・・又また、余談ながら、昨年の2013年3月、バチカンで新しいローマ法王を選ぶための『コンクラーベ(=投票選名)・・なんか、日本の当て字[根競べ]と書いても楽しそう。』が行われ、アルゼンチン出身の[ホルヘ・ベルゴリオ枢機卿]が、第266代新ローマ法王に選ばれた。
そして、『フランシスコ一世』と名乗ることになったのは、まだ皆さんの記憶には新しいと思う。
『フランシスコ一世』、つまり、この紙芝居の主人公『聖フランチェスコ』の名前を継承されたのである。
ではなぜ、今まで『聖フランチェスコ』の名を継承するローマ法王が、誰一人として現れなかったのか?
それは、聖フランチェスコが、カトリック権力構造からいって、[異端]の存在であったからなのだ。
どんなところが、異端なのか?そして、はたして異端とは何なのか?
それは、この紙芝居を最後まで観て頂いて考えて欲しい。
以上、余談おわり。・・本編へ
フランチェスコの奇行⁉が始まった。
(フランチェスコ)「物(物質)は心の重み!財産は捨てよう!人間にとって大切なものは[心]なのだー!」と、フランチェスコは突然、自宅の窓から、家の財産や商品などを投げ捨て始めました。(これって、日本の高僧[一遍]上人の行動にそっくりや!)
その行いに激怒したのが、父親でした。
(父)「むっむっむっ、戦争の後遺症だと思って、怠けている姿を黙って見逃して来てやったが、もう許さん!わしの血と汗で築き上げた富を捨てるとは!!教会の司祭さまに裁いてもらう!」と、父はフランチェスコを引きずって、教会までつれて行ったのでした。
この当時、教会が[(家庭)裁判所]のような役割もしていたのです。
(司祭)「フランチェスコ、お前はどうして、父親を悲しませるのか?なぜ、財産を窓から投げ捨てたのか?」と、教会の司祭は問い質しました。
(フランチェスコ)「はい、司祭さま。私は人として大切なものは、[富]ではなく[心]だという事を、自然に生きる小鳥から学びました。
財産があればあるほど、人は返ってそれを心配し、不幸せになります。
何も持たない事が、幸せの道なのです。
・・でも、父にはそれが解りません。
だから、私はすべてを父に返して、親子の縁を切り『出家』いたします。・・イエスキリストのように・・。(もう一つ付け加えるとお釈迦さまのようにとも言って欲しかったなぁ・・。)」と言いました。
そして、みんなが唖然とする中、真っ裸になって、すべてを父親に返して、町から出て行ったのでした。 つづく
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紙芝居:「アッシジの聖フランチェスコ」(その3)
紙芝居:「アッシジの聖フランチェスコ」(その2)
余談ながら、アメリカ合衆国の都市『サンフランシスコ』は、この紙芝居の主人公[聖フランチェスコ]から『都市名』を取ったものだということはご存じだろうか?
日本でも、偉人の名前が都市の名前になったところはあるが、アメリカとなると、それはたいへん規模が大きいものだと思う。
それだけ、アメリカ人に尊敬されていたのだろう。
さて、本編に戻ろう。
やがて18歳になったフランチェスコは、華やかな鎧に身を固め、隣の国に戦争に出発します。
父は「フランチェスコ、立派に戦って来い!・・そして、手柄を立てて、隣のお城から宝石や財宝を奪って来い!」と言いました。
「はい、わかりました!」とフランチェスコは、意気揚々と出発したのでした。
しかし・・、
凄惨な戦いに敗れ、隣国の捕虜となったフランチェスコ。 やがて熱病に侵され、莫大な身代金を払って帰還したのでした。
そして、自宅のベットに横たわり、生死の境を彷徨ったのでした。
(フランチェスコ)「あぁっ・・、なぜ、同じ人間同士が、殺し合わねばならないのだろう。」と、悩み続けました。
ある日のことです。
フランチェスコは、窓辺の小鳥の声に目を覚ましました。
(フランチェスコ)「小鳥はわずかなエサと水だけで、何の不満も言わず、毎日、楽しげに歌い空を舞う。・・そうだ!人間も小鳥のように生きれば良い。
『欲を捨てて生きる。』・・これが大事なのだ!」と、フランチェスコは、この時をきっかけに、生き方を一遍したのでした。 つづく
紙芝居:「アッシジの聖フランチェスコ」(その1)

今から、イタリアは「アッシジ」という町の[フランチェスコ]という聖人のお話をしたい。
時代は、[中世]である。
・・なぜ、『仏教徒』である僕が、『キリスト教徒』のお話をするのか?
答えは宗教を超えて[好き]な、お坊さんだからである。
いや、ただの好きではなく、めちゃめちゃ好きなのだ。
彼の活動内容こそ、僕の『お寺の出前』の原点なのだ。
だから、映画『ブラザーサン・シスタームーン』や『フランチェスコ』や『剣と十字架』や『神の道化師、フランチェスコ』(全部、聖フランチェスコを描いた映画)を観るだけでは飽き足らず、(ついに)紙芝居化させて頂いた。
前置きはこれぐらいにして、それでは、はじまり、はじまりー。
昔々、これは13世紀・イタリアのアッシジという町で生まれた[フランチェスコ]というお坊さんのお話。
聖フランチェスコは、『自然の中に、愛や平和』を見出し、『本当に、人間らしく生きたい!』と願い、それを実践されたお坊さんです。
フランチェスコは、裕福な[毛織商人]ピエトロの一人息子として生まれました。
お金持ちの子して、何不自由なく育ったフランチェスコは、誰に対しても、礼儀正しかったそうです。(まぁ、ええトコのボンボンやね)
・・が、気前の良い散財家で、享楽的な青春時代を送っていたそうです。 つづく
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その10 最終回)
浅原才一さんは、昭和七年一月十七日83歳にて往生されます。
才市さんは、お念仏に生き、お念仏の詩を作り、下駄職人として、一生を終えられたのです。
才市さんは、貧しい生活の中でも、いつも阿弥陀さまと一緒でした。
下駄を作りながら、いつも阿弥陀さまと心の中で会話をされていたのです。
それでは、最後にもう一つ、才市さんの阿弥陀様との会話を表した詩を紹介して、この長い紙芝居を終わりたいと思います。
『ありがたいな。ご恩思えば、みなご恩。
「これ才市、何がご恩か?」
へぇ、ご恩がありますよ。
この才市も、ご恩でできました。
着物も、ご恩でできました。
食べ物も、ご恩でできました。
足に履く履物も、ご恩でできました。
その他、世界にあるもの、皆ご恩でできました。
ちゃわん、箸まで、ご恩でできました。
ひき場(仕事場)までも、ご恩でできました。
ことごとく、みな、ナムアミダブツでございます。
ご恩うれしや ナムアミダブツ。』
おしまい
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その9)
さて、この紙芝居もいよいよ終わりに近づいて参りました。
それでは、最初に少しお話しました、『才市さんのつののある肖像画』のエピソードをお聞きください。
ある日、才市さんは同じ町に住む画家の先生に、自分の絵を描いてもらおうと頼みに行きました。
そして、できた絵を一目見るなり、才市さんは、「この絵は私に似ていない。私の絵じゃない。」と言いました。
「ムッ」とした画家の先生は、「どこが似ていないのですか?」と問うと、
才市さんは「私はこんな良さそうな人間じゃない。鬼のような恐ろしい心を持って、人を憎んだり、怨んだりしとります。」と答えました。
困った画家の先生は、「ではどうすれば、あなたに似るのですか?」と、さらに問うと、
才市さんは「頭につのを描いて下さい。」と、答えたのでした。
そして、完成した絵が、今も安楽寺さまに飾られている有名な『才一さんの肖像画』なのです。
(余談ながら、僕は実物のこの絵を見たことがある。・・画家の先生は、はたしてつのを描いた後、完成作品をどのような気持ちで眺められたか?これは私の作品じゃないと思われたのではなかろうか?・・はたまた感心されたか?商売やから何でもええわと思われたか?わからん。)
このような詩が残っています。
『心も邪見、身も邪見、つのをはやすが、これが私くし。あさまし、あさまし、あさましいや。ナムアミダブツ、ナムアミダブツ』。
次回、最終回。つづく
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その8)
さて、才市さんは仕事の時以外は、たえずお寺参りをされ、お説教を聞き続けられました。
これは、安楽寺様に残るお説教の時の才市さんのエピソードです。
説教師のお坊さんが、「信心を得るというのは、大変難しいことなのです。
たとえていうと、[富くじ=(宝くじ)]」に当たるようなものなのですよ。」
と、お話されると、一番前に座っていた才市さんが、突然立ち上がり、両手を上げてクルクル回り、「その富くじ!わしが当たった!当たった!」と叫んだそうです。(その後、恥ずかしくなって顔を赤くし、おとなしく座ったそうですが・・(笑い))
その時の気持ちを読んだ詩が残っています。
『富が当たった。六道輪廻のわたくしが、ナムアミダブツの富にとられて。』
もうひとつ、
『わたしゃ、たまらん。講義の下で、説教聞くとき、胸に歓喜が突き上げる。ナムアミダブツが有り難い。』
つづく
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その7)
そして、カンナ屑に詩を書いた日の晩は、それを必ずノート清書しました。
才市さんは、詩を作っている時の気持ちをこのように表わしています。
「こんな才市は、書くことやめりゃあええだ。
いいや、こがあな楽しみはありません。
やめりゃしません、死ぬるまでやめしません。
法を楽しみ書くもんであります。
誠にゆかいな楽しみであります。
名号のなせる楽しみ。
ナムアミダブツであります。」
やがて、この清書されたノートは、百冊を越えるようになり、それをご縁あるお寺の人々によって、世間に発表されました。
そして、いつしか才市さんは、『生きる妙好人 浅原才市』として、有名になっていったのでした。
つづく
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その6)

その後、才市さんは、55歳で故郷の島根県温泉津(ゆのつ)に帰って来て、下駄やさんを始めます。
元々、船大工の才市さんでしたので、下駄を作るのは、た易い事だったのかもしれません。
(余談ながら、僕は才市さんが作った実物の下駄を見た事がある。思ったよりも小さいものであった。)
才市さんは、仕入れきた桐の木にカンナを入れて、一つ一つ丁寧に下駄を作り上げていきました。
カンナを動かすと、フワフワとカンナ屑が舞い上がります。
この作業中、才市はいつしか、心の中で阿弥陀仏さまと信心の会話をするようになっていきました。(これを『口あい』といいます)
そして、その会話が詩へと変わり、思いつくままにカンナ屑にその詩を書き写していったのでした。 
それでは、それらの詩のいくつかをご紹介しましょう。
『ナムは私で、アミダは親で、これが親子のナムアミダブツ』。
『ブツブツと、仏を喜ぶブツブツと、ナムアミダブツが仏のブツブツ』。
『ナムアミダブツが耳にいい、こころに受けるナムアミダブツ』。
『風邪をひくと咳が出る。才市がご法義の風邪をひいた。念仏の咳が出る、出る』。
『あなたの心と、私の心。こころコロコロ、くいあいでナムアミダブツの子が出来た。出来たこの子に助けられ、ご恩うれしやナムアミダブツ、ナムアミダブツ』。
このようなカンナ屑に書かれていった詩は、いつしか九千首(一説では一万首?)を超えるようになっていったのでした。
つづく
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その5)
それは、才市さんの幼い頃、母と離婚し、僧侶となって一人暮らしをしていた父(83歳)が、病いに倒れてしまった時でした。
『父、臥せる!』の知らせを、妻からの手紙で知った才市さんは、急いで九州から帰って来ます。
そして父を自宅に引き取り、子供の時の怨みは忘れて、看病することにしたのでした。
その父の病いが重くなり、父は枕元から才市さんに向かって、小さい声で遺言を言いました。
「わしが遺言、南無阿弥陀仏」と。
そして、静かに亡くなりました。
この父の遺言は、才市さんの信心をさらに深めてゆくのでした。
その時の気持ちを、次のような詩で表わしています。
『相承(そうじょう)の知識、命日。
親の遺言、南無阿弥陀仏の御命日。
ご恩うれしや、南無阿弥陀仏。』
(相承とは、弟子が師匠から法を受け伝えられるという意味)
つづく
紙芝居:「妙好人 念仏詩人 浅原才市さん」(その4)
結局のところ、才市さんの九州への出稼ぎは、25年間続きます。
才市さんの30歳から55歳までです。
もちろん、その間、妻子の待つ島根県の自宅へは、何度も帰って来ていますが、四半世紀にもおよぶ長い出稼ぎでした。
その間、才市さんは、京都の西本願寺で[帰敬式]=(仏弟子となる儀式)を受けたり、妻にも受けさせたりしています。
これは、出稼ぎ先でも、仏さまを敬っていた才市さんの信心の篤さを物語るエピソードです。
そして、この25年間の間に、父の臨終も看取ることになるのです。
つづく






