
順教尼は、身体の不自由なお弟子さんたちに、
「たとえ、両手・両足が無くても、他の人に笑顔や優しい言葉を差し上げることはできる。・・それを忘れてはならない。・・体が悪くても、心の障害者になってはいけません。」と言われました。
又、お掃除も徹底して行われました。
片足の悪い御弟子さんとの間に、次のような会話が残っています。
「先生っ、なんで私は、こんなに転ぶのでしょうか?」
すると、順教尼は、
「片足が悪くても、転ばない方法を教えてあげよう。
それはな、悪い足を隠さないことだよ。」と言われました。
これは、《自分自身のこだわりを捨てよ》という教えでした。
日本のヘレンケラー。
身体障がい者の心の母と、呼ばれた大石順教尼は、昭和43年、80歳で大往生されます。
社会事業家であり、宗教家であり、芸術家であった大石順教尼。
そのお墓は、現在彼女の[腕塚]と共に、和歌山県の高野山、奥の院参道に祀られています。 おしまい
(ご子孫:大石晶教尼さん)
(高野山:大石順教尼の墓)
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記事一覧
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紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その9:最終回)
紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その8)
紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その7)
紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その6)
余談になるが、妻吉(のちの大石順教)が、芝居の一座と共に日本中を旅をしていた時、妻吉を姉のように慕い、終生仲の良かった芸人に、有名な『柳家金語楼(やなぎや・きんごろう)』がいる。
彼は、妻吉が口で文字の練習を始めた頃、自分も一緒に字の練習をしていたそうだ。以上
妻吉の口を使っての文字を書く練習が始まろうとしていました。
が、彼女は幼い頃から舞妓であった為、学校に行っていません。
だから、文字の読み書きが出来なかったのです。
そこで、彼女は自分で、(旅先で)小学校を見つけ、そこの校長先生にお願いし、文字を教えてもらう事からスタートしました。
そしてその後、口に筆を含み、懸命に努力し、文字の読み書きを覚えたそうです。
さらに、その後、絵画の道も究めるようになっていきます。 つづく
(※僕も真似して、口で写経をしてみた。・・ボロボロでした[苦笑])
紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その5)
病院を退院した妻吉(のちの順教尼)は、生活の為に働かなければなりません。
両腕を失い舞妓に戻れなくなった彼女でしたが、大阪の寄席に出て、三味線に合わせて長唄を歌いました。
見物客は、『堀江の六人斬り事件』の生き残りを、一目見ようと、寄席は連日、大賑わいであったそうです。
それから、彼女は旅芸人の一座と共に、日本中を旅することになります。
そして、旅の一座が東北の仙台の旅館に泊まった時の事です。
その宿に[カナリヤ]の鳥かごが吊るされていました。
その鳥かごの中を見ると、小さな雛が居て、親のカナリヤがくちばしでエサを懸命に運んでいました。
妻吉は「あぁ・・、この鳥たちは羽があっても手は無い。なのに、口を使って一生懸命にエサを運び育てている。
そうだ、私にも口がある!・・できないはずがない!」 と、彼女の前に小さなカナリヤを通して、大きな世界が見えた一瞬でした。
この時、妻吉19歳でした。 つづく
紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その4)
余談ながら、なぜ、妻吉(のちの順教尼)は、自分の両腕を奪った義父を許したのであろう?しかも、長い年月を掛けて許したのでは無く、すぐにだ。・・恨んで当然なのに不思議すぎる。
僕は、その事を大石順教さんの御孫さん(大石晶教さん)や、『大石順教尼記念館』の館長さん(萱野正己さん)にお聞きしてみた。
するとお二人とも、同じことを言われた。
『順教尼さんは、義父の悪口を生涯一遍も言いませんでした。・・それだけ、義理の親子といえども、愛情が深かった関係なのだと思います』と。
僕ならとても許せないが・・。未だに解らない、なぞの一つである。以上
義父の万次郎の死刑執行の日が近づいて来ました。
万次郎の「一目会って詫びたい」との手紙を受け取った妻吉は、刑務所に向いました。
万次郎は、妻吉に言いました。
「・・俺は自分の罪に苦しんでいる。なんで、あんなことをしたのか記憶にないんや。
詫びて済む事ではないが、どうしても、おまえに言いたい事があったんや。
わしは死んで地獄に落ちる。・・が、わしの魂は死なん!
お前の身をきっと守る!
呼んでくれたら、必ず助けに行くからな!」と、言ったそうです。
こうして、万次郎は死刑になりました。
妻吉は、万次郎の骨をもらい受け、大阪の四天王寺にお墓を建てて、供養したそうです。
(※これも余談ながら・・、順教尼はこののち、様々な人生のピンチを向えますが、その時、義父の名を呼んで、その試練を無事に、乗り越えることが出来たそうです。地獄の閻魔さんもびっくり!) つづく
(中川万次郎之墓:四天王寺)
紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その3)
病院に担ぎ込まれた彼女は、緊急手術を受けて奇跡的に、命は助かりました。
そして、意識を取り戻した彼女は、病院にまでやってきた裁判所の判事に向って、こう言ったのです。
「わてらを斬った後、お父はんは自首しはったんですね。・・わてはお父はんを恨みまへん。
・・お父はんは、わてを大切に育ててくれました。・・きっと魔が差したんや!」と。
それを聞いていた看護婦長さんは、退院の日に彼女にこう言ったそうです。
「あなたを助けてくれたのは、院長さんのお陰ですが・・、これからあなたが、背負っていかねばならぬ、(両腕の無い苦しみに)耐えていくことが『彼女にはきっと出来る!』と思われた神や仏のお陰もあると私は思うのです。
あなたの苛酷な体験を、(同じような体験をされた)多くの悲しみや苦しみにある人々に、お話してこれから役立ててください。
あなたなら出来ます!
・・あなたは『わてはお父はんを恨みません』と、裁判所の判事さんに言いましたね。
その言葉を聞いて、これは『神様の言葉や』と思ったので、あなたにこんな話をしました。
苦しい事があったら、私のところに、いつでもやって来なさい。」と言ったそうです。
(※余談ですが、この看護婦長さんはクリスチャンであったそうです。大石順教尼さんの御孫さんから僕は聞きました) つづく
紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その2)
紙芝居:「大石順教尼ものがたり」(その1)

皆さんは『大石順教(おおいし・じゅんきょう)』という尼さんを知っていますか?
彼女は、自分が遭遇した『両腕を斬り落とされる』という、苛酷な運命を受け入れ、加害者を恨まず、仏に帰依して生き抜かれました。
口に筆を咥えて、写経や写仏など描き、さらに日本で初めての身体障がい者女子の為の自立精神道場も設立されます。
人々に生きる希望や勇気を与え、『日本のヘレン・ケラー』と呼ばれた、彼女の生涯を紙芝居で見て頂きましょう。
はじまり、はじまりー。
大石順教。本名[大石よね]、芸名[大石妻吉(つまきち)]。
彼女は、明治21年(1888)年、大阪は《道頓堀》という賑やかな町のすし屋で生まれました。
幼い頃から、好きであった踊り[舞い]を学び、13歳でその才能を買われて、大阪堀江の[山梅楼(やまうめろう)]という花街の舞妓になります。
そして、その店の主人であり、のち養父となった[中川万次郎]のもと、厳しい修行に明け暮れる毎日を過ごしておりました。
父、万次郎の稽古は厳しいものでしたが、とても愛情深いものであったと伝わっております。
が、しかし・・・、つづく
紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その7 最終回)

そして、「これ以上、お山を混乱させないようにしなければ・・。」と高野山を下りられるのです。
そして、紀州(和歌山県)の『根来(ねごろ)』という所に、移住されます。
・・が、ここでも、様々な争いは止みませんでした。
「大日如来様のような仏様みたいに、私は成りたい!」と思われた覚鑁上人は、果たして、この状況をどんな目で見られたのでしょうか?
そして根来の地で、覚鑁上人は、風邪をこじらせ、やがて49歳の若さでお亡くなりになります。
おそらく、肉体も精神も、ボロボロの状態になっていたのではないでしょうか⁉・・たとえ、悟りを開かれていたとしても。
(根来寺)
宗教界の風雲児、空海の再来、とまで言われた『興教大師 覚鑁』上人。
そのお墓は、現在も『根来寺』にあります。
おしまい
余話として~
当時、覚鑁上人の熱烈なファンであった《鳥羽天皇》が、覚鑁さまに『高野山に帰れー!お前は高野山に必要なんだぞー!・・かくばーん、カムバッーク!』と叫ぶのですが、
覚鑁さまは『夢の中は、夢もうつつも夢なれば、覚めなば夢も うつつとしれ。』という歌を一首だけ、お返しになり、高野山には戻りませんでした。
この歌の意味は、いろんな説があるのですが、私はこのように味わいました。・・間違っていたらすみません。
『悟りを開いたのちも、現実でやっちゃった事の、果報は受けねばならないのだ。・・私は今、その果報を受けている。これは、しかたがないのだ。』











