住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「捨聖(すてひじり) 一遍(いっぺん)上人」(その1)

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 「捨聖(すてひじり)」・・。
 時宗の祖、一遍(いっぺん)上人は、俗にこう呼ばれています。
 家や地位、財産や土地など、世俗の一切を捨て、『(人は)捨ててこそ、救われる』と説きながら、一遍上人は全国を旅して廻られました。
 その足跡は、九州から中国、四国、近畿、北陸、関東、東北と、各地に及んでいます。
 これは、すべてを捨てて、旅に生き、旅に死んだ、そんなお坊さんのお話です。
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 一遍上人は、鎌倉時代に四国は[愛媛県:伊予松山]に生まれました。
 一遍さまは、幼名を[松寿丸]と言い、瀬戸内海を制圧していた、水軍の豪族の子として生まれたのでした。
 しかし、父の代で戦に敗れ、家は衰退してしまいました。 そして、やがて母も亡くなり、父親は後添いを貰うことになったのです。  
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(愛媛県松山の一遍上人[生誕地]。現在は時宗の『宝厳寺』になっている。)
 つづく

紙芝居:「永観、遅し!」(後編)

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 驚き、立ち止まった永観さま。
 その姿に気が付かれた『阿弥陀』さまは、すっと首を左にひねって、こちらを向き、そして、こうおっしゃったのでした。
 「永観、遅し!」と。
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 その感激で、永観さまは涙を流しながら、又、行道を始められました。
 そして、いつしか夜は明けて、阿弥陀様は元の壇に戻ってゆかれました。
 しかし・・、
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 壇に戻られた『阿弥陀』さまのお首は、この日以来、(ムチ打ちのように〔いかん、最後にボケをかましてもろた!〕)左に曲げられたまま、もう二度と、元のお姿には戻りませんでした。
 その後、永観さまは、この日の体験から、さらに熱心にこの〔阿弥陀〕さまを拝み続けられ、又、民衆救済に、力を注がれたということです。
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 そして今も、この阿弥陀様は、『見返り美人』ではなく、『見返り阿弥陀』というお名前で、禅林寺永観堂で、お祀りされておられるのです。
 おしまい
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紙芝居:「永観、遅し!」(中編)

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そして、永観(えいかん)さまは、禅林寺で『浄土教』の布教をするかたわら、お寺境内に『薬王院(やくおういん)』を設け、病人や、罪を犯した囚人たちの更正にも、力をそそがれました。
 さらに・・、
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 日課として、一日一万遍の念仏を称え、修行を続けられました。
 そして、永保二年(1082)二月十五日、深夜。
 この日も、永観さまは夜を徹して、阿弥陀堂にて、念仏行道を行っておられました。
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 『念仏行道』というのは、ご本尊の阿弥陀像の廻りを、夜を徹して、念仏を称えながら、歩き続けるという厳しい修行です。
(永観)「南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ・・。」と、永観さまは、一心に称え、歩き続けておりました。
 堂内は、凍てつく様な寒さです。
 そして、そろそろ、夜明けが近づいて来たとき・・、
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 ふと、永観さまは、前方に何者かの気配を感じました。
 そして、「あっ」と、驚いた永観さま。
 思わず、息を呑んで立ち止まってしまいました。
 そう、前を歩いておられたのは、ご本尊の『阿弥陀』さまだったのですから・・。
 阿弥陀さまは、壇から下りられ、永観さまを先導されておられたのでした。 つづく

紙芝居:「永観、遅し!」(前編)

ファイル 1145-1.jpg(観念寺記念スタンプ)
 観念寺の〔記念スタンプ〕を作って下さった、『仏像はんこ愛子』さんが、ご友人たちと一緒に、東京で『第2回神仏画展』を開かれるらしい。
ファイル 1145-2.jpg(神仏画展案内状)
 (その案内状の絵からすると、)どうやら、彼女はそこで『見返り阿弥陀』ハンコを出展されるみたいだ。
ファイル 1145-3.jpg(永観堂の案内)
 ・・と、いうことで、彼女の出展をお祝いして、全三回で、僕も『見返り阿弥陀』の紙芝居を紹介したいと思う。
 いわば、彼女の露払いだ。(愛子さん、展覧会の大成功を、大阪よりお念じ申しあげます!)
 それでは、はじまり、はじまり~。
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 「永観、遅し!」。
 これは、遥か平安時代に、お寺の仏像「阿弥陀如来」さまが、修行中の『永観(えいかん、ようかんとも云う)』というお坊様に、お掛けになったお言葉と伝わっています。
 「でも、いったいなぜ?」
 これは、紅葉で有名な、京都は『永観堂 禅林寺』に伝わる不思議なお話です。
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 永観(えいかん)上人。
 この方は、平安時代のお坊様で、十一歳で禅林寺にて得度。のち、奈良の東大寺で仏教学を学ばれました。
 そして、三十一歳の時、貴族という特権階級の人々だけに、仏法を説く虚しさを感じ、地位と名誉を捨てて隠遁。
 禅林寺に帰り、独自の活動を始められたのでした。 つづく

紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その5 最終回)

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 このように、円空さんの作った仏さまは、どのような薬よりも、病人を安心させ、癒しました。
 又、子供たちに抱きつかれ、握りしめられる『心のおもちゃ』になりました。
 こうして、円空さんは、生涯12万体の仏像を作り、民衆の中で生き抜きました。 
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 その円空さんの膨大な仏像群は、『民を護る護法神』。
 『悪を懲らしめる憤怒仏』。
 又、『合掌せずにはおられない慈悲仏』。
 『握り締められる木っ端仏』、に分けられます。
 それらは、現在、全国各地に五千三百体確認され、お寺や神社、又は博物館などでまつられ、展示されています。(後の仏さまは、まだ発見されていません。・・もう無くなってしまったかも。)
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 円空さんは、64才で亡くなりました。
 その最後は、母の亡くなった長良川の川辺に穴を掘り、村人たちに見守られながら、自らその穴に入り、念仏を称えながら、土に埋もれて入定を果たしたといわれています。
 それは、川の氾濫を抑える為の『即身仏』という〔生き仏〕になる行為だったのです。
 そして今も、岐阜県関市の長良川の川辺に、この『円空入定塚』が、(円空さんが大好きだったという)藤の花の下に祀られています。
 おしまい
ファイル 1143-4.jpg(円空上人入定塚)
ファイル 1143-5.jpg(塚のすぐ横に流れる長良川)

紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その4)

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 又、こんなお話も伝わっています。
 ある日のこと、円空さんは、飛騨の国の正宗寺というお寺に滞在し、一体の〔薬師如来〕様を彫っておりました。
 その姿を、じっと窓から村の子供達が、何やらひそひそ話しながら眺めております。
 やがて、仏様は完成し、本堂に安置されました。
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 そして、円空さんがお昼寝をしていたある昼下がりのこと。
 子供達は、そっと本堂に上がり込み、仏様を皆で、外へ持ち出して行ったのでありました。
 それを、薄目を開けながら見ていた円空さんでしたが、何も言わず、又眠ってしまいました。
 いったい、仏さまはどこへ運ばれて行ったのでしょう?
 実は・・、
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 仏さまは、その頃、川の中で子供達と一緒に遊んでいたのでした。
 つまり、泳げない子供の〔浮き輪〕代わりになっていたのです。
 しかし、それを偶然見かけた一人のお爺さんが、びっくりして、
(じっちゃん)「こりゃーっ!お前達は、何と言う罰当たりなことをするのじゃぁ!すぐに、仏さまをお寺に返して来い!」と、すごい剣幕です。
 叱られた子供達は、しゅんとして、泣く泣く仏様をお寺へと戻しました。
 ・・しかし、その日の夜、その怒ったお爺さんが、高熱を出してうなされることになったのです。
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 そして、お爺さんの夢枕に、昼間の〔薬師如来〕様が立ち、
(お薬師様)「お前は何という余計なことをしてくれたんじゃ!わしは、子供たちと楽しく遊んでおったんじゃぞ!」と、怒って出て来られたのです。
 それを聞いて、お爺さんはびっくり!
(じっちゃん)「すっすっすみませんでした、仏様っ。そうとは知らず、わしが悪うこざいました。」と、必死で謝りました。
 すると、仏様は静かに消えて、不思議なことに、熱もスッと下がったのでした。
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 次の日、このお爺さんは、お供え物を持って、お寺にお参りに行きました。
(円空)「ほおっ、そんなことがあったのか。わしの彫った仏さまは、子供たちと遊ぶのが好きなんじゃよ。爺さん、村のみんなに伝えておくれ。これからも、病の者や、一緒に遊びたいという子供たちが居ったら、遠慮のぉ、仏様をお寺から持ち出しておくれと。・・仏さまも、きっとそれを望んでおいでじゃろうて。」と、言って円空さんは手を合わせました。
 そう、円空さんの彫られた仏様は、常に庶民と共にあったのです。

 ・・ここで少し、余談。
 僕はこの話を以前、テレビのまんが「日本昔ばなし」で見た。
 その時は、『これは円空さんが彫った仏様である』というエピソードがカットされていた為、このストーリーが納得できなかった。
 「お爺さん、正しいやん。なんでエライ目に遭わなあかんのん?」と。
 しかし、この仏様が円空さんが、彫ったものなら、はなしが違う。
 円空仏は、常に庶民と共にあった。
 子供たちの、遊ぶ人形代わりにもなっていたそうで、よく小さい子供に背負われていたそうだ。(何とも微笑ましいではないか)
 僕は、常日頃から、何年に一回かの、有名寺院の秘仏の『ご開帳』というのが嫌いだ。
 仏さまは、いつも拝めて、(壊さないようにしながら)触っても良い、近くでまじまじと見ても良いと、そう思っているのだ。
 だから、うちのお寺では、なるべく、自由なカタチで仏様を観て頂くようにしている。
 うちの『阿弥陀様』も、それを望んでおられるような気がするのだ。 これでイイのだ。つづく
 

紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その3)

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 ・・・こんな話が伝わっています。
 ある日のこと。
 円空さんは旅の途中、一件の農家に立ち寄りました。
(円空)「すまんが、水を一杯もらえんかのぉ・・。」
 と、円空さんがその家の戸を開けると、そこには床に臥せる女性がおり、その横に夫と子供らしき者が看病をしておりました。
(夫)「おぉっ、旅のお坊さんかね。水はそこにあるで、遠慮のぉ、飲んでけろ。」と、快く円空さんを招き入れてくれました。
(円空)「おや、そこで休んで居られるのは、坊やのお母さんかね?」と、円空さんが尋ねると、
(子供)「うん、そうだよ。母ちゃんは重い病気なんだ。・・でも、うちは貧乏なんで薬を買うお金が無いんだよ。」と、子供が答えました。
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(円空)「そうかい、そうかい。わしは銭は持っとらんので・・、それじゃあ、良いものを作ってやろう。」と言って、円空さんは、背中の背負子から、一本の木切れを取り出しました。
 そして、せっせせっせと、自分の鉈で、一体の仏さまをこしらえたのでした。そして、
(円空)「この仏さまを握り締めれば、お前さんの苦しみは解けてくるぞ。そして、念ずれば仏様が護って下さるからな。」と、母親に手渡したのでした。
(母)「まぁ、なんと優しいお顔をした仏様。・・私はこのような仏さまが欲しかったのです。」と、母親は涙ながらに喜びました。
(子供)「母ちゃん、良かったね。」と、子供も一緒に喜びました。
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 そして、この日の晩。
 母親は、「旅のお坊様、仏様を有難うございました。・・私はこれで、安らかに旅立てます。・・ナムブツ、ナムブツ。」と言って、静かに目を閉じました。
 父が泣きました。
 子が泣きました。
 そして、円空さんも泣きました。
 しかし、その亡くなった母の顔は、たいへん安らかな表情でありました。 つづく

紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その2)

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 母を亡くし、一人ぼっちとなった円空さんは、やがて近くのお寺に預けられることになりました。
 そして、小坊主として修行に励むことになったのです。
 しかし、いつしか円空さんは、別れた母を思い出し、木切れを拾って来て、仏さまを彫り始めたのでした。
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 やがて、大人になった円空さんは、お寺を出て旅に出ます。
 美濃の国を離れ、関東、信越、東北を経て、北海道まで渡ります。
 そして、その土地土地で、仏像を彫り、お寺や神社、又は仏さまを求める人々に、どんどん寄進してゆきます。
 又、宿賃の変わりに仏像を彫って手渡したことも、多々あったそうです。
 ・・おそらく、仏像彫刻は、初めは母の供養の為であったのでしょう。
 しかし、いつしか円空さんの仏像製作は、貧しく、悩み苦しむ人々の為の〔心の安らぎ〕を目的としたものへと、変わっていったのでした。 つづく 

紙芝居:「円空上人と小さな仏さまたち」(その1)

 (・・まじめに、いや、はじめに)
 僕は、『円空(えんくう)』上人が好きだ。
 円空さまは、自由に生きた。
 旅に生きて、一夜の宿を願って、その時にお金が無ければ、木で仏さまを彫って、宿賃の代わりにしたらしい。(そのような仏様が、全国各地のお寺・神社、そして普通の民家に、今もたくさん残っている。
 円空さまは、生涯12万体の仏を彫ったらしい。
 もう一度いう。12万体だ。
 「僕も真似たい!」、もちろん、仏さまを彫るのではなく、紙芝居を作って真似たい。
そして、お招き下さる所へ自由に行き、紙芝居を演じたい。
 円空さまのような、12万作は、とても無理だが、願わくば、煩悩の倍数「216作」は作りたい。一作が平均12枚程度なので、全部で2592枚になる。
 現在、130本。・・お浄土に還るまで、はたして出来るだろうか? そんなことは、解らん。
 が、一作一作、紙芝居を作るたびに、このお話の主人公『円空』さまを意識している。
 つまり、円空さまは、僕の目標であり、夢であり、師匠なのである。
 それでは、紙芝居のはじまり、はじまり。 
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 皆さんは、『円空』という名前のお坊さんをご存知ですか?
 円空さんは、江戸時代中頃のお坊さんです。
 この方は、美濃の国(今の岐阜県)に生まれ、大人になってからは、日本中を旅して廻り、その旅の途中、12万体の仏像を彫られました。
 それでは、なぜ?円空さんが、仏像を彫ろうとされたのか?
 その旅の途中のエピソードを交えて、お話したいと思います。
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 幼い頃から、円空さんはお母さんとずっと二人ぐらしでした。父親の名は伝わっていません。(きっと何か訳があったのでしょう。ダースベーダーと一緒やな・・。いや、今の日本にも同じような・・、それはさておき)
 円空さん、六才の時、生まれ故郷で、長雨の為に大洪水が起りました。
 そして、円空さん親子は、濁流に巻き込まれてしまったのです。
 しかし、母は、溺れる息子の円空さんを、何とか助け出し、自分は水の底に消えていったのでした。 つづく

紙芝居:「妙好人 讃岐の庄松さん」(その7 最終回)

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このような数々の逸話を残した庄松さんでしたが、明治四年の春、七十三歳で病の床についてしまいます。
 病名は胃がんでした。
 さて、これは庄松さんの臨終間際のエピソードです。
 「あぁっ苦しい、あぁ苦しい」とばかり言う庄松さんを見て、一人の友人が見るに見かねて言いました。
(友人)「庄松、お前はこの場におよんで、一度も念仏を称えんのぉ?」と。
 すると、庄松さんはぎょろりと目をむいて、「苦しゅうて、称えられるかっ!」と、答えたそうです。
 又その後、家族の居ない庄松さんを心配して、
(友人)「庄松、心配すんな。お前が死んだら、皆でお墓を建ててやるからな。」と友人が言うと、
(庄松)「おらぁ、死んでも石の下にはおらんぞ!」と、言い切ったそうです。
 確かに、庄松さんは、死んで石の下に居るような人ではありませんでした。
 きっと、阿弥陀様に包まれて、間違いなくお浄土に還ったに違いありません。
 明治四年三月四日、庄松さん往生。法名『釈 正真』。
 おわり
ファイル 1133-2.jpg(小砂(こざれ)の庄松さんの墓)
 今も、庄松さんの自宅跡といわれている〔小砂〕の地に、庄松さんの立派なお墓が建っています。
ファイル 1133-3.jpg(庄松さん自宅跡に建つ説教所)
 では最後に、一曲。・・庄松の~お墓の前で~、泣かないでくださいー。ここに庄松はいません~、眠ってなんか居ません~・・・。合掌

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