さまっ!」

(医者)「ご往生でございます。」

(善鸞)「・・あぁっ、父上。 ナムアミダブツ・・。」
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 おしまい

 ~終わりにあたっての一人事~
 何という、意味難解な終り方でしょう。
 善鸞は、「迷っている」と言っているのに、
 親鸞は、「すでに救われている」という。

 善鸞は、「信じられん」と言っているのに、
 親鸞は、「信じられんでも、向こう(仏)はすでに救い取ってるから、そんなことかまわん。安心せぇ」と言う。

 信仰の極致のようなこの問答。
 
 書いてて、自分でもよう解らん・・気持ちでした。

 実際のところ、親鸞聖人の臨終の場に、善鸞さんが登場される史実はありません。・・が、こちらの話の方が救われるような気がします。
 自分の心を深く見つめ、自己反省の鬼のような極致に至った人間、親鸞。
 自分自身の心を深く見つめれば見つめるほど、自分は《悪》であるという結論に至った人間、親鸞。
 しかし、親鸞聖人は「わしは、悪人じゃ~!好きなように生きたるわい!」と考えず、(悪なればこそ)謙虚に謙虚に、謙虚の鬼のようになり、(『自分に厳しく、他人に優しい』という言葉のお手本みたいな)仏のような境地になられました。
 こんな悪の塊りのような自分が生きている。・・それは『生きている』のでなく、〔仏さま〕によって『生かされているのだ』。だから生きていけてるのだ、いや、救われているからこそ生きてられるのだ・・と考えられたのでしょう。
 そして、弟子たちに慕われ90年の波乱の生涯を送られました。
 魅力的です。
 願わくば、私も自己内省(内観)を深めて生きたいと思うのですが、そんな勇気はありません。おそらく、紙芝居を作ることによって自分自身の心をちょびっと見つめることしかできないでしょう。 でも、それで良いのです。 すでに救われているのですから。 そう、親鸞聖人もこのお話の中でおっしゃっておられたではありませんか。 ナムアミダブツ、南無阿弥陀仏。合掌

 尚、この(深い)壮大な宗教文学の紙芝居化は、私の力不足でもあり、これが限界です。願わくば、原作を一度読んで頂ければ幸いです。もっと活き活きとした「唯円房」、「善鸞」、「左衛門」、「かえで」が登場し、ほんまマニアにとってはおもろい一冊です。是非、一読を ほんまにおしまい。 
 
 

紙芝居:「出家とその弟子(第三部 父と子)」 その4

 病床の間で・・。
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(唯円)「お師匠さま、お薬をお召しになられませんか?」

(親鸞)「薬はもうよい。・・覚悟は出来ておる。仏さまがお召しになるのだよ。 この世の御用が尽きたのだ。」

(唯円)「・・・。」

(親鸞)「わしは随分長く生きた。・・・90年。 これは人に許されるまれな高齢じゃ。 金さん、銀さんには負けたがのう。」

(唯円)「・・・。」

(親鸞)「・・しかし、この期におよんでも、まだもう少し生きたいと思う。そんな心が残っておる。 浅ましいのう・・。」

(唯円)「お師匠さま、主な『ご門弟』は皆、集まっておられます。」

(親鸞)「おおっ、そうか。」

(唯円)「しかしながら、勘当されました〔善鸞〕さまは、この場に居られません。
 ・・・ご往生にあたって、どうか一言。『善鸞さまを許す』と申して頂けませんか?
 これは、我々皆の願いなのです。」

(親鸞)「わしは、すでに〔善鸞〕を許しておるよ。・・心の中では早うになぁ。」

(唯円)「では、こちらに〔善鸞〕さまをお招きしてもよろしゅうございますか?」

(親鸞)「何っ? 善鸞がここに来ておるのか?」

(唯円)「はい、先ほど、早飛脚でこちらにもうすぐ到着するとの連絡がありました。」

(親鸞)「・・そうか、善鸞に会えるのか。」

(唯円)「到着されましたら、お師匠さまのお口から直接、『許す』と申していただけませんでしょうか?」

(親鸞)「・・わかった。 ・・しかし、善鸞の《信心》が、今はいかがなものか? 尋ねてみねば、ならんのう・・。
 あやつは《阿弥陀仏》さまをどう思っているじゃろうか?・・是非、聞いてみたい・・。」

 その時、あわてて〔勝信尼〕が部屋の外から声を掛けました。

(勝信尼)「お前さま、唯円さま、善鸞さまが到着されましたー!」
(唯円)「そうかっ、すぐにお部屋に入ってもらうようにお伝えせよ。 お師匠さま、善鸞さまが到着されました!」

(親鸞)「おぉっ、そうか。善鸞、善鸞・・・。」
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 つづく。 次回、いよいよ最終回。


 

紙芝居:「出家とその弟子(第三部 父と子)」 その3

 ・・どうして、親鸞聖人は、実の子〔善鸞〕房を義絶したのか、その訳を〔唯円房〕は妻に語り始めました。 
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(唯円)「昔、親鸞聖人は、関東の地で長い間、布教された。
 そしてその後、京都に戻られ、執筆活動に入られた。

 しかし、お聖人の居られなくなった関東の地では、〔念仏の教え〕に対して、異論が沸きあがったんじゃ。
 その異論者たちの団体(新興勢力)は日に日に大きくなっていった。
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 それに対してお聖人は、その者たちの異論を正そうと、ご自分の名代として、ご子息の〔善鸞〕さんを、使者に派遣された。
 ・・がしかし、善鸞さんには、そのような大役は無理であった。
 いつしか、善鸞さんも、その異論者たちに巻き込まれ、その仲間になってしまったんじゃ。
 そして、関東の地はさらに大パニックに陥り、・・それを収集させようと(お聖人は涙を呑んで、)善鸞さんを義絶し、混乱を収めたのじゃ。
 ・・これが、義絶(勘当)の理由じゃ。」

(勝信尼)「・・その後、善鸞さまはどうなされましたか?」
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(唯円)「・・うん、もう、焼けのやんぱち、日焼けのなすび、色が黒くて食いつきたいが、わたしゃ入れ歯よ、歯がたたないわ、という、寅さんの口上のような気分に陥り、眉唾な新興宗教の教祖のようになり、毎日、酒びたりで荒れた生活をされたらしい。

 ・・そう、それ以来、善鸞さんは京には戻って来られなかった。
 まぁ、お聖人に合わす顔もなかったであろうが、善鸞さんも頑なに詫びを入れなかった。
 時どき、隠れるように京に帰ってきては、父の噂を聞き、そしてすぐ又、関東へ帰ってしまわれるらしい・・。
 わしが風の噂で聞くところによると、『父上に直接会って謝りたい』と、最近では言っておられたそうじゃが、等々、それも叶わなかった。

 ・・が、本当はお聖人も、善鸞さんに会いたいはずじゃ。実の親子なのじゃもの。
 しかし、世間の目もあって、それも叶わなかったのだと思う。」

(勝信尼)「・・なんと、悲しいお話ですこと。」

(唯円)「だから、わしはお聖人に内緒で、善鸞さんを探し、『お聖人がご危篤です。すぐに来られよ』と、手紙を書いた。
 ・・帰って来てくれれば、良いが。」  つづく

紙芝居:「出家とその弟子(第三部 父と子)」 その2

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 ・・余談になるが、個人的に戯曲『出家とその弟子』と、映画『スターウォーズ』は似ていると思っている。
 まず、どちらも壮大な「大河ドラマ」であると言う事。
 そして、物語のテーマが似ている。
 「師匠と弟子」=(オビワンとアナキン、又はヨーダとルーク)=(親鸞と唯円)、
 「善と悪」=(ジェダイとシス)=(親鸞と左衛門との問答)、
「そして禁断の恋」=(アナキンとパドメ)=(唯円とかえで)、
そして「父と子」=(アナキン〔ダースベイダー〕とルーク〕)=(親鸞と善鸞)・・。
 ひょっとして、ジョージルーカス監督は『出家とその弟子』を読んでいたの?・・んな訳ないか。

 余談ついでに、もう一つ。
 「唯円とかえで」は、どのように過程で結婚まで至ったか?
 それは、原作(戯曲)にも書かれていない。・・おそらくそれは、この戯曲のテーマからいうと、「そんな事、たいした事ではないので(読者に)そのへんは勝手に想像してね」と、作者(倉田百三氏)が言っているように思える。
 それも、(ひとつ例を出すならば)「スターウォーズ エピソード2」と「エピソード3」の間を紡ぐ、大事な「クローン大戦」のエピソード部分が映画には無くて、結局、アニメでちょびっと作り、ファンに「そこんとこは、想像してね」と、ルーカス監督がしたのも似ているような気がする。

 あかん!・・なんか、このままでは今回「出家とその弟子」の本筋からどんどん離れていくような気がする。 
 この辺で物語に戻すことにします・・。 余談でした。
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(かえで)「お前さま、それで、ご子息〔善鸞〕さまにご連絡なされましたか?」

(唯円)「・・・。 うん、お師匠さまには内緒で、関東にいる〔善鸞〕殿に手紙を出しておいた。
 追っ付け、善鸞殿も駆けつけて来られよう。」

(かえで)「・・お前さま、一つお聞きしてもよろしょうございますか? どうして善鸞様は、大事な跡継ぎのご長男でしたのに勘当されてしまわれたのですか?」
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(唯円)「うん、それはな・・。」 つづく

(又、つづくかいっ!? ひとつも話が進んでないやいけ!・・余談ばっかり書いてるから、こうなってしもうた。〔涙〕)

紙芝居:「出家とその弟子(第三部 父と子)」 その1

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 昔むかしの鎌倉時代。
 ・・前回の『唯円房の恋』のお話から、15年が経ちました。
 お念仏の教えを世に広められた〔親鸞聖人〕も御年《90歳》を迎えられ、ついに病(ヤマイ)に倒れられてしまわれました。
 そしていよいよ、その御往生の時が迫ってきておりました。
 ・・これは〔親鸞聖人〕とその息子〔善鸞(ゼンラン)〕さんとの、最後の別れのお話です。

(子供)「エーン、エーン、唯円父さまー。お母様があちらで泣いておられます~。」
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(唯円)「そんな大きな声を出してはいけないよ。
 ご病気の〔親鸞お聖人〕が、びっくりされるだろう。
 〔かえで〕、・・いやお母様のことは心配しなくても良いぞ。
 お父様が、すぐに慰めに行くでな。
 お前たちは、お部屋で静かに遊んでなさい。」
(子供)「はーい。」

(唯円)「かえでー、かえでー、かえでは居るか?」
(かえで=勝信尼)「はーい、お前さま、私はここにおります。」
 
 ・・そう、前回のお話から15年。
 〔唯円〕と遊女〔かえで〕は、晴れて結婚し、夫婦となっておりました。(・・そうか、こんなオチが待ってたのか。〔皆の声を代弁〕)
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(唯円)「〔かえで〕、いや、今は〔得度〕をして〔勝信尼〕であったな。
 子ども達が、『お前が泣いている』と言って心配しておったぞ。
 いくら悲しくても、子供の前でそんなに涙を見せてはならん。
 ・・ところで、お師匠様のご容態は、そんなに悪いのか?」

(勝信尼)「はい、お医者様が『今夜がヤマだ』とおっしゃっておられました。」

(唯円)「そうか、いよいよご臨終あそばすか。
 ・・考えてみれば、お前と私が晴れて夫婦となり、今このように子供も授かり、幸せに暮らせるというのも、何かとお師匠さまがお世話を焼いてくださったお蔭じゃ。
 まだ、その『恩返し』も出来ん内にお別れとは、私も涙が溢れてきた・・。」

(勝信尼)「お前さま、主な門弟の皆様には、ご連絡なされましたか?」
(唯円)「うん、皆にはわしから手紙で知らせておいた。」

(勝信尼)「では、ご子息の〔善鸞〕さまへは?」

(唯円)「・・・」

(何じゃ、この「・・・」は?、続きは次回。)つづく

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