住職のつぼやき[管理用]

記事一覧

※画像をクリックすると拡大されます。

紙芝居:「室戸台風襲来の日」(後編)

ファイル 924-1.jpg
・・やがて、雨の量は300ミリを越え、雨と海水で大阪の町は水浸しになった。
 その余りに急な水位の上昇に避難が間に合わず、大阪湾一帯で溺死した人は、1900人を越えたんや。
 結論から言うとな、この台風の死者・行方不明者は、3036人。
 浸水した建物は、401,157件やってんて。
ファイル 924-2.jpg
 それでな、大阪にはその頃『外島(そとじま)保養院』という〔ハンセン病〕患者さんの療養所があったんや。
 それがこの台風の高波で、入所者の方や職員、そして職員家族187人が犠牲になり亡くなりはった。
 その後、後に残ったに入所者の方がたは、岡山県の〔邑久(おく)光明園〕という療養所設立と共に、そこに移りはることになったんやて。(今の関西人には、あまり知られてない事やなぁ。) 
ファイル 924-3.jpg
 痛ましかったんは、木造校舎やった〔小学校〕の崩壊や。
 実に、44校が潰れてしもたんでっせ!
 今とは違って、台風で『臨時休校』にはならんかったもんで、この時、校舎にはたくさんの生徒たちがおり、大半が下敷きになって犠牲になってしもたんや。
 この『吹田豊津小学校』もその一つや。
 ここに〔吉岡藤子〕先生という、若い女の先生が居られてな、授業中、もの凄い暴風雨で校舎が崩れてしもたんや。
 先生と子供たちは、必死で逃げだそうとした・・しかし、
ファイル 924-4.jpg
 間に合わんかった。
 あっと言う間に、木造校舎は崩れてしもて・・、
 その瓦礫の中から、吉岡先生の遺体は発見されたんや。
 先生は三人の生徒を守り、覆う形で亡くなって居られたそうや。
 しかし、奇跡的に三人の子供たちは、皆無事やったんやて。
 そんな先生がこの当時、仰山おってんなぁ・・。
 そんな話が、皆に感動を与えたんや。
ファイル 924-5.jpg
 それで全国から、仰山義援金が寄せられて、大阪城公園に『教育塔』という慰霊塔が建てられたんや。
 そして今でも、ちゃんと祀られてるんや。(余談ながら、僕は子供の頃、自転車でよくこの教育塔の下まで遊びに来ていた。なぜだか解らんが、ちょっとこの塔の形が不気味に感じた。でも、そう感じたのは僕だけではなかったようで、弟も友達も同じことを言っていたのを思い出す)
 
 そろそろ、この台風の話も終りにせなあかんなぁ・・。
 この室戸台風は、ほんま仰山の犠牲者を出した。
 その大きな要因の一つは、市民へのラジオなどを使っての『警報』が、わずか2回しか出なかったことらしい。
 こののち中央気象台は、『警報』以外に、『注意報』も発令することになってんて。
 何か大きな犠牲があって初めて、それが教訓となり、何事も進歩してゆくんやなぁ。
 でも、こんな仰山の犠牲者を出した台風の話は、これからもずっと語りついでいかなあかんと思うわ。・・ほんまに。
 おしまい

 (あとがきにかえて)
 昨年、ある老人ホームで『大阪に津波が来た日』という紙芝居を上演した時、一人のご老人から、「津波も恐いけど、大阪にはもっと恐ろしい『室戸台風』というのが襲来したんやで。その時、わしの家も浸水したし、四天王寺の五重の塔も折れたんや。」と云われた。
 僕は「ほんまでっか?」と言ったら、「調べてみい。その当時の新聞も切り取ってあるで。・・そして、その紙芝居も作らなあかんのとちゃうか。」と言われた。
 それから僕は、大阪の台風被害の事をインターネットを使って、随分調べた。 このご老人の言われた通り、五重の塔は崩壊していて、驚いたのはその瓦礫の木片から、五重の塔のミニチュアを作って配ったという話も知った。又、その実際、ミニチュアをもらったというお婆ちゃんにも出合って、その当時の話を聞いた。
 そしてもっと驚いたのは、〔ハンセン病〕療養所が大阪市内にあった事である。その規模はとても大きかったようで、その写真も手に入ったのでそれを参考に絵を描いた。もし、この台風が無ければ、この療養所は今も大阪市にあり、この病気への皆の理解度はもっと進歩し、社会的差別意識は、又違ったものになっていたのではないかとも思った。・・残念である。
 又、この紙芝居の製作調査をしている時、この台風による浸水被害に遭われた一人のご老人に出会った。
 その方は、この時、水に浸かりながら、流れて来る膨張した死体や、流木をいかに避けて逃げるかだけを考えて、悪いと知りながらも、その遺体を棒で払いのけ、傷つけながら逃げたとお話して下さった。
 お話を聞きながら、僕は昨年の東北の津波の事を思い出した。大阪でも同じような体験をされた方があったのである。
 あとがきが長くなった。
 これでこの紙芝居の話は終るが、毎回、色んな紙芝居を作る度に、僕の心は大きく揺さ振られる。
 特に今回の台風の話は、直接体験された方からお話を伺いながら作ったので、途中何度も身震いして、描くのも躊躇うことが多かった。 
 そのお話を伺っていたご老人の言葉に、特に印象に残った言葉がある。それを最後に書いて終わりたい。
 「わし等老人は、この齢まで生き残ったのが奇跡のようなもんなんやで。・・まず、こんな大きな台風から生き残った。そして戦争からも生き残った。妻は空襲から生き残った。その後、飢餓からも生き延びた。そして、あの阪神の大地震。・・よう生き延びたわ、ほんま。奇跡やなあ。」と。
 この奇跡のように、生きて来られたご老人たちの生の体験談を聞ける僕も、奇跡に遭遇しているのかもしれない。

紙芝居:「室戸台風襲来の日」(前編)

 台風4号は、季節はずれの6月に上陸し、日本のあちこちで大きな被害を出している。
 又その後から、台風5号も続いているらしい。
 ・・ということで、この紙芝居は今年の9月頃に発表しようと思っていたのだが、急遽今月に取り上げる事にする。
ファイル 923-1.jpg
 「わぁっ、えっらいこっちゃ!
 四天王寺・五重の塔が折れて真っ二つや!
 ほんま恐ろしい雨風やで。
 あのなぁ、この台風は『室戸(むろと)台風』という名前で、京阪神にどえらい被害を出しよったんや!
 そう、この日は昭和9年の9月21日の朝、8時頃・・。
 史上空前と云われたこの台風被害の様子を、今から紙芝居で見てもらいまひょか。
ファイル 923-2.jpg
 この台風の名前の由来はなぁ、9月21日午前5時頃に、高知県室戸岬付近に上陸した事から『室戸台風』と名付けられたんや。
 この室戸岬に上陸した時の中心気圧は、911.9ヘクトパスカル。
 そして大阪ではなんとっ、風速60メートルを記録したそうや。
ファイル 923-3.jpg
 その強風で、大同電気(関西電力の前身)の送電線は、あめ細工のように、ひん曲がってしもたんや。
 もの凄い風やってんなぁ。
 さらに・・、
ファイル 923-4.jpg
 今里・布施間の大軌電車(現:近鉄)は、横転してしもた。
 又この時、滋賀県の大津でも、瀬田川大橋で列車が横転して、乗客200名の死傷者を出したんやで。 
ファイル 923-5.jpg
 又、大阪湾では4メートルの高潮が発生して、海水は8キロ内陸まで流れ込んだんや。
 それでな、大阪湾に停泊していた巨大な商船は、陸に打ち上げられてしもたんやで。」(東日本大震災と時と似ているなぁ。)
 つづく
 

紙芝居:「善導大師物語」(後編)

ファイル 920-1.jpg
 善導さまが説かれたお話に、有名なものが一つあります。
 それは『二河白道(にがびゃくどう)のたとえ』というお話です。
 それはこんなお話です。
 
 一人の男が、盗賊(この世の悪)に追われて逃げておりました。
 目の前には、細い白い一本道(念仏信仰)だけがありました。
 男はその道を行くしかありません。
 しかし、その道の南側は〔炎の河〕になっており、北側は〔嵐の河〕になっておりました。(この世の欲望)
 どちらに落ちても、男は焼け死ぬか、溺れて死ぬしかありません。(寿命)
 「どうしようか?」と迷っておりますと、東から「その道を行くが良い」とお釈迦さまが現れて言われました。
 又、西の岸から「恐れず、真っ直ぐ来るが良い。わしが護っておるから」と阿弥陀さまの声が聞こえます。
 その言葉に従い、男は真っ直ぐその道を歩いて行き、無事に西の岸(極楽)に着く事が出来たというお話です。(往生)

 これは、阿弥陀様におすがりすれば、必ず救われて極楽に往けるという、たとえ話です。
ファイル 920-2.jpg
 さて、このお話もいよいよクライマックスです。
 晩年の善導さまには、このような伝説があります。
 それは、善導さまがお念仏を称えると、一声ごとに口の中から金色の光があふれ出し、まるで仏さまが姿を現したように見えたというお話です。
 それ程、尊いお方であったのでしょう。(ええ声~~、ちょっと古う)
 その善導さまも六十九歳でお亡くなりになりました。
 お墓は、お弟子たちによって建てられ、この地はのちに『香積寺(こうしゃくじ)』というお寺になりました。
 
 遥かのち、日本の源信さまも、法然さまも、そして親鸞さまも、深く『善導さま』のお徳を慕われ、「善導大師さまは、阿弥陀如来の生まれ変わりだ!」と、心から敬われたということです。
 おしまい

紙芝居:「善導大師物語」(中編)

ファイル 919-1.jpg
 善導さまの〔悟真寺〕での修行は、長くそして命掛けでした。
 ご本尊の〔阿弥陀仏〕の前で念仏を称える時は、跪(ひざまず)き一心に称えました。
 それは、寒い冬でも汗が流れ落ちるほどであったそうです。
 又その間、一度も布団に入って眠ることをせず、修行に疲れたらその場で倒れ込んで休み、又、目覚めれば念仏を開始するという24時間ぶっ続けの行でした。
 それをなんと30年間続けたそうです。(修行の鬼ですなぁ。)
 今や、善導さまの髪や髭は超ロングになり、衣もボロボロになっておりました。
 しかしながら、それでも善導様の心に、平安はもたらされませんでした。
 「・・ダメだ。結局、私は自力で悟りを開くはできないのだ。・・やはり、私は阿弥陀さまのお慈悲に縋って救って頂くしかない。」と、善導様は(ようやく〔笑い〕)この時、『自力』を捨て『他力』に縋る決意をしたのでした。(長いこと掛かったなぁ・・。)  
ファイル 919-2.jpg
 そして又、お寺を移り、今度は〔光明寺〕というお寺に入りました。
 ここではもう、善導さまは厳しい修行はされません。
 尋ねて来られる信者さんにも修行を勧めず、『阿弥陀仏の救いのお話』を、ただただ話されたのでした。
 そして、何事に徹底されるご性格でしたので、空いてる時間で『阿弥陀経』というお経の『写経』を開始され、なんと十万巻も書き写し、信者さんたちに配られたそうです。(どこまでも徹底してはる人なんやなぁ・・。)
 又、極楽浄土の絵も書き写そうと決心され、なんと300枚も描かれたそうです。(『絵解き説法』の力を信じておられたんや。ははぁ~、おっ師匠さま!)
 その成果あって、長安は云うに及ばず、近隣・遠方を問わず、たくさんのお方が連日、お参りにお寺にやって来られることになりました。又、お念仏を称える人が倍増したそうです。
 善導さまは云われます。
「文字は読めなくても、悩みを抱いた人でも、ただ念仏を称えるだけで阿弥陀さまに救って頂けるのですよ。・・それだけで極楽に生まれさせて頂けるのです。さぁ、皆さん、念仏申しましょう」と。ファイル 919-3.jpg
 そんな或る日、一人の信者が、善導さまに質問されました。
 「先生、お念仏さえ称えたら、必ず極楽に生まれることができるのですね?」と。
 「そうです。念仏を称えるだけで、必ず極楽に往けるのです」と、善導さまがお答えになると・・、
 「そうですか!では、今すぐ・・」と言うや否や、その信者はフラっと、お寺を出て行き、庭の高い木に登ったと思うと念仏を称え、
ファイル 919-4.jpg
 あっと言う間に、飛び降りました。
 そして打ち所が悪く、死んでしまったのでした。
 「たったったいへんだー、善導さまー! 男が木から飛び降りて死にましたー。」とすぐに知らせが入りました。

 「なっなんですと、馬鹿なことを!・・お念仏を称える解釈が間違っている。
 阿弥陀仏の国へ往けるからといって、急いで命を絶つのは間違っています。 
 阿弥陀さまに救いにふれて、お念仏が口から出た時、その有り難さに(生かせされていることに)気づき、自分や周りの生き物すべての命が尊いと、感じねばいけないのです。
 その事をこの人は、気づかなかった・・。」と、善導さまはつぶやき手を合わされました。
 このような間違った解釈をして、自らの命を絶った人はたくさん居られたと伝わっています。 つづく 

紙芝居:「善導大師(ぜんどうだいし)物語」(前編)

ファイル 917-1.jpg 
 善導(ぜんどう)大師は、今から1400年ほど?前、中国の〔山東省〕という所でお生まれになりました。
 それはちょうど日本でいうと、聖徳太子の頃の時代です。
 少年時代の善導様には、次のようなエピソードがあります。
 或る日、善導様は母に連れられ、近くのお寺にお参りされました。
 そのお寺の壁には、美しい大きな極楽浄土の絵が飾られていました。
 善導様は「お母様、私はあのような美しい国に行ってみとうございます!」と思わず叫びました。
 すると母親は「はい、お坊様になって一生懸命に修行すれば、行けるかもしれませんね。」と答えられたそうです。
 それからと云うもの、善導さまは、あの極楽の絵が頭から離れませんでした。
 そしてついに・・、 
ファイル 917-2.jpg
 「やはり、私はお坊さんになろう!」と決心され、本当に頭を剃って出家されたのでした。
 それから善導様は、夜も休まずたくさんのお経を読み、ひたすら修行をされました。
 しかしいくら励んでも、どうしても心の安らぎは得られません。
 「やはり、煩悩多き私のような者では、極楽の国には往けない。・・いや、私のような者でも、清まり、極楽に近づけ、そして救われる教え(方法)というものが、いったい有るのだろうか?」と深く悩まれました。
ファイル 917-3.jpg
 そしてついに、その悩みを解決する時がきました。
 それは『観無量寿経』というお経との出会いで見つかったのです。
 「これだ、これだ!〔お念仏〕を称えるだけで、お助けが頂け、極楽浄土に往けると書いてある!」と善導様は、小躍りをして喜びました。
 そしてかねてより、念仏の教えを説いておられるという〔道綽(どうしゃく)禅師〕様のお寺を尋ねられ、直ちに入門しお弟子にしてもらいました。(道綽さまのお話はこちら、https://o-demae.net/blog/archives/888.html
 この時、道綽禅師80才、善導様30才の頃の出会いでした。
 善導様はこののち、道綽さまが亡くなられるまで、数年間こちらで学ばれました。
ファイル 917-4.jpg
 道綽さまが亡くなられたのち、善導様は再び旅に出られます。
 目的地は〔長安〕という都でした。
 そして善導様は、長安の〔悟真寺(ごしんじ)〕というお寺に入られ、再び厳しい修行を開始されました。(厳しい~修行の好きなお方やったんやねぇ!・・よっ、根っからの求道者!!)
 それは本来、情熱家のお方でしたので、「念仏の教えを究めたい!」と思われたのかもしれません。 つづく
 

 

紙芝居:「不思議なクマグス」(その8:最終回)

ファイル 911-1.jpg
 昭和八年、若き昭和天皇は和歌山に来られた時、「是非、クマグスに会って、生物学の講義が聞きたい」とおっしゃいました。(すでに日本でも(クマグスは)有名人になってたんやね)
 そして六月一日、昭和天皇は軍艦『長門』で田辺を訪れ、その艦上でクマグスにお会いになられたのです。
 この時クマグスは、昭和天皇にいくつかの〔生物の標本〕をお土産に持って行きました。
 その標本入れのケースに、クマグスはビックな『森永ミルクキャラメル』の箱を選び、天皇に差し出しました。(そんなデカイ箱のキャラメルケースが当時にもあったんやね。) 
ファイル 911-2.jpg(実際の森永キャラメル箱)
 昭和天皇はそれを見て、大変愉快な表情をされたということです。
 クマグスの物にこだわらない愉快なエピソードの一つです。
ファイル 911-3.jpg(新製品の森永キャラメル)
 余談であるが、(写真)は先日買ってきた平成の『森永キャメル』である。プリン味とチョコレート味が増えていた。驚いたわ!ちなみに小豆味もあった。(キャラメルは常に進化しているんや・・)
ファイル 911-4.jpg
 さて、型破りな人生を送ったクマグスでしたが、太平洋戦争が始まった昭和16年の12月に病に倒れます。
 そして12月29日に亡くなりました。
 その最後、布団の中から語った言葉が記録されています。
 「この部屋の天井に美しい紫の花が咲いている。医者を呼ぶと花が消えてしまうので、どうか医者は呼ばないでおくれ・・」と。
 きっと幽霊の見えたクマグスですから、(極楽浄土の?)この美しい花々が見えたのでしょうねぇ。
 ・・そして息子の名を二度呼び、息絶えました。

 南方熊楠(ミナカタ・クマグス)、行年75才。
 出世や名誉よりも自分の夢を追い求めた、ある意味、はちゃめちゃで、自分に正直に生きた人の一生でした。 おしまい

紙芝居:「不思議なクマグス」(その7)

 子供が生まれて喜んだのもつかの間、又、クマグスに大事件勃発です。
 それは政府が『神社合祀令(ごうしれい)』というお布れを出した事に始まります。
 これは「小さな祠(ほこら)や、氏神さんは壊してしまって、村や町に一つだけの神社を祀りなさい」という命令でした。
 そのお布れに、クマグスは猛反対をします。
 神社の境内や鎮守の森には、クマグスが研究する小さな生き物たちが一杯います。又、信仰している神様を失うことで、人々の心と心がバラバラになると思ったからでした。
ファイル 910-1.jpg
 クマグスは国や県に対して、「そのお布れは自然の生態系を壊し、人々の心を壊し、決して日本の未来の為には良くならない!」と訴えたのです。
 そのあまりに烈しい抗議をするために、クマグスは警察に捕まり牢屋に入れられた事もありました。
 クマグスは、日本で最初の〔環境保全運動(エコロジー)〕の走りだったのです。
 この結果、やがて政府(国会)はこの〔神社合祀令〕を撤回し、二度と行わないと議決しました。
 これによって那智の原生林などは、ひどい被害を避ける事ができました。
 現在、和歌山の〔熊野古道〕等は、世界遺産に登録されましたが、もしクマグスが居なければ、それは「登録ならずっ!」であったかもしれません。 つづく

紙芝居:「不思議なクマグス」(その6)

・・これも余談になるが、何年か前、民放で『JIN-仁』という現代の医者が幕末にタイムスリップして活躍するというテレビドラマが大ヒットした。
 覚えておられる方は多いと思うのだが・・?
 さて、この(ドラマの架空の)主人公の名前は『南方(みなかた)仁』という。
 もうお気づきの方も多いと思うが、ドラマの主人公『南方仁』のモデルは一説によると、『南方熊楠』といわれている。(どちらの南方も、同時代の人間たちから見ると〔宇宙人〕的に見えるところが接点なのかな?) 
 もちろん、熊楠は医者では無いし、ドラマの南方医師の方が(超)遥かに常識人である。・・が、ドラマ(漫画)の作者は、このお話を描く前に、『熊楠』記念館を尋ねて取材されているし、ちょっとだけ本物の(赤ん坊の)熊楠をドラマに登場させ、和歌山で南方仁医師と接触させている。(この辺が憎いなぁ)
・・でも、南方熊楠と幕末の南方仁とは時代が違う為、これ以上の二人の交流は不可能であったと思われる。・・僕は、南方仁は、南方熊楠の子孫(養子?説)であったぐらいのオチをつけるのかと思っていたが、そこまでせんかったなぁ。(笑い)・・どうでもよい余談おわり。
ファイル 909-1.jpg(熊楠その若き晩年)
 クマグスは、型やぶりな変わり者でした。
 世界18ヶ国語(19ヶ国とも云われている)を話せ、『歩く百科辞典』とも呼ばれるほど博識があるのにも関わらず、常に自宅では裸ん坊で凄し、(時には森林の中でも裸でうろうろした、又あえて写真では腰巻のような物を巻いて写っているが、おそらくあれは、写真用であって、実際は常にフルチンだったに違いない・・と思う)アンパンをこよなく愛し、銭湯に行って、子供たちを摑まえては『世界の伝説』などを語り、気に入らない大人には、ヘドを吐いて大喧嘩をしたと伝わっています。(南方仁(JIN)はそんなことせんなぁ)
ファイル 909-2.jpg
 そんな、子供が大人になったようなクマグスを友達たちは心配して、お嫁さんを世話することにしました。
 お嫁さんの名前は、〔松枝〕さんとおっしゃって、闘鶏神社の娘さんでした。
 この時、クマグスは39才。初めて家庭を持ったのです。
 松枝婦人への最初のプレゼントは、〔樽一杯の本〕だったと伝わっています。(笑うしか・・ないなぁ。松枝夫人に最大限の同情を致します)
 こののち、クマグスは一男一女の父親になります。 つづく
 

 

紙芝居:「不思議なクマグス」(その5)

・・クマグスと幽霊の話をもう少し。
 クマグスは、和歌山県の那智で、一人植物採集をしている時(そのあまりの孤独さゆえか?はたまた持って生まれた才能か?)よく幽霊に遭遇している。(クマグスの面白いところは、(その幽霊を恐がらずに)そこは研究者・科学者の目でじっくりと幽霊を観察しているところである。・・そんな記録が残っているのだ。)
 たとえばこうだ。
 「本物の〔幽霊〕と〔幻覚〕とはこう違う。本物の幽霊はどんな状況で出現しても、床に対して《垂直》に立って現れる。・・が、幻は、床に対して《平行》に現れる。つまり、枕元に立つのは本物の幽霊。 おおいかぶさってくるのは幻である」と、その述べている。
 そう考えると、昨年ヒットした三谷幸喜監督の『ステキな金縛り』はおかしく(誤りに)なってくる。
 深津絵里さん演ずる主人公が金縛りにあって、西田敏行さん演ずる幽霊が、深津さんに覆いかぶさり、二人はこの時はじめて接触する。・・が、クマグス説では、覆いかぶさって来る幽霊は、深津さんのイメージで作り出した幻影なのだ。
 だから、正確には西田さん演ずる落ち武者の幽霊が、裁判に立って証言してもらうには、まず、深津さんの布団の上に垂直に立って登場しなければならない。でないと、クマグス説を取るならば成り立たない。(別にこの説を取らんでも良いのだが〔笑〕)
・・長々とこんな事をまじめに書いてる自分が、だんだんとあほらしなってきたが、まぁ、でも幽霊が垂直に枕元に立ったら、映像的にはあまり迫力が出ないやろなぁ・・とも思う・・。もうこのへんにしとこか。 
 皆さんも、この際是非『金縛り』に(寝ている時に)あったら、幽霊が平行か垂直かを、客観的に見つめて頂ければ、又違った『金縛り』の楽しみ方を味わえると思いますのでご参考に。
 長い余談、終り。
 さて、本編に戻らな・・。
ファイル 908-1.jpg
 ところで、クマグスが生涯を掛けて研究をしたものに『粘菌(ねんきん)』があります。 
 『粘菌』とは何でしょうか?
 それは『菌』が付くので、カビの仲間の様です。
 しかしこの『粘菌』は、自分で動き回って細菌などを食べて大きくなるので、動物のようでもあります。
 が、又、胞子(ほうし)などをばら撒いて仲間を増やすので、植物のようでもあります。
 つまり『粘菌』は、動物のようでもあり、植物のようでもある(・・ベンベン、それは何かと尋ねたら・・〔笑い〕)、不思議な生命体なのです。
 この『粘菌』、ひょっとすると太古の昔に、宇宙の他の星から、この地球に落ちて来た動・植物の原型ではないかとも言われているのです。
 クマグスはこの不思議な生命体に興味を持ち(何か、クマグスが興味を持つなんてよく解る気がするなぁ・・)、集めて研究しました。
 中でも、自宅の柿の木(自宅かいっ!〔笑〕)から発見した粘菌は、新種の粘菌で世界的にも認められ、『ミナカテルラ・ロンギ・フィラ』と、クマグスの名字を入れて名づけられました。 つづく 
 
 

紙芝居:「不思議なクマグス」(その4)

 南方熊楠の人生は、(明治期の)小さな日本国から、やがて世界を舞台に大きく羽ばたいてゆく成功者の人生と《真逆》のコースをたどった偉人だと、この紙芝居を描きながらよく思った。
 普通の偉人は、(若き日に)日本国で頑張って勉強し、やがて(齢を経て)世界に進出してゆくのに、熊楠の場合、若い頃にすでにアメリカ・南米・ヨーロッパと渡り歩き(ある程度有名に成り)、中年になって日本に帰って来てからは、ほぼ〔和歌山県〕から出ず一生を過す。・・これだけ見ても、熊楠は普通人ではなく、面白い人間だと思ってしまう。
・・では続きをどうぞ。
ファイル 907-1.jpg
 大きな夢を胸に、世界各地を渡り歩いて14年・・。
 クマグスはボロボロの服を着て、両手に植物の標本とノートだけを持って帰って来ました。
 クマグスの留学中、すでに父に亡くなり、日本の神戸港には弟だけが、出迎えに来ておりました。
・・が、クマグスの身なりを見て、「こんな姿では、恥ずかしくて兄を和歌山につれて帰れない。」と弟は思い、知り合いのお寺に、そのままクマグスを預けてしまいました。
 家族や親類の中にクマグスを理解する者は少なく、「訳の解らないものにお金を使う道楽者」としか、彼は見られなかったのです。 
ファイル 907-2.jpg
 やがてクマグスは、預けられたお寺から、和歌山県の〔那智勝浦〕に引越しました。
 そこには、弟が経営するお店の支店があったからです。
 クマグスはここで勤めながら、毎日のように那智の山奥深く入ってゆき、植物を集めました。
 ここでクマグスは、『ナギラン』という珍しい植物を発見しますが、これは「場所は《幽霊》が教えてくれたんじゃ」と書き残しています。
 どうやらクマグスは、幽霊が見えて自由に会話することができたようです。
 クマグスは幽霊にいろんな事を教えてもらっていたようで、「大昔の人間は、大自然の〔もののけ〕と自由に話せる超能力を皆、持っておったんじゃ。しかし今、物に埋まって暮らしているので、そんな力は無くしたのじゃ。」と言っています。(宮崎駿みたい・・) つづく

上に戻る