住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「不思議なクマグス」(その3)

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 大学を辞め、和歌山に帰ったクマグスは、
「わしに日本は狭すぎる!本当の学問は、本場の外国に行ってやらねばならん!」と、父に無理を言って旅費を出してもらい、単身アメリカに渡ることにしたのでした。
ファイル 906-2.jpg(アメリカ留学中の熊楠)
 そして、アメリカの大学で勉強を始めました。
 しかし・・、
 一年も経つと、クマグスは大学の寮で揉め事に巻き込まれ、その大学を辞めてしまいました。
 その後、和歌山の実家からの仕送りも途絶え、窮したクマグスは、
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 南米キューバに渡り、サーカス団に入団し〔象使い〕の助手をしながら、各地で植物採集をして、研究を続けたのでした。

 その後、クマグスはイギリスに渡り、誰の助けも借りず、独学で勉強を続けました。
 その甲斐あってか、やがて〔大英博物館〕の部長に見出され、クマグスは博物館の助手として雇われ、そこで活躍し、彼の研究は学会でも発表され、世界的に名が知られるようになっていったのでした。
 が、しかし・・。(又しかし、かいっ!)
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 またもやここで、クマグスは事件を起してしまいます。
 それは博物館で日本人を軽蔑し、クマグスに唾を吐きかけた白人を殴ってしまったのです。
 それで、クマグスは博物館を追い出され、収入の道を無くしてしまいました。
 そしてついに、クマグスは友達にお金を借りて、日本に帰る決意をしたのでした。 
 この時、外国に渡ってから、すでに14年の歳月が経っておりました。 つづく

紙芝居:「不思議なクマグス」(その2)

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南方熊楠(ミナカタ・クマグス)は、和歌山県の人です。
 今から、百二十年程前の年号が『江戸』から『明治』に変わる少し前、クマグスは、和歌山城下の裕福な金物屋の次男に生まれました。
 「熊楠(クマグス)」という変わった名前は、父親が付けたものです。
 「いいか、熊楠。お前は『熊野権現』さまの『熊(クマ)』の字と、ご神木の『楠の木』の『楠(クス)』の字を頂いて、『熊楠』と名づけたんだぞ。だから、神様を大事にして元気に育つのだぞ。」と、父親は〔クマグス〕を背負いながら神社の前で言いました。
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 さて、クマグスは言葉が遅く、六歳になるので話すことが出来なかったそうです。
 その代わり、絵や文字に大変興味があり、一度読んだ本や、覚えた物事は絶対忘れないという特殊な才能がありました。
 小学校の時代のクマグスは、友達の家から〔百科辞典〕を借りて、全部書き写したというエピソードが残っています。  
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 和歌山中学(現在の桐蔭高校)に進んでからのクマグスは、読書と書き写しに加えて、自然観察や写生に熱中するようになります。
 時には通学の途中、珍しい昆虫を見つけ、学校に行くのを忘れて、山の奥深くに入ってしまい、何日も帰って来ないことがありました。
 家族や町の人々は「クマグスが天狗にさらわれた!」と大騒ぎになった事件があったそうです。
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 和歌山中学を卒業したクマグスは、東京に出て大学予備門(今の東京大学)に入学します。
 しかし、「自分が目指す学問の授業が無い!」と、途中でクマグスは大学に行かなくなります。
 そして、毎日「図書館」に通い、植物採集の旅などをしている内に落第し、結局二年で大学を辞めてしまい、和歌山に帰ることになったのでした。 つづく

紙芝居:「不思議なクマグス ~南方熊楠の生涯」(その1)

(はじめに)
 10年ほど前になるが、和歌山県の「白浜はまゆう病院」へ、お寺の出前に行ったことがある。
 その時、講演の時間までまだ時間があった為、近くの『南方熊楠記念館』に寄った。
ファイル 903-1.jpg(白浜:南方熊楠記念館)
 それまでに、テレビや雑誌でこの『南方熊楠(ミナカタクマグス)』さんの事は知っていたが、実際この記念館を見学したのち、さらに身近に感じ「紙芝居化したい」と、この時から思いだしたのだ。
ファイル 903-2.jpg(記念館内部)
 そしてその後、何度もこの記念館に足を運び、(ついでに白浜温泉にも浸かり〔笑い〕)、又いろんな〔熊楠関係の〕本を読み、二年ほど前にようやくこの紙芝居は完成した。
 書き直したい所も(多少)あり、なかなか発表までこぎつけなかったが、今回「もう、このへんでエエやろ」と思ったので、ここに発表させて頂くことにする。
 ちなみにこのへんてこな題名は、テレビアニメ『不思議なメルモ』(手塚治虫原作)をダブらせて付けさせて頂いた。
 知ってる人は知ってると思うのだが、ここで「メルモちゃん」の歌のさわりを少し・・。「メルモちゃん、メルモちゃん、メルモちゃんが持ってる、赤いキャンディー、青いキャンディー知ってるかい? ちょうちょは卵に ベビーは大人に 小さくなるよ大きくなるよ、スゴイよ」・・もっと書きたいが、今回はこのへんにしておく。(余談になるが、僕はずっとこの歌を口ずさみながら、この紙芝居を書いた。〔笑〕)
 そう、僕の頭ではこの熊楠(クマグス)という方は、奇妙奇天烈で、とても常識では理解出来ず、まるでこのアニメの題名そっくりな不思議な人なのである。・・だから、こんな題名にした。 
 それでは『不思議なクマグス』のはじまり、はじまりー。  
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 ミナカタ・クマグスは不思議な人。
 皆さんは、南方熊楠って知ってますか?
 ある人は、彼を「植物学者」と呼び、又ある人は「民俗学者」と呼びました。
 クマグスさんは世界の国の言語18ヵ国語を話し、動物・植物・天文学・歴史から仏教哲学まではば広い知識を持ち、『歩く百科事典』と呼ばれ、不思議なところでは〔幽霊〕とも話すことができたというユニークな大学者なのです。
 つづく

紙芝居:「念仏もうせ物語~道綽禅師のはなし」(後編)

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 道綽(どうしゃく)さまは、朝、目が覚めてから、夜、眠るまで時間を惜しんで『念仏』されたそうです。(思い立ったら、とことんやるタイプだったのですね。・・こんな人、一学年に一人、学校に居りましたよねぇ。〔笑い・・笑てどうすんねん!〕)
 その『念仏』の数は、一日〔七万遍〕を超えたそうです。(一時間は3600秒で、一日24時間ですから、一日86400秒。一秒間に一回念仏を称えたとしても、一日20時間近く念仏を称えなければ、七万遍になりまへん。・・ようやるわ。・・こんな人、一学年にひとり、おりまへんなぁ。)
 まぁ、それ程、念仏に打ち込まれたのです。・・この御方は。
 又、その念仏の数が正確と解るように、〔モクゲンジ〕や〔小豆〕の種で、計算された伝わっています。  
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 そして道綽さまは、言われました。
 「皆さ~ん、世の中は乱れ、人の心も悪くなり、罪を作るより他何もできません。
 私たちの救われる道は、お念仏なのですよ。
 さぁ、皆さんご一緒に念仏を申しましょう!」と。
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 「さぁ皆さん、お念仏を一回称えることに、お数珠の珠を一粒、動かしてください」と、道綽さまはみんなに教えて、念仏の数を競争させてものですから、皆もう熱中して大変でした。
 ナムアミダブツ、ナムアミダプツ、ナムアミダブツ・・・。
 このように、玄中寺にお参りするたくさんの人の念仏の声は、一日中、波(ウエ~ブ)のように辺り一面、響き渡りました。
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 こうして玄中寺には、連日、道綽さまを慕ってたくさんの人がお参りに来られ、念仏の声が途絶えた日は無かったそうです。
 さて、その道綽さまがご病気になられたのは、84才の時でした。
 心配して駆けつけて来られた多くの方に囲まれて、道綽さまは西を向いてお話なさいました。
 「みんな、私は先に往って待ってるからね。みんなもお念仏を喜び、極楽に生まれさせてもらいなさいよ。」と言って、いつものような笑顔のままで、息を引き取られたそうです。
 
 その後、たくさんのお弟子の中から、《善導(ぜんどう)大師》という御方が、道綽さまのお心を受け継がれ、さらにお念仏の教えを広めてゆかれるのですが、それは又、別の『紙芝居』。
 道綽さまのお話は、これにておしまい。
 
 

紙芝居:「念仏もうせ物語~道綽禅師のはなし」(中編)

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 心の安らぎを求める為、道綽(どうしゃく)さまは次に『坐禅』を実践する教団に入門され、ひたすら『坐禅』の修行に打ち込まれました。
 しかし、その修行によって明らかになってくるものは、どれ程ひたむきに修行に励んでも、〔煩悩〕を絶つ事が出来ぬという、醜い自分の姿でした。
 戦乱の続いた苦しい時代を体験された道綽さまは、今自分の生きている時代は《末法(まっぽう)の世》だと思い始めていたのでした。
 ・・ちなみに簡単に説明しますと、仏教には《正法(しょうほう)》・《像法(ぞうほう)》・《末法(まっぽう)》という三つの時代観があります。
 《正法》とは、お釈迦さまが亡くなられてからの500年間であり、まだ修行して悟りを開く人が居る時代をいいます。
 《像法》とは、正法が終ってからの1000年間であり、修行する人は居るが、悟りを開く人は居なくなってしまう時代のことです。
 そして《末法》とは、像法が終ってからの10000年間で、この時、仏教の教えはあっても、修行する人も悟りを開く人も誰ひとり居なくなるであろうという時代です。(・・誰が考えてん?!)
 道綽さまはご自分の体験から、今、自分の生きてる時代は《末法》の時代に間違いないと思われたのです。 
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 それで、絶望された道綽さまは「旅にでも出るか・・」と思われ、センチメンタル・ジャーアーニィ~~に出発されました。
 そしてその途中、曇鸞(どんらん)大師が亡くなったいう『玄中寺』というお寺で、一休みされた時のことです。
 そこで、曇鸞さまの御一生が刻まれた『石碑』を見つけました。
 「うーん、何々。・・仙人の教えを捨てて、ただ『念仏』のみに縋り、仏さまにして頂こうと信じ、それを喜ばれ実践されたお方。・・そしてそれを皆にも勧めた・・か。
(もっと詳しく曇鸞さまを知りたい方は、https://o-demae.net/blog/archives/463.htmlへゴー!)
 なんと、このような御方でも、学問・研究を捨て、アミダ仏様に縋って『念仏』を称える道を選ばれたのか・・。
 そうだ、いたらぬこの私も、その道を歩むしかない!」と、道綽さまはその石碑を読んで、一大決心をされました。
 この時、道綽さまはすでに48才になっておられました。
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 「私は曇鸞さまの御あとを慕って、お念仏を実践することにする!」と、そのまま『玄中寺』に留まり、寝ても覚めてもひたすら念仏を称える実践修行に入られたのです。 つづく

紙芝居:「念仏もうせ物語~道綽(どうしゃく)禅師のはなし」(前編)

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 『七高僧』のお一人、「道綽(どうしゃく)禅師」は、今から一千四百年程前に、中国でお生まれになりました。
 道綽さまの生まれた頃の〔中国〕は、三つの国に分かれており、お互いが対立しておりました。
 道綽さまの国〔北斉(ほくさい)〕では、そのころ、イナゴの大群による被害や、旱魃・水害が起こり、食べ物を巡る醜い争いが、何度も起こっていました。
 庶民であった「道綽」さまは、その醜い争いを見て、深く思う所があり、僧侶になる決心をされたのでした。
 時に道綽さま、14才でした。
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 しかし、道綽さまが出家されてから二年目に、〔北斉〕で大きな戦争が起こりました。
 そして、かねてより中国統一の野望を抱いていた、〔北周〕の「武帝」という王が、〔北斉〕に攻め入り、北斉国を滅ぼしてしまいました。
 その「武帝」は、元から仏教が大嫌いでした。
 それで、仏像を壊し経典を焼き、すべての僧侶は、元の庶民に還俗させられました。
 僧になってまだ二年の「道綽」さまも、元の庶民に戻り、この仕打ちをじっと我慢しておりました。
 それから一年後、武帝は亡くなり、新しい国〔隋〕が生まれました。
 この〔隋〕の王は、武帝と違って、仏教にたいへん好意的でした。
 それで又、やがて仏教は認められる事になり、「道綽」さまも再出家される事になったのです。
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 再び出家された時、道綽さまは20才になっていました。
 本来まじめな「道綽」さまでしたので、又また、寝る間も惜しんで難しいお経を勉強され始めました。
 そして、やがて多くの人々からたいへん尊敬されるような偉い僧侶になりました。
 しかし、本人の道綽さまの心は、一向に安らいではおりませんでした。 つづく

紙芝居:「共命鳥(ぐみょうちょう)のはなし」 (後編)

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「くっくっくるしい~。・・僕も目が霞んで来た。あぁっ・・そうか。僕達は頭が二つでも、身体は一つ。
 毒が身体に回ってきたということか。・・罰が当ったんだな。やがて僕も死ぬという事か・・。」と、つぶやきました。
 その時です。
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 その様子を《極楽浄土》から、じっと見て居られた仏さまが降りて来られました。
 そして仏さまは、
「共命鳥よ。お前はまもなく死ぬ。最後に何か言っておきたき事はあるか?」と問われました。
 共命鳥は、
「・・はい、仏さま。私は愚かものでした。
 私は隣の頭よりも、優れている思っておりました。
 しかし今、隣の頭が居てくれたからこそ、自分が生きてこれた事に気がつきました。
 ・・しかし、もう遅うございます・・。」
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 「いや、共命鳥よ。遅くはないぞ。 よくぞ、そこに気がついた。
 そしてもう一つ大事なことは、他を害するものは、自分も害することになると云う事じゃ。解ったかな。」と、仏さまは言われました。
 「・・はい、よく解りました。仏さま。」
 「よしっ、それが解ったなら、お前を《極楽》へと連れて行ってやろう。
 そして極楽浄土で、仲良く暮らすことの大切さを皆に説きなさい。」と言うやいなや、仏さまはその共命鳥を両手でそっと掴み、「シュワッチ!」と極楽へと飛び立ちました。
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 それで今でも、この二つの頭のある〔共命鳥〕は、極楽の国で、『支えあう』事の大切さを説きながら、優雅に飛び回っているということです。 おしまい。
ファイル 863-5.jpg(仏像はんこ愛子さんのTシャツ)
 (おまけ)
 『仏像はんこ愛子』さんが、この〔共命鳥〕を描いたTシャツを作られました。「これは、是非欲しい!」と思われた方は、『仏像はんこ愛子』さんのホームページへ、GO!
http://www.ac.auone-net.jp/~butsuhan/Tshirts.html(・・売り切れてないかなぁ・・〔笑い〕)

紙芝居:「共命鳥(ぐみょうちょう)のはなし」 (中編)

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 そして或る日、一方の頭はわざと〔毒の実〕を見つけて言いました。
「おい君っ、あそこに美味しそうな果物の実があるぞ!僕も食べたいけど、いつも僕が先に食べるので、今日は君が先にお食べよ」と・・。
 するともう片方の頭が、
「そうかい、悪いねえ。じゃあ、先に戴くよ」と言って・・、
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 パクッと、毒の実を食べました。
「あぁっ、美味しい!」
 ・・しかし、しばらくすると、
「あぁっ~~、苦しいー!喉がヒリヒリするー」と言って、泡を吹き始めました。
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 それを見た片方の頭が、
「君っ、どうしたんだい!?」と聞くと、
「・・いけない。どうやら僕は〔毒の実〕を食べたようだ。だんだんと目が霞んできたよ。・・・でも、良かったよ」と言ったので、
「えっ、なぜ?」と、聞き直しました。
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 毒の実を食べた方の頭は言いました。
「いつも君とは喧嘩ばかりして来た。 僕が『東へゆく』と言うと、君は『西にゆく』と言う。 僕が『そろそろ休もう』と言うと、君は『いや、もうちょっと飛ぼう』と言う。・・が、よく考えてみれば、いつも君の判断の方が正しかった。君には毎度助けられたよ。・・僕が居なくなれば、これから君はずっと正しい道を選べるよ。だから、これで良かったのさ・・。じゃあ君、いろいろとありがとう。さようなら・・」と言って、その頭はもう動かなくなりました。
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 それを聞いて、もう片方の頭はそれはもうびっくりして、
「あぁっ、なんて事を僕はしてしまったんだー!!」と叫びました。
 しかし・・、  つづく

紙芝居:「共命鳥(ぐみょうちょう)のはなし」 (前編)

 極楽浄土という国には、いろんな色鮮やかな鳥がいるらしい。
 その中で、一羽の変わった姿をした鳥が一際目立つ。
 その鳥の名は、〔共命鳥(ぐみょうちょう)〕という。
 この鳥、身体は一つであるが、頭は二つある。
 一見、東宝の特撮映画に出てきそうなこの鳥、うちの本堂の〔須弥壇(しゅみだん)〕にも居る。(写真参考)
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僕は毎日、本堂でお勤めしながら、この変わった鳥に目を引かれていた。・・そう、『どうして、このような姿の鳥が〔極楽〕にいるのだ?!』と、他のどんな色艶やかな鳥よりも、この鳥に興味を持ち、そしてとうとう、その鳥の紙芝居を作ってしまった。
 それは、『絆(きずな)』という言葉の意味が問われている今だからこそ、作ろうと思ったのかもしれない・・。その意味は、本編を読んで頂ければ解ります。
 又、これは余談ですが、「共命鳥」のモデルは、クエッ、クエッ、クエ~のCMのキョロちゃんと、セサミストリートのビックバードを合体させて描いてみました。(笑い)
 ・・それでは『共命鳥のはなし』、はじまりです。
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 ここは、極楽の国。
 ここに、一羽の変わった姿をした鳥が居りました。
 その鳥の名は『共命鳥』と云いました。
 この鳥の身体は一つなのですが、頭は二つありました。
 今は穏やかに、この極楽で優雅に飛んでおりますが、かつてはそうでは無かったのです。
 そう、これはまだ〔共命鳥〕が、極楽に生まれ変わる前のお話です。 
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 昔むかし、この二つの頭を持った鳥は、ヒマラヤの雪山近くに棲んでいました。
 頭が二つあるということは、エサを探すには便利ですが、一度意見が違うと大変でした。
 今日も今日とて、右の頭が、
「あっ、あそこに美味しそうな果物がある!行ってすぐに食べようじゃないか。」というと、左の頭が、
「それよりも、僕は喉が渇いたよ。池に行ってお水を飲もうよ。」と言い、お互い譲らず・・、 
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 やがて喧嘩が始まりました。
「君はどうして、いつも僕の言うことに反対するんだ!」
「何を言ってる!? 君こそ、僕の言うことを素直に聞いたためしが無いじゃないか!」
「何だと!」
「やる気か!」
 と、くちばしで突っつきあいが始まり、お互い、いつも傷だらけになっておりました。
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 そして、ついに一方の頭が、
「あいつなんか居なくなれば良いんだ!」と、もう片方の頭に〔毒の実〕を食べさせようと思いついたのでした。 つづく

紙芝居:「滝畑に磨崖仏(まがいぶつ)あり」 (後編)

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 「磨崖仏」は、はじめに『聖(しょう)観音菩薩像』から、彫り始められました。
 この仏さまは、災難や恐怖を取り除いて下さる御方です。
 庄吉さんは、近隣のお寺さんからいろんなアドバイスを頂きながら、旅人の安全を願う気持ちを大事にして、この仏さまを彫り始められたのでしょう。
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 『聖観音菩薩像』完成後、庄吉さんは次に、その隣に『地蔵菩薩像』を彫り始められます。
 地蔵菩薩様は、〔死後の世界〕でも救い取って下さる仏さまです。
 滝畑の崖で、亡くなられた方の鎮魂の気持ちを込めて、この仏さまを彫ろうと思われたのでしょう。
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 昭和六年、六年間余り掛かった二体の磨崖仏は、ついに完成しました。
 そして完成とともに、京都から僧侶をお招きし、お祝いの〔落慶(らっけい)法要〕が開かれました。
 又、お手伝い頂いた地元の方達に、感謝の気持ちを込めて『餅巻き』も行われたということです。
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 その後、大仕事を成し遂げられた〔夏目庄吉〕さんは、磨崖仏完成から六年後の「昭和十二年」に、六十一歳でお亡くなりました。
 晩年、お孫さんとご一緒に写された、この絵のようなお写真が、今も残っています。
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 「磨崖仏」完成から、三十六年の月日が経ちました。
 この場所に、大阪府は昭和四十八年から九年間掛けて、『滝畑ダム』を建設しました。
 このダムは、〔農業用水〕の他に、大雨の際は〔洪水〕を防ぐ役目も果たしています。
 この巨大なダムの北側の岩肌に、今も二体の仏さまが優しく微笑み、我々を見守って下さっています。 おしまい

 〔参考資料〕
 河内長野市「生涯学習情報紙」(平成19年3月№22号)より、
 「かわちながの観光ボランティア倶楽部」招集資料、
 河内長野市「児島写真館」より古写真、
 図説 河内長野市史、
 郵政省郵政研究所付属資料館より「制服の移り変わり」など。

(あとがきに代えて)
 ・・この紙芝居が完成した今も、まだ「悩んでいる」。
 (滝畑地区の歴史も、そして夏目さんが磨崖仏製作に掛けた篤い想いも)ろくに解らない僕が、果たしてこの紙芝居を作って良かったのか?・・と。
 又、紙芝居製作に関して、(もうちょっと調べ上げてから作れば良かったのに)「見切り発車」し過ぎてしまったのではないか?・・などと悩む。
 この紙芝居製作に関しては、なぜ?何故?ナゼ?・・ばかりで随分、迷い、完成した今も「これで良かったのか?」という思いが強い。
・・というのは、まず、磨崖仏製作に対しての夏目さんの「動機」が(いま一つ)はっきりしていない、と言う点。
 これは(これだけの大事業をするに当たって)夏目さんの信心の篤さと、旅人を思う優しい気持ちだけで作ったとは、とても理解できない。
 ご自分の日々の生活の中で、やむにやまれぬ「苦しい心情」、いや出来事があったに違いない。(想像であるが。)
・・でないと、これだけの大きな仏像を(お金と時間と命を掛けて)六年間費やして、(一般の素人さんが)一人で彫り上げるのは無理であろう。
 僕は僧侶という仕事をする上で、身内(お子様など)を亡くされたので、お地蔵さまを彫られた方を何人も知っている。・・しかし、これだけの規模での彫刻は知らない。
 「なぜ、庄吉さん、こんなデカイ磨崖仏を彫ったのですか!?」と、(高所恐怖症でもある〔笑〕)僕が、何度も滝畑ダムの上から身を乗り出し、問いかけた。・・が、解らず終いだったが。
 あまり書きすぎると、あとがきにならないので、これで止める(実はもっとある)が、今挙げた一点だけでも、随分迷って書いた。・・だから完成した今も、夏目さんの心情にうまく触れていないような気がして、(上っ面ばかりの紙芝居でなんか申し訳なくて)反省ばかりなのだ。
 
 では何故「製作を急いだか?」というと、パソコンで『河内長野滝畑ダム』と打ち込んで検索した時、そこに数多くの、『滝畑ダム:大阪の心霊スポット』(エトセトラ)などと題する「軽いワイドショー的」興味本位な項目が一杯出て来たからだ。
 「こんな項目が上位にランクされるようでは、夏目さんの苦労が水の泡だ。又、地元に人に対して失礼ではないか」と腹立たしく思い、一刻も早くマイナスのイメージを払拭する為(微力ながらも)作品を作って、観光ガイドボランティアの皆様方に《滝畑には磨崖仏あり!》とハッスルして宣伝して頂きたかったからである。
 ・・本当に微力なのだが、この作品を(うまく好きなように利用して頂き)、夏目さんの志を観光客の方がたに、強く発信していただければ、(正月休みを返上して急いで作った〔笑〕)作者としてこれほどの幸せはありません。ガイドの皆さん、後はよろしくお願い致します。(何か僕で協力できることがあれば、何でもしますのでおっしゃって下さい。)そして、これを読まれた読者の方は、是非一度、(かわちながの観光ガイドボランティアさん等をご予約し)河内長野『滝畑』地区へお越しください。そして《生》の『磨崖仏』を、是非ご覧になって下さい。合掌
 
 

 

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