
お店を手伝う、晶子と弟の[ちゅう三郎]は、たいへん仲の良い兄弟でした。
二人は暇をみつけては、詩や歌を作り、大阪の小さな雑誌の団体に投稿していました。
晶子には、歌の才能がありました。
そこで、弟の友達の(文学大好き坊さんの)[河野鉄南(こうのてつなん)]の勧めで、『浪華青年文学会』に入ることになりました。
河野鉄南には、お坊さんに成りたての頃、同じ僧侶仲間であった[与謝野鉄幹(よさのてっかん)]という(イケメンの)友達がおりました。
鉄幹は、今はお坊さんを辞めて、『明星』という歌の文芸誌を出しておりました。
その鉄幹が、講演の為、東京から関西に来ることになりました。
・・晶子の運命が変わる時がやってきました。
「この方が与謝野鉄幹先生です!」と、お坊さんの鉄南さんは、晶子に紹介しました。
「はじめまして、晶子さん!僕が(イケメンでモテモテの色男)、鉄幹です!」 つづく
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紙芝居:「与謝野晶子(よさの・あきこ)」(その2)
紙芝居:「与謝野晶子(よさの・あきこ)」(その1)

日本を代表する、情熱の歌人[与謝野晶子]。
彼女は(いわゆる一つの)、明治・大正時代の世間が好む美人ではありませんでした。
男のような太い眉。
がっしりと張った顎。
いかめしい肩幅。
そして、黒曜石のように輝いた大きな瞳。
そんな彼女は、妻子ある男性と、情熱的な恋に落ち(いわゆる不倫やがなぁ)、女性の自由を歌った詩を作り発表し、有名になりました。
又、同時に軍国主義の真っただ中に、反戦歌を発表し、世間を驚かせました。
さて、このお話はそんな波乱にとんだ彼女の一生の物語です。はじまり、はじまりー。
今からおよそ110年ほど前・・、
大阪は堺(さかい)という町に、江戸時代から続く、和菓子の老舗『駿河屋』というお店がありました。
その帳場で、店番をしながら『源氏物語』などの古典を読みふける少女がおりました。
(与謝野晶子生誕の碑:大阪堺市)
彼女の名は、名字が[鳳(ほう)]。
名前は[しよう]。
・・といい、この店の三女に生まれました。
この少女が、のちの与謝野晶子です。
さて、この物語では、[しよう]ではなく、わかりやすく『晶子』という名で通します。つづく
紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その6:最終回)
紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その5)

又、慈雲様が、その著作『十善法語(じゅうぜんほうご)』の中で、人間として生きる基本的な十の戒めを示しておられます。
一つ、不殺生(生き物を大切にする)
二つ、不偸盗(盗まない)
三つ、不邪淫(不倫をしない)
四つ、不妄語(うそをつかない)
五つ、不騎語(無駄話をしない)
六つ、不悪口(悪口を言わない)
七つ、不両舌(二枚舌を使わない)
八つ、不貪欲(むさぼらない)
九つ、不瞋恚(うらまない)
十、不邪見(ひがまない)
以上が『十善法語』の中の「十善戒」、十の良い戒めです。
慈雲様は、『直心是(これ)道場』、「素直な心を保つ生活の場こそが、自分を鍛える道場そのものである」と、判りやすい言葉で、万民に仏法を説かれました。
この十善法語は、信用第一の大阪商人のバイブルとして、「片手にそろばん、片手に十善法語」と、ナニワ商人としての心意気として、引き継いでゆくことになりました。
つづく
紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その4)
慈雲様は、様々な経験を経て、
「すべて、お釈迦さま時代の仏教に戻れば良い!」と、気づき、その教えを説き始めます。
具体的には、お釈迦さまが示された衣(けさ)を正しく身につける事。
お釈迦さまのお言葉であったサンスクリット語で、お経を読むこと。
お釈迦さまの定められた、僧侶の生活規律を守る事。これらの戒律復興を目指したのです。
そして、それを文字に書くという方法で、わかりやすく万民に示されました。
ところで、慈雲様はお釈迦さま時代の仏教に戻れば良いと言いながら、ご自分は何故?ヒゲや髪の毛を伸ばしていたのでしょうか?
一説によると、彼の髪の毛やヒゲは硬く、カミソリを使うと傷だらけになってしまうから、伸ばすようになったと言われています。(どんな髪の毛やねん?)
つづく
紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その3)
紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その2)

法楽寺で出家した時の、慈雲さまの気の強かったエピソードが残っています。
彼は師匠に向かって、こう言ったそうです。
「自分は仏教が嫌いだ!・・出家したのは母に頼まれたからだ。私は仏教をとことん学んで、こんな教えはたかが知れてると、仏教批判をしてやるつもりです。」と。 
(大阪:法楽寺さま)
後年、慈雲様はこの発言について次のように語っておられます。
「・・あの時、私は儒教にかぶれていた。
死後の世界も否定的だったし、派手な衣を着た僧侶も大嫌いだったのです」と。
一本気な慈雲様は、何でも徹底的にするタイプで・・、おかしな話ですが、仏教を否定するために猛烈に修行に励んだのです。
難しい経典を読み、古代インドのサンスクリット語も学びました。
そして修法も学び、これらの修行を通じて、「自分の考えは間違っていた。仏教は信ずるに値する教えだ!」と、気づくのでした。 つづく
紙芝居:「慈雲尊者(じうんそんじゃ)」(その1)

江戸時代、お釈迦さまの再来と呼ばれ、宗派の枠を超えて、仏教の根源を見つめ、日本の宗教界全体に、多大な影響を与えた人物。
彼の名前は[慈雲(じうん)]といいました。
これは、慈雲尊者の生涯の物語です。
(慈雲尊者誕生の碑:大阪中之島)
慈雲さまは、江戸中期、大阪は中之島の高松藩・蔵屋敷に生まれました。
彼の幼き頃の名前は[満次郎]、のち[平次郎]。
平次郎は、小さい頃から正義感が強く、勇猛な性格であったようです。
平次郎13才の時、父が亡くなります。
兄弟の多かった彼は、母の勧めもあって、「法楽寺」という真言宗のお寺で、出家を決意します。
彼の師匠は、徳の高い[忍綱(にんこう)]という名の高僧でした。
平次郎は彼の元、出家し、[慈雲]となりました。つづく
紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その5 最終回)

やがて、戦争が終わりました。
ようやく、徹誠さんも刑務所から、出る事が出来ました。
がしかし、彼はお寺には帰りませんでした。
いや、お寺も帰れるような状態では無かったのです。
そこで、家族みんなで東京に向かい、そこで、小さな工場を始めたのでした。
又、息子の等さんも、(僧籍を持ちながら)芸能界に入りました。
徹誠さんは、僧侶は辞めましたが、心はやはり、浄土真宗の親鸞聖人と共にあったようです。
最初に述べたエピソードにかえります。
芸能界入りした、息子の植木等さんに、コミックソング「スーダラ節」を歌うようにと、社長から指示が来ます。
本来、真面目な等さんは、不真面目な歌詞のこの歌を、唄うかどうか迷います。
そして、父の徹誠さんに相談するのです。
すると、歌詞を見た徹誠さんはこう言いました。
「うん、この歌は真理をついている。
[わかっちゃいるけどやめられない]というところは、すべての人間が持つ弱さだ。
その弱さを、そのまま理解して救ってくださるのが、阿弥陀さまという仏様なのだ。まぁ、あちこち、おかしな箇所があるが...、
これは親鸞聖人の生き方そのものだ。
等、是非、歌いなさい!」と。
この一言で、歌う決心をしたそうです。
そして、「スーダラ節」は、大ヒットしました。
その後の徹誠さんの晩年は、お孫さん達に囲まれて、穏やかに過ごされました。
そして昭和53年、82才で病に倒られます。
病床の中、こう言われたそうです。
「俺はあの世で、親鸞聖人に合わせる顔が無い。ああ、恥ずかしい。」と。
そして最後の言葉は、「ありがとう。おかげで楽しい人生を送らせてもらった。」で、あったそうです。
おしまい
紙芝居:「戦争は集団殺人だ!」(その4)

徹誠(てつじょう)さんは、侵略国家へと進んでいく日本国家に対しても、「異議あり!」と唱えました。
彼は戦時中、戦地に向かう出征兵士や檀家さんに対して(その場に警察官がいても)、堂々とこう言いました。
「いいか、君たち。戦争というものは、集団殺人行為なのだ!
君たちは、それに加担させられる事になった訳だから、なるべく、戦地ではタマの飛んで来ないところに居てなさい。
そして、なるべく相手もころすな!
それから、絶対に死んじゃあ駄目だぞ!生きて帰って来い!」と発言したそうです。
国は、そのような事を言う徹誠さんを見逃すはずがありません。
[治安維持法]違反という、法律をかざして、彼を逮捕しました。
そして、何度も拷問に掛けられたそうです。
が、釈放されたら、又すぐに「いいか、君達、戦争というものは集団殺人だ!」と人前で話すものですから、その都度、彼は逮捕されたそうです。
彼はブレませんでした。又、彼の精神力は、強靭でした。
仏説無量寿経というお経の中に[兵ガ無用(ひょうがむよう)]という言葉があります。
これは、「仏の国に、兵士や武器など必要ありません。」という意味です。
徹誠師は、この言葉を実践しようとしたのです。つづく




