住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『三人の尼僧さま』(その4 最終回)

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この蘇我と物部の戦いが終わった後、善信尼たちは言いました。
「この機会に、私たち三人を是非、百済の国に行かせてください。彼の国で、私たちは正式に仏教を学びたいのです。」と。
こうして西暦588年、15才になった善信尼と二人の尼僧は、帰国する事になった百済人の船に乗せてもらい、朝鮮半島に旅立ちました。
今の留学生です。
そして百済の国で、1年半かけて修行して、仏教の戒律を学びました。
そして正式な尼僧になって、無事日本に帰って来たのです。
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その後、善信尼達は帰国後、以前、焼かれてしまったお寺を再び再建築しました。
このお寺は[桜井寺]と呼ばれました。
現在の『豊浦寺跡』(今の寺名は『向原寺』)です。
そこで、善信尼達は仏教の指導者として、11人の尼僧を育て上げ、さらに我が国最初の男性僧侶「徳斎法師」を誕生させました。彼は善信尼の兄弟です。
こうして、仏教興隆の原点となる施設は全てこの地に揃いました。
三人の少女の勇気から始まった日本仏教は、ここに大きく実を結んだのです。
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そして現在、大阪府南河内郡太子町の西方院というお寺の裏の墓地に、一際大きく三人の尼僧さまのお墓が祀られています。
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(奈良県・豊浦寺跡(現・向原寺)
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(大阪府太子町[善信尼]の墓)
おしまい

紙芝居:『三人の尼僧さま』(その3)

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‥それからまもなくして、蘇我氏の主人[蘇我馬子]が病気になりました。
「やはり、仏教という外国の教えなど取り入れるから、このような事が起こるのじゃ!」と仏教反対派の物部氏は『それ見たことか!』と天皇の許可を得て、お寺に火を掛けました。
そして、三人の尼さん達を捕らえて引き立てたのです。
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そして、尼さん達は法衣を剥ぎ取られ、海柘榴市(つばいち)という人の多く集まる場所で、ムチ打たれ辱しめを受けたのでした。
それを知った病床の蘇我馬子は、天皇に泣きつき、何とか無事に尼さん達を助け出すことが出来ました。
物部氏を恨み、復讐を誓う蘇我馬子。
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そしてついに、蘇我氏VS物部氏の戦争は起こりました。
結果、仏教反対派の物部氏は負けて滅びました。
こうして、兎にも角にも、仏教賛成派の時代は来たのです。つづく
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(奈良県桜井市[海柘榴市(つぼいち)])
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(この辺りで、尼僧達は罰を受けたらしい)

紙芝居:『三人の尼僧さま』(その2)

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‥それから何年かが経ちました。
「やはり仏教は、我が国に必要だ!」と、仏教賛成派の蘇我(そが)氏は、
「今度は、我が国に仏像を祀る専門家[日本僧侶]を育ててみようではないか!‥そうだ、その僧侶には女性が良い。古くからこの国を支えたのは女性、巫女(みこ)たちだ!仏教も女性の僧侶にすれば、きっとうまくゆくはずだ!」と思いました。
こうして、仏教賛成派の豪族の娘たちが選ばれる事になったのです。
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その選ばれた僧侶の代表は『嶋(しま』と言い、まだ11歳の少女でした。
 少女『嶋』の父は、ある日、彼女に言いました。
「嶋や、お前に頼みがある。尼さんになって仏様におつかえしてくれんか。今、国中に広がっている疫病を抑え、この国が栄えるようにお祈りしてもらいたいのじゃ。」と言ったのです。
嶋は「はい、わかりました、お父様。私は仏様にお仕えさせていただきとうございます。」
「おお、そうか!ありがたい。これからお前は[善信尼(ぜんしんに)]という名に改めよう。そして、一人だけでは心許ない。後二人、共に出家してもらおう。」と決まりました。
こうして、ここに三人の若い尼さん達が誕生したのです。
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そして蘇我氏の敷地内にお寺を作り、仏像を祀り、そこで尼さん達は暮らし始めました。
これが、日本仏教のはじまりと言われています。
が、しかし‥。つづく
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(三人の尼僧さんの墓)by大阪府太子町

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