
(三重)
五つ目の和讃は、『清浄光明ならびなし〜(省略)』のところじゃ。
これは『阿弥陀様の清らかな光に並ぶものは無い。この光に出会えば、迷いや悪い行いも全てその力は失われる。究極の拠り所であるこの仏様に手を合わせましょう。』と、おっしゃっておられる。なんと、ありがたい仏様じゃろうのう。
さぁ、六つ目、六首引き最後の和讃じゃ。
『仏光照曜最第一〜(省略)』のところじゃ。
この意味はな、『阿弥陀様の光の輝きは、最も優れているので、[光炎王仏]と言われている。
その光は、地獄、餓鬼、畜生といった迷いの闇世界を打ち破る力を持っておられる。
正にあらゆる供養を受けるに相応しい仏様だ。をこの仏様に手を合わせましょう。』と言っておられるのだ。
‥これで正信偈六首引きの説明は終わりじゃ。
(回向)
‥そうそう、最後は『回向句』であったのう。
この『願以此功徳〜(省略)』は、
『願わくば、此の仏の功徳をば、平等に一切衆生に分かちて、共々に求道心を発して、仏の国に往生しょう。』と締めくくるのじゃ。
さぁ、どうであったかな。
『正信偈六首引き』には、阿弥陀様の光の働きが多く出てきたのう。
おそらく、この詩を作られた親鸞聖人は、阿弥陀様を心から慕い、手を合わせおられたのじゃろうのう。
さて、この『六首引き』和讃は、これで終わるのではなく、実は全ての[和讃]を毎日、繰り読みして、西本願寺や各別院などでお勤めされておられるのじゃよ。
皆さまも、一度ご聴聞されてはいかがかな。
それでは、この辺で‥合掌 南無阿弥陀仏。おしまい
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紙芝居『続・「正信偈」六首引の巻』(ダイジェスト後編)
紙芝居『続・「正信偈」六首引の巻』(ダイジェスト前編)

「皆さま、こんにちは。私は浄土真宗第八世の蓮如(れんにょ)と申します。
私は、皆さまよくご存知の聖典『正信偈(しょうしんげ)』に、「お念仏」と「親鸞聖人の仏様を褒めたたえた詩」を加えて用いるように致しました。
これを『六首引き』と申します。
それでは、正信偈の六首(つまり、六つの詩)をダイジェストにして、今からお話し致しましょう。はじまり、はじまり〜
親鸞さまが、76才の時に書かれた全118首の『浄土和讃』という聖典。‥和讃とは、詩(うた)という意味じゃ。
この六つの詩が、お念仏を称えた後に、はじまるのじゃ。
第一番目、(初重[しょじゅう])から、いこうか。
『弥陀成仏のこのかたは〜‥(省略)』。これは『阿弥陀さまが仏様に成られてから、十劫(じゅうごう)という、とてつのない長い年月が経ちました。‥が、清らかな仏さまの放たれる光は、今でも迷いの中にいる私たちを、間違えなく照らしてくださっているのです。』という意味じゃ。‥ありがたいのう。
二つ目は、『智慧の光明はかりなし〜(省略)』。この詩はな‥、
『阿弥陀様の智慧の光には限りがない。つまり、その光に照らされないものは無い。だから、皆も真実の智慧の光に手を合わせましょう。』という意味じゃ。
阿弥陀様の光とは、もの凄っごいものじゃのう。
(ニ重)
三つ目は『解脱の光輪きわもなし〜(省略)』。
これは『煩悩を断ち切った光りを持つ阿弥陀様。その光を受けたものは、皆間違った判断から離れる事ができる。全てのとらわれを離れさせるこの仏様に手を合わせましょう。』という意味なのじゃ。
この光を我々は受けて、お念仏させていただいておるのじゃ。
四つ目は、『光雲無碍如虚空‥(省略)』。
この詩はな、『輝く雲のように、広がる阿弥陀様の光はまるで大空のようだ。そこには煩悩に妨げられる事は何も無い。そして、すべてその光の働きを受けられる。‥そう、その計り知れない仏様に手を合わせましょう。』とうたっておられるのじゃ。 後編へ、つづくじゃ。
紙芝居『富山・魚津の母たちと米騒動』(その3 最終回)

この騒動の結果、『米騒動武力鎮圧』や『新聞報道の規制、実施』の責任を取り、[寺内正毅総理内閣]は総辞職。(ビリケン似首相‥だったらしい)
そしてこの後、原敬(平民総理)が誕生という、歴史的な事態をうむ事になります。
‥そう、母親たちの「お米生活難」の苦しみから始まった『米騒動』は、結果的に日本の政治情勢も変える事になったのです。
これは余談になりますが、この新聞が書いた『越中女一揆騒動』は、やがて日本中の新たな[女性運動]に力(パワー)を与える事になります。
作家[平塚らいちょう]は、『元史、女性は太陽であった!』と宣言し、[新婦人協会]を設立して、女性政治活動や女性高等教育の拡充運動を広げてゆきます。正に女性パワーの文明開花のはじまりでした。
さて、昭和63年魚津市の市民グループ有志は、魚津にこの『米騒動』の歴史を後世に残そうと、『米騒動発祥の地』の標柱を立てます。
さらに平成10年、当時の騒動の生き証人ともいえるこのお話の舞台の[(お米)倉庫]は建て直され、『民主主義の市民社会の基礎を築いた場所』として、後世に残されています。
以上が‥、約100年前の『米騒動』のお話でした。
が、形は違えども、現代も「令和の米騒動」とやらが起こっています。(現在進行形ですね‥結末はどうなるのでしょうか?)
さて我々は今一度、この問題を通して、『米騒動』の背景に広がる社会の不平等や矛盾点を考えてみるべきではないでしょうか?
‥昔むかしの戦国時代、(百姓が武士を倒した)北陸地方は浄土真宗を基盤とする民衆(平等)の国『百姓が持ちたる国』と呼ばれた一時期がありました。
ひょっとすると、この『米騒動』は、北陸・魚津の母たちが知らず知らずのうちに、良き社会変革を求める我々の代表になってくれたのかも‥⁈ それも、知らんけど‥。おしまい
紙芝居『富山・魚津の母たちと米騒動』(その2)

大正7年7月23日の朝‥。
漁師町、魚津の母たちは60人程集まり、「お米を旅に出さんといてくれ!」と、港で積まれて行く米俵に必死に取りすがり、積み出しを阻止しました。
がしかし、そこに警察官が来て、母達の抗議は失敗。‥母達は解散させられました。
が、この騒ぎは地元の新聞社が富山県全体に記事にして載せた為、‥のち、これが大騒動になってゆきます。
さて、一旦解散させられた母達でしたが、
「やはり、このままでいかんちゃ!わしらの子どもが飢え死にしてしまう!」と一人が言うと、別の母が‥、
「そうじゃ!わしらは何もタダで米をくれとは言うとらん。元の値段で売ってくれと言うとるんじゃ!よしっ!今度は役場か、米倉庫、米問屋に行って頼んでみようっちゃ!」
と、米の価格の引き下げを要求しに行きました。
「米を安う売ってくれー!頼みますっちゃ!」と、母たちは声を上げました。
‥ところが、この騒動はやがて富山全土に広がってゆきます。おそらく地元新聞紙の影響が大きかったのでしょう。
‥最初の騒ぎから一ヶ月もすると、約一千人の大騒動になっていきました。
(おそらくこの騒ぎの大きさに一番驚いたのは、母親達ではなかったでしょうか。‥知らんけど)
そして富山内で、やがて米問屋への投石などが起こり、店が壊れ、その結果約30人が警察に逮捕されたりします。
町の議会はこの状況を重く受け、お米で困った人達に限り、米の価格の引き下げを決定。
この騒動は次第に治ってゆきました。(良かった良かった!)
‥がしかしです。
その後、全国の新聞紙が『‥女房連の一揆!米高にたまり兼ね、『餓死する!』と口々に騒ぎたて、300名米屋へ押しかく!』と報道。‥この報道が徐々に全国各地の民衆へ飛び火し、各地で一揆打ち壊しのような大暴動騒ぎになってしまいました。
その結果、政府は軍隊を出動させ暴動を鎮圧。
検挙された人は、全国で二万五千人を越したと記録されています。 つづく
(舞台地・魚津。今は平和な『魚津埋没林博物館』)
紙芝居『富山・魚津の母たちと米騒動』(その1)

今から、およそ100年程前の大正時代‥。
ここは越中富山の漁師町(今の魚津市)です。
ここで『越中女一揆、起こる』と、新聞に書かれた主婦たちの『米騒動』が起こりました。(いわゆる近代の『米騒動』発祥はここで起こったのです)
この小さな町の騒ぎが、やがて日本全土に広がり、最後は軍隊が鎮圧せねば収まらなくなります。‥結果的に日本政府の総理大臣が責任を取り、内閣総辞職する事になるのですが、それはこの紙芝居の後半で‥。
では、なぜ?その様な騒動が起こったのかを全三回の紙芝居で観ましょう。はじまり、はじまりー。
「母ちゃん〜、腹へったよー。もっと何か食うもんないかの?」
「すまないね〜、あんた達。うちの米びつにはもうお米は無いんだよ。‥父ちゃんは出稼ぎに出て居らんし、母ちゃんが「米俵運び」で日当を稼いでも、この頃、米の値段が異常に上がってしもうて、買えんようになってしもたんよ。すまんちゃねー」と泣いて嘆いています。
しかし嘆いていたのは、この漁師の家だけでありませんでした。
町全体が同じように泣いていたのです。
そのお米の値上げの訳は‥、
この頃、日本の国は第一次世界大戦に参戦する事が決定しました。
それで、外国に行く兵隊さんの為に、食料としてのお米をたくさん必要とし始めたのです。
‥日本政府は急いで日本中のお米を集め出しました。
当然、それを見越した大商人たちは「今、お米を買い占めれば儲かるぞ!」と思い、高い値段での買い占めが始まったのです。
その結果、日本中のお米が足りなくなり、お米は高価な品物となった訳なのです。
それで、ここ富山・魚津の港でも、たくさん米俵が倉庫から運び出されておりました。
‥お米を戦地へ運ぶ為です。
それを担いで、倉庫から船まで運び出すのが、子を持つ母親たちの仕事(今のアルバイト)でした。
「‥重いっちゃ、この米俵。でも、もうちょっとじゃ!」と毎日、背中に米俵を背負い船まで運びます。
‥がしかし、その日当賃金はわずかです。
目の前のお米を見ながらも、その日当賃金で満足にお米を買う事も出来ません。
「もう、我慢ならんちゃ!わしらのお米を旅に出すな!と頼むまいけ!」と、一人の女性が叫びました。「そうじゃ!そうじゃ!皆で頼みに行こ!』 つづく
紙芝居『パワースポットを探せ!』(後編)

親友は「深夜に何事か?!」と思い、驚き外に出て来て、その訳を聞いた。
男はようやく安心して、「‥あぁ良かった。俺のタバコ好きはよく知ってるだろう。‥今晩、どうしても俺はタバコを吸いたくなったんだ。‥がしかし、今晩に限ってマッチが無かったんだよ。友よ、マッチをどうか貸してくれ!」と言った。
それを聞いて、
親友は言った。
「あっはっはっはっ、何と馬鹿な話だ。君のタバコ好きはよく知ってるよ。
でも君はただ、タバコの火が欲しいだけだろ。
‥君、今君が持ってるランプの火で、タバコはつけれるじゃないかい?何もこんな遠くまで来なくても‥。」と言った。
男はバツの悪そうな顔をして、「あぁ、そうか。大事な炎は近くにあった‥。」と、頭を掻いて、ランプの火でタバコの火をつけて、ようやく一服吸えたという。‥たとえ話はこれで終わりじゃ。」
師匠は言いました。「弟子よ、よく聞きなさい。お前は懸命にパワースポットを探しておる。お前の身も心も癒やされたい、パワーが欲しい!という気持ちはよく分かる。
‥がしかし、このたとえ話のように、このランプの炎のような大事な物は、案外、近くにあるんじゃよ。
お前パワースポットを探すより、まず自分のお寺のご本尊仏様を綺麗にして、心を込めてお勤めしたらどうかな?
‥すると、そこが一番のパワースポットだったと気が付くかもしれない。‥そうは思わないかい?」と、師匠は弟子に言いました。
弟子はそれを聞いて深く頷きました。
その後、この弟子はパワースポットを探すのをやめて、自分の身近な聖地(つまりご本尊である仏壇を)一番大切にしたそうです。 おしまい
紙芝居『パワースポットを探せ!』(前編)

今より少し前のお話。
インドの国に、パワースポット、いわゆる[力の湧く聖地]を探して、夢見る若いお坊さんがいました。
ある時、このお坊さんは友達からとても清らかなパワースポットがある事を聞いたのです。
それで、居ても立っても居られず、師匠の下に飛んで行きました。
「師匠、とても美しく清らかな聖地『パワースポット』があると聞きました!師匠、是非ご一緒に参らせていただこうではありませんか⁈」と、若いお坊さんは言いました。
師匠は困った顔をして、「お前は又、パワースポットの話を聞いて来たのか?‥それで、今日のうちの寺の仏様へのお参りはちゃんとしたのか?」
「あっ、すみません。パワースポットの場所を地図で探していて、つい忘れてしまいました。」
「困ったやつじゃ、‥おまえに一つ、たとえ話をするから、そこに座ってよく聞きなさい。」と話し始めました。
『昔、ある所にな、大変タバコ好きの男がいたんじゃ。ある晩、男はいっぷくタバコを、吸おうかと思ってタバコを出したが、あいにくマッチが無かった。
そこで、隣の友達の家に行ってマッチを借りようとしたが、夜遅く友達は眠っていて、家の扉は堅く閉まっていた。
そこで仕方なく、男はその近くの家を回る事にした。
男は火打ち石でランプに火を入れ、それを片手に持ち、「おーい、マッチを誰か貸してくれー!俺はタバコが吸いたのだよー!」と、あちこちの家を訪ねて回った。
‥が、深夜でもあって、誰も出て来なかった。
仕方なく、男は隣町の無二の親友の家まで急いで行った。
やがて親友の家に着き、「友よ!悪いがマッチを貸してくれ!」と扉を叩いた。 つづく
紙芝居『葛飾北斎と脳卒中の話』(その4 最終回)

その薬と筆を動かすリハビリが、いつしか北斎を元に戻して行きました。
その後、メキメキと回復し、北斎は復活しました。
まぁ、甘いものも少し控えるようにもなりました‥。
そして、倒れた翌年には新しい作品を描き始め、出版もできるまでになりました。
その後、北斎は一人旅が出来るまで歩行能力も回復します。
日本のあちこちを歩いて、有名な『富嶽(ふがく)三十六景』などを描き、大傑作を残します。
又、新しい千円札のおさつで有名なった「神奈川沖浪裏」、いわゆるビッグウェーブの絵も北斎が脳卒中を起こした後の作品である事を、あまり現代人は知りません。恐るべし!北斎!努力人北斎!
北斎は当時として長生きでした。
彼の辞世の句とは別に、有名な最後の言葉が残っています。
『天が後、五年俺を生かせてくれれば、必ず誠の絵師になってみせたのになぁ。』であったそうです。
死に際まで、絵の上達を願った天才絵師のは生涯でした。
最後に、脳卒中に気づく現代のチェック方法を少し書きます。
FAST(ファスト)と言います。
Fは、顔の麻痺。
Aは、腕の麻痺。
Sは、スピーチ。言葉の障害。
Tは、タイム。発症時間です。
これらに気づいたら、すぐ救急車を呼びましょう。僕もこれに救われました。
(山梨県から見た富士山)
余談ですが、北斎ファンの僕は富嶽三十六景の富士山をどうしても見たくて、紙芝居完成直前に取材に行って来ました。やっぱり、富士山はどこから見ても良いですねぇ。
おしまい
紙芝居『葛飾北斎と脳卒中の話』(その3)

その後、意識を取り戻した北斎は、娘につぶやきました。
「おっお栄、腕が上がらねぇ‥。筆も上手く持てねぇ‥。力が入らないんだ。あぁ、俺はこのまま絵が描けなくなるのか!?ちくしょう!死んでも死にきれねえぜ!」
と苦しみ悩みました。
それは脳卒中の後遺症なのでした。
そんなある日、『葛飾北斎、脳卒中!』の噂を聞いた古い友人が訪ねて来ました。(一説では、それは滝沢馬琴ではなかろうか?と言われています。知らんけど)
「おい、北斎。中風に効くという薬の作り方を聞いたので、紙に書いて持って来てやったぜ。これを調合して飲んでみろ。‥いいかよく聞け。
①まず、果物のゆずを用意しろ。それを細かく木のヘラで刻む。
②次に、それと酒一合を混ぜてよく煮詰める。その時大事なことは、鉄鍋で煮てはダメってことだ。必ず土鍋で煮る事。鉄分が入っちゃダメなんだ。
③それと煮たゆずと白湯を混ぜて飲む。
それを毎日飲む事。効くらしいぞ。やってみろ。」と友人は言いました。
「それは本当か、効かなかったらただじゃおかねえぞ。」
と北斎は言って、その薬を毎日飲み始めました。
毎日毎日、北斎はその薬(?)を使って飲みました。
現代の医療では、それはヘスペリジンという柑橘系に多く含まれる栄養素で、それは高血圧を下げたり、末梢血管を強化する効果があると言われています。
まさに、北斎の病気には良く効いたのでした。(これも、知らんけど)
※余談ですが、脳卒中(脳出血)で、北斎と同じ症状になった私も、この実験をやってみました。‥効いたのかなぁ‥。馬琴に感謝!それこそ知らんけど。 つづく
紙芝居『葛飾北斎と脳卒中の話』(その2)

「頭が痛えっ‥。どうも最近、よく頭が痛くなるんだ‥。」
「親父どの、働き過ぎなんだよ。私が代わりに描いとくからさぁ‥。休んどきなって‥。』
と、跡取り娘のお栄が言った次の瞬間、
「あぁっ‥、めまいがするぜ、お栄‥」
と言って、そのまま北斎は倒れたのでした。
「親父どの!しっかりおしよ。今、医者を呼んでくるからな!」
北斎の病気は中風(ちゅうふう)、今でいう脳卒中でした。
医者は娘のお栄に言いました。
「これは中風です。命に別状は今の所ありませんが、意識は戻っても、手足が動きにくくなるかもしれません。‥今は安静にして下さい。」
「親父どのっ!大変な事になっちまったな。もう絵は描けなくなるかもしれないよ。』
つづく
