住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『1665年ロンドン伝染病の記録』(その8)

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 が、このような状況下、悪いことばかりでもなかった。
 それは、このロンドンのベスト禍の噂を聞いたイギリスの地方の町から、たくさんの義援金や必需品が送られてきたからだ。
 これによって、ロンドンでは一人も餓死者が出なかったのである。
 又、余談になるが、有名な科学者アイザック・ニュートンもこの時のペスト禍の渦中にあり、ロンドンから田舎に避難・疎開していた。
 そこで引きこもりながら、リンゴの落ちるのを見て?万有引力の法則を発見している。
 後日、ニュートン自身がこの時の(自粛)疎開が無かったら、万有引力を発見できてなかったと述べている。
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 このペスト大流行の悪夢の年(1665)の冬近く、なぜか、その流行が収まって来た。その死者の数も減ってきたのだ。
 その理由は今もわからない。
 それは、神様の思し召しなのか?、あまりに人が亡くなったので人口が減り、密しなくなったせいか⁈、自然治癒力が増加して来たからか⁈
 ただ、ペスト禍が去ったという噂は、直ぐ各地方に広がった。
 その噂を聞き、避難していた貴族たちが、我先に帰って来た。が、これが良くなかった。
 警戒心の無い生活にすぐ戻ってしまい、二次感染、三次感染ブームが起こってしまったのである。
 ・・が、それもあまり大きくならず、徐々に感染は少なくなっていった。 つづく

紙芝居:『1665年ロンドン伝染病の記録』(その7)

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このような不安な世情であったので、その不安をもっとあおろうとする占い師や、おかしな魔術師、・・又、インチキ薬を売って、もうけようとする偽医者も現れた。
 そしてここにも、怪しげな裸の男が・・、
「わしは神じゃー!あの星を見よ!あれはこの世が滅亡する予兆なのじゃー。
 しかし、ワシの弟子になれば必ず救われるぞ!
 さぁ、全財産をワシの教団に寄進せよー。そしてワシの弟子になるのじゃー!」と叫んでいた。
 このような怪しげな宗教に入信し、救いを求める者も決して少なくなかったのだ。
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 又、市議会の行政は、すべての犬・猫などの小動物の駆除の法令を発令した。
 それは『これら小動物は、毛の中に悪い菌をくっつけて感染を広げているかもしれない』という医者からの勧告に従う理由からであった。
 こうして、駆除された犬が四万匹、猫は二十万匹、又ネズミなども大量に駆除されたのだ。 つづく

紙芝居:『1665年ロンドン伝染病の記録』(その6)

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 この大穴の中に遺体を埋葬する。
「こんな大きな穴を掘る必要はあるのか?」と私は思った。
 が、あっという間に穴は遺体でいっぱいになってしまった。
 ある日、私は埋葬人に聞いてみた。
「あんた達は感染しないのかね?」と。
すると彼は、「ワシらの仲間でも感染して亡くなった者が、多くいますよ。が、ワシは毎日ニンニクを食べ、お酢を頭にかけて絶えず湿らしているので、大丈夫なんですよ。」と。
 不思議な事だが、こういう事でペストに感染しない者もいたんだ。
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 ロンドン市議会は、このような非常事態に感染拡大を防ぐ為、人が集まる酒場や芝居小屋の営業を禁止した。(いつの世も同じ)
がしかし、(いつの世も、こりゃ又同じ)行政に逆らうものが居た。
 この酒場でも、毎晩こっそり営業をしていた。
「こんな楽しい事、やめられまへんで!アルコール消毒や!」
「ペ、ペ、ペストなんか、怖くない怖くない。」
「人間一度は死ぬんや。あの世に行ったら、神さまに文句を言うたんねん!」と、関西系のイギリス常連客達は毎晩、酒を飲み騒いでいた。
 がある日、その中一人が感染し、あっという間に皆、亡くなったという事である。つづく
 

紙芝居:『1665年ロンドン伝染病の記録』(その5)

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「死体は無いかーい、チリンチリン。
 死体は無いかーい、チリンチリン。」
と、真夜中になると連日、死体運搬人が鐘を鳴らして、リヤカーで街を回る。
「おーい、止まってくれー。
 この家の住民も今日、みんな亡くなったんだ。遺体を窓から下ろすので手伝ってくれ!」と、一人の監視人が叫んだ。
 そして、二階から毛布に包まれた遺体が何人も下ろされてきた。
 このような光景は日常茶飯事であったんだ。 
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 そして、リアカーは遺体を乗せて、街外れの墓場近くの大穴の場所まで来た。
 この穴に遺体を(葬式もせずに)埋葬するのだ。つづく

紙芝居:『1665年ロンドン伝染病の記録』(その4)

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 一般市民は、貴族のように街を脱出できなかった。
 そんなゆとりはなく、家族の為にペスト感染の恐怖と戦いなから、働かなければならなかったからだ。
 それで、益々人から人への感染が広がり、多くの人が亡くなった。
 仕方がなかったのだ。
 それを見た行政は緊急会議を開き、新たな感染防止の為の法令を発令した。
 それは
「ペストに感染した者、並びのその家族、女中は、家からの外出を一切禁止する!」というものであった。
 又、その為に、行政は監視人も24時間付けて、その家を見張りつづけるという念入りの入れようであった。
 残酷な方法だが、市民を守る為には、これは仕方のない事だったのだ。(自宅封鎖やねぇ。ロックダウンやなぁ)
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 ペスト感染者とその家族の、強制自宅隔離が始まった。
「誰かーっ、助けてー!ここから出してー」と、窓から感染者家族の声が聞こえる。
 しかし誰もどうしようもできなかった。
 感染者家族の食事は、監視人が用意してはこんでくれる。
 が、この外出禁止令は、家族にとって絶望でしかなく、自殺するものも多く出た。
 そして、この監視人であるが、辛い仕事なので希望者が少ないと思いきや、ペストのせいで不景気となり失業者が多くでて、監視人希望者にはそう困らなかったそうである。つづく

紙芝居:「1665年ロンドン伝染病の記録」(その3)

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ペストの大流行によって、路上でバタバタと人が倒れ、亡くなり出した。
 それを見た大金持ちの貴族達は、ロンドンからの脱出を試みた。
 家族や女中を連れて、財産を馬車に乗せて、郊外の別荘などに逃げ出したのである。
 又、別の金持ちなどは、食料などの必要な物を大量に買い込んで、屋敷の中に閉じこもり、家から一歩も出なかった。(17世紀スティホーム)
 又、水の上は大丈夫だと、船をチャーターして避難した者たちも多く居た。
 お金持ちは、このような事が出きたのである。
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 がしかし、一般市民はそうはいかなかった。つづく

 

紙芝居:『1665年ロンドン伝染病の記録』(その2)

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 そもそも事の発端は、昨年(1664)の秋、海の向こうの隣国オランダで「伝染病ペストがどうやら流行り出した」という噂が流れてきたのが始まりだった。
 そして、わが国イギリスでも昨年の冬、二人の市民がペストで亡くなった。
 が、ロンドンの街の人びとはまだ楽観視していた。
 そして1665年の今年、春の終わりごろから猛烈な勢いで、このペスト患者が出だした。
 この病は感染すると、発熱などの症状があらわれて、放置すれば60パーセントの確立で死亡してしまうのだ。
 我々はこの目に見えない伝染病に、対抗手段もなく、当時としては『神に祈る』しか方法がなかったのである。つづく
 

紙芝居:『1665年ロンドン伝染病の記録』(その1)

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(はじめに)
 もはや私たちは[新型コロナウイルス]と、いかに付き合っていくか⁈という段階に入ってしまった。
 現代の伝染病:コロナウイルス。
 そして、昔の伝染病:ペスト。
昔の話なのにどこか似ている・・いや今にそっくりなところもある。
 これは今から350年前、実際イギリスのロンドンで起こった伝染病の(小説風)記録『ペスト』を紙芝居にしたものである。
 原作は『ダニエル・デフォー』。
 おそらく、デフォーは自分のおじさんから聞いた体験談に感銘を受け、その後綿密な調査を基にして書いたものと言われている。
 それでは、はじまりはじまり・・。

 私の名前は、ヘンリー・フォー。
 17世紀のイギリス人だ。
 今から、1665年のイギリス、ロンドンで起こった「伝染病ペスト」の、私が見た惨事の記録を皆さんにお伝えしたい。
 この年1665年に大流行したペスト菌による死亡者は、約75000人。
 およそ、ロンドンの4分の1の人々が亡くなるという凄まじさであったのだ。 つづく

紙芝居:『山伏・弁円(べんねん)と親鸞聖人』(その6:最終回)

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ワシは思わず叫んだ!
「親鸞殿、只今よりこの弁円、山伏を捨てます!」と言い、短剣を抜いて髪の毛をバッサリ切った。
 そして「私を弟子にしてください!」と頭を下げた。
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 こうして、ワシは山伏・弁円という名前を捨てた。
 そして、親鸞聖人から『明法房(みょうほうぼう)』という新しい名前を頂戴し、念仏者として新たな仏教者の道を歩むことになったのである。
 おしまい

(これで終わる訳にはいかんコーナー)
 13世紀末、親鸞聖人讃仰の為に本願寺第三代覚如上人によって、著された伝記『御伝鈔(ごでんしょう)』。
この中に、弁円は登場する。
 親鸞聖人を暗殺しようとして、一人草庵に乗り込むが、一目聖人を見たとたん、そのあまりの尊さに感激し、玄関先で涙を流して弟子入りをお願いする場面でこの段は終わるが、(そんな奴おらんやろーとひねくれた僕は)どうしても納得できなかった。・・で、この紙芝居は、弁円に草庵の中に入ってもらい、親鸞聖人に自分の半生を少しお話をしてもらい、それで弁円が自分自身を恥じ、弟子入りすることにした。(覚如上人ごめんなさい。)
 それでも、まだこの物語はおかしいような気がする。
 決定的な、人が納得する何かが足りない。
 だいたいこの話は、弁円が一人で暗殺しに行く所からおかしい。
 昔も今も、暗殺するにたった一人で堂々と行くのがおかしいのではないかと思われる。
 これは暗殺ではなく、喧嘩をしに行ったのでないかと僕は感じた。
 そして相当、弁円は念仏の教えの知識を仕入れてから、乗り込んだのではないだろうか?いや、喧嘩をする以前に最初から、弟子入りもありと考えていたように考えてしまうのは考え過ぎだろうか?
 とにかく、その後、熱心な念仏者として一生を過ごしたという、この弁円は悪人にはどうしても思えなかったのだ・・。

 

紙芝居:『山伏・弁円(べんねん)と親鸞聖人』(その5)

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「山伏さん、お前さんの言いたいことはわかってるで・・。
 なぜ、加持祈祷は必要ないというのか⁈ってことやろ。
‥確かに、加持祈祷という方法もある。・・が、この親鸞においては必要なかったんや。
 わしも若い頃、お前さんのように修行をした。・・それは命がけのもんやった。・・が、わしは自力の修行では自分の苦しみを解決できんかった。・・わしは絶望した。
 そんな時、わしは[念仏]の教えに出会った。
 仏様の方から、こんなわしを『見捨んと救うてくれてる』という教え、『南無阿弥陀仏』の念仏の教えに出会うたんや。
 これでわしは救われたんや。・・わしに加持や祈祷はいらんかったんや。
 こういう考え方をわしは縁のある人に話しているんや。・・こんなけのこっちゃ。」
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「話はこれだけや・・。
 さぁ、わしをいかさま師やと思うんやったら、斬ったらええ!」と親鸞は言った。
 ・・ワシは思った。
『この正直な男はただものや無い。『誠の宗教者や!』と直感で悟った。
 そして、神や仏をワシの手下のように扱おうとしていた自分自身が恥ずかしくなった。
 その瞬間、ワシの両目から涙が出てきた。』つづく

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