
それから良忍さまは、[融通念仏]を広げる為、京都は云うに及ばす、奈良・大阪へと足をのばし布教されました。
身分の高い人も低い人も、気の毒な病気の人にも教えを説いて回られました。
そんな布教のさなか、大阪は四天王寺にお参りされた良忍さまは、いつものように融通念仏を(エエ声~で)称えていると、それを聞いた人々が、いつの間にか楽しくなって踊り出したのです。手を回し、腰を振り、足を踏み鳴らし・・。
この時の踊りが、やがて『念仏踊り』のルーツになったのだと伝わっています。(※空也・一遍上人にも同じような話がある。どの御方の逸話が、本当の始まりなのかは解らないが、・・まぁ、娯楽の無い暗い時代に、今でいうEXILEが流行る様に、この[念仏踊り]が大いに盛り上がったという事だろう・・と思う。)
四天王寺を出られた良忍さまは、次に河内の国へ向かう予定でした。
その途中のこと。[平野]の『修楽寺』というお寺に立ち寄られました。
それをどこからか聞いた町の人々が、たくさんお寺へと押し寄せ、良忍さまにお説教をせがまれました。
それで、とうとう出発することが出来ず、ついに良忍さまは、ここに留まることをお決めになりました。
そして、お寺の名前も『大念仏寺』に変えられたそうです。
それが、今も続く総本山『大念仏寺』の始まりだそうです。(・・余談だが、僕もこの紙芝居の取材の為に『大念仏寺』へ行って来たのだが、さすが総本山!大きな威厳のあるお寺でした。)
その後も良忍さまは、世の為人の為に[融通念仏]を広めて旅を続けられました。、
そして61歳の時、良忍さまは、京都は大原に戻られ、お亡くなりになります。
ご臨終は、亡くなる七日前から死期を悟り、自ら身体を清め、極楽があるという西を向き、最後を迎えられたという事です。
亡くなられた時は、空には紫の雲がたなびき、お香の香りが一面に、ただよったと伝わっています。
『一人の念仏は万人の為、万人の念仏は一人の幸せの為。すべてのモノはつながって助け合っている。融通し合う念仏が大切である。』と、教えられた偉大な御聖人のご一生でした。 おしまい
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紙芝居:「ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に」(その4:最終回)
紙芝居:「ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に」(その3)

大原の地に移られて、厳しい修行を積まれた良忍さま。
いつしか46歳になっておられました。
ある日の事。
いつもように、お念仏を称えて修行をしていると、突然、恍惚(トランス)の状態になられ、気がつくと、阿弥陀如来様が目の前に立っておられました。
阿弥陀さまは言われました。
(阿弥陀仏)「良忍よ、[融通念仏(ゆうずうねんぶつ)]をお前に授ける。これを世に広めて、苦しむ人々を救うように」と。
良忍さまは、「[融通念仏]とは、いったいどのような教えなのですか?」と尋ねられると、
(阿弥陀仏)「それは・・、一人の念仏で、たくさんの人が幸せになり、たくさんの人の念仏で、一人の人が幸せになる教えじゃ。・・つまり、ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏は、ひとりの幸せの為に称えるということなのじゃ。
もうちょっとくわしく云うと、この世の者はお互い、つながり、助け合って生きている。だから、みんなで念仏を称えて幸せになり、往生しようという教えなのじゃ。解ったかな⁉」と言われました。
良忍さまは、それを聞き感動していると、天から一枚の絹がヒラヒラと舞い降りてきました。
手に取ってみると、そこには、阿弥陀様を中心に、十人の菩薩様が描かれてありました。
これを『天得(てんとく)如来様』と、そう良忍様は名づけられました。
それ以後『融通念仏宗』を開宗、そして、この『天得如来様』をご本尊とされることになったのです。
阿弥陀様から、有り難い教えを賜った良忍さまは、それから、ひたすら[融通念仏]を称えられました。
『みんな、みんな、幸せに・・南無阿弥陀仏。みんな、みんな助け合って・・南無阿弥陀仏』と、そう願いながら。
ある日の事です。
良忍さまの庵に、一人の若いお坊さんが訪ねて来られました。
このお坊さん、「是非、融通念仏宗に入門させて下さい」と言われるので、良忍さまが[勧進帳]を出して、「それでは、ここにお名前を書いてください。」と言うと、名前を書いて、そのまますうっと、そのお坊さんは消えてしまいました。
「不思議なことがあるものだ。」と良忍さまは思って、フトその[勧進帳]を見ると、そこには『融通念仏を守る為に来ました。鞍馬山の毘沙門天(びしゃもんてん)』と書かれてありました。
(良忍)「なんと、あの若いお坊さんは、毘沙門天さまだったのか⁉」と、良忍さまはさっそく、鞍馬山に登って御礼の念仏を称えられたそうです。 つづく
紙芝居:「ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に」(その2)

それからというもの、良忍さまは修行一途。
あっという間に、修行僧三千人のトップである『講主(こうしゅ)』という地位につかれました。
しかしその頃から、良忍さまの心には、迷いが生じ始めておりました。(これも、名僧伝にはよくある話やなぁ・・)
(良忍)「・・私は、偉い学者僧侶になる為に出家したのではない。困っている人や悩んでる人を助ける為に、この道に入ったのだ。・・このままではダメだ。修行をやり直そう!お山を下りよう!」と、ついに良忍さまは一大決心。
わずか23歳で山を下りられたのです。(若っか!)
そしてまずは、京都は[大原]へと向かわれたのでした。
さぁ、ここから良忍上人の不思議な伝説のオンパレートが始まります。パチパチパチッ。 
良忍さまは、大原の地で庵を作ろうと思われたのですが、その頃の[大原]は岩ばかりで、とても住める様な所ではありませんでした。
ところが、ここが良忍さまの不思議なところ。
岩に向って、お経を称えると・・、
まぁ、なんということでしょう!(ビフォー・アフターTVのノリで・・)
なんと、大きな岩が『鬼』になったり、『獅子』になったりして、たちどころにどこかへ逃げだしたのです。(きっと、盗賊か何か、先住者がおったのかも?)
そして良忍さまは、その空地に早速、『来迎院』と『浄蓮華院』を造られたのでした。
また、これも不思議な話。
良忍さまが、庵の近くの滝のそばで、『声明』という、お経に節をつけて練習をされていると、なんということでしょう!(こればっかり)
その声があまりに美しいお声なので、お滝もその流れを止めて、聞き惚れたというのです。
それで、この滝は今でも『音無しの滝』と呼ばれるようになったということです。
・・そののち、良忍さまは、音階や音符などを考えだされて、日本の音楽の元となるものを作り出されていかれました。(非常に『音』に敏感な御方だったようです)
それで今でも、大原は『声明の地』と呼ばれ、良忍さまは『声明の父』と呼ばれるようになったのです。 つづく
紙芝居:「ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に」(その1)
『ひとりの念仏は万人の為、万人の念仏はひとりの幸せの為に~良忍さまの生涯とその伝説~』プロローグ
『融通念仏宗(ゆうずうねんぶつしゅう)』。
別称で『大念仏宗(だいねんぶつしゅう)』とも云う。・・うちの近辺のおっちゃん達はそう呼んでいる。
・・日本仏教は、宗派が多い。
『融通念仏宗』も、その一つである。
・・うちの[宗派]は『浄土真宗』。
しかし、僕は以前、とある『融通念仏宗』のお寺の住職さんから、[紙芝居法話]を頼まれ参らせて頂いた時、帰り際に「うちの宗派の[開祖]の紙芝居を是非、作って下さい。」と頼まれた。
それでその時、融通念仏宗のたくさんの資料をお預かりし、この紙芝居を完成させた。・・今から4・5年前のことである。
この倉庫に眠っていた紙芝居をようやく、ここに発表する機会を得た。
それでは、はじまり、はじまりー。

昔、むかしのものがたり。
それは、平安時代の終わりの頃・・。
これは『融通念仏宗』を開かれた[良忍(りょうにん)]上人の不思議な不思議なお話。
良忍さまは、尾張の国の富田庄(今の愛知県東海市)という所で、お生まれになりました。
生まれた時から、とてもきれいなお声をしていたので、『音徳丸』と名づけられたそうです。
ところが、音徳丸さまは、普通の子供とはちょっと違っていました。
友達と外で遊ばず、家の中で土をこねては仏様のような物をつくり、手を合わすのが好きな子供だったのです。(よーある話だ) 
音徳丸さま、13歳(12歳とも?)の時、「どうか、私をお坊さんにならせて下さい!」と、ご両親に頼まれました。
最初は、反対をしていた両親でしたが、最後は根負け。
ついに、出家することを許されました。
こうして、音徳丸さまは、京都は比叡山に登り、厳しい修行生活に入ったのです。
名前も『光乗坊(こうじょうぼう)良忍(りょうにん)(良仁とも云われている。良忍に変わったのは大原の地へ移ったのちとも?)』に変わったのでした。 つづく
紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その11)最終回

[天台宗]の僧侶でありながら、[浄土宗]の開祖『法然上人』から、「私が亡くなった後は、『お念仏』に関しては、聖覚法印に聞くように。」とまで言われた聖覚様。
『唯信鈔(ゆいしんしょう)』という、念仏の教えの要を書かれ、弟弟子の親鸞聖人からも、(親鸞聖人はこの書物の解説文『唯信鈔文意(もんい)』を書かれた)尊敬された聖覚様。
今、聖覚法印さまは、京都市上京区にある浄土真宗『西法寺』さまの境内におまつりされています。 おわり
(安居院 西方寺さま)
(あとがき)
昨年、僕は『聖覚法印』のお墓がある京都の[西方寺]様にお招き頂いた。
そこで、聖覚さまの肖像画を、ご住職から見せて頂いた。
「なんと、優しいお顔なのか!」と、僕はその時思った。
もっと、(通天閣にある串カツ屋のおやじのような)厳つい顔を想像していたのである。
その時、僕の中の聖覚法印のイメージは変わった。そして『この方を紙芝居にしてみたい』と思い、約一年ほど掛けて資料を読み、解り易いように単純化して作った。
でも、今も『まだ、書き足らない』と思っている。・・反省。
それと、西法寺の近くに、今も紫式部のお墓が、慎ましくちょこんと建っている。(まるで、聖覚さまに感謝するように・・。)これも、感慨深いものがあって(余計かもしれなかったが)紙芝居の中に導入したが、聖覚様の人間性を描くに当たっては、やはり余計な事であった。・・これも反省。
最後に、ちょっと専門的なことになるが、聖覚法印と親鸞聖人と我々僧侶やご門徒の、今も続く関連の話を。
私たち『浄土真宗』の同朋は、法要の後(必ずと言って良いほど)『恩徳讃(おんどくさん)』という、親鸞聖人が『正像末和讃(しょうぞうまつわさん)』という書物の中で書かれた和讃(歌)を唄う。
・・こんな(和讃)歌だ。
『如来大悲(にょらいだいひ)の恩徳は 身を粉(こ)にしても報ずべし。 師主知識(ししゅちしき)の恩徳も 骨をくだきても謝(しゃ)すべし。』(親鸞聖人作)
実はこの和讃には、聖覚法印が作った『原文(モデル)=「本尊色紙文」』がある。
『つらつら教授の恩徳を思えば 実に弥陀の悲願に等しき者か。骨を粉にして之を報ずべし。身をくだきて謝すべし』 ・・似てるやん。(ひょっとして、親鸞聖人のパクリ!)ちょっと違うのである。
拙意訳では・・、
(親鸞聖人=『恩徳讃』)
『阿弥陀如来は「必ずあなたを救う、すべてを私に任せよ」と言われた。このご恩は身を粉にしても、返すことは出来ないほど有り難い教えです。この事を伝えて下さったお釈迦様や高僧の方々も、骨をくだいても返せないほどの有難さがあるのです。この感謝の気持ちを持ちましょう。』=(我々の力では返すことが出来ない、有り難い境地を唄っておられる)
・・に対して、
(聖覚法印=『本尊色紙文』)
『阿弥陀如来は「必ずあなたを救う、すべてを私に任せよ」と言われた。このご恩は身を粉にしても、返すことの出来ない有り難い教えなのです。この教えを伝えて下さったお釈迦様や高僧の方々のご恩は、阿弥陀如来と同じぐらい有り難いものです。骨を粉にして、身をくだいてお返ししましょう!』になる。
よく似ているが、聖覚法印は「このご恩は、何としても(自分で)返しましょう!」と言っている。
もう一度言うが、それに対して親鸞聖人は、「とても、そのご恩は(こんな私が)返せるものではない!ただただ感謝しましょう!」と言っているのだ。
このへんが、同じ『他力』の教えながら『浄土宗』(聖覚法印は浄土宗では無いが、)と『浄土真宗』の違いとなっているのだ。
・・ちょっと専門的だったが付け加えました。本当におわり。
紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その10)

又、聖覚さまには、こんな伝説があります。
ある晩、聖覚さまは所用の為、京都から大津の石山寺に向かって歩いていました。
その途中、[紫式部(むらさきしきぶ)]の亡霊に、呼び止められたのです。
(紫[ムラ]ちゃん) 「申し、もうし、聖覚様。わたくしは『源氏物語』という好色な(どうやら、当時はそんな風に考えられたらしい・・ムフフッ)物語を書いた罪により、地獄へ落ちてしまいました。・・どうか、私を助けてたもれ。」と。
もうちょっと詳しく言うと、この当時、狂言・戯言などを書いた人間、又、それをを読んだ人達は皆、地獄へ落ちると考えられたのです。
聖覚様は「わかりました。私が何とかしましょう。」と、(この時は、法然上人に頼まず)答えたのでした。
そして聖覚様は、[紫式部]やこの物語に縁のある人々を、供養するために、『源氏表白』という、お経を称える前に唱える[表白文(ひょうびゃくぶん)]を作ったのでした。
『きりつほの(桐壷) ゆうへのけむり すみやかに・・・、』と始まる、この『源氏物語』の登場人物の名前が盛り込まれた『表白文』。(『イロハにほえと・・』みたいな名文)
この功徳によって、紫式部の罪は許され、お礼に聖覚様の前で舞いをまって、極楽へと昇っていかれたそうです。(・・という事は、聖覚さまも『源氏物語』を読んだんやな・・ムフフッ) つづく(次回、最終回)
紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その9)

なぜ当時、聖覚さまはこんなに人気があって、色んな人が尋ねて来たのでしょうか?
それは、一つには[説教のうまさ]にあったそうです。
聖覚さまの『お説教(=仏さまの法話)』の方法は変わっていました。
父親の代から引き継いだ[安居院(あぐい)流唱導]という説法技術に、聖覚様はさらに娯楽性(=物語のような解り易さ)を加えられ、話す言葉に節を入れ、身振り手振り(=ジェスチャー)を入れ、聞く人の情念に訴えるかけるという、お説教を編み出されたのです。
(実際の[聖覚法印絵像]by西方寺さま)
この方法は『節談(ふしだん)説教』と名で、仏教に馴染みの無い人でも話が伝わりやすく、大人気を博していきます。
で、当時の庶民層を中心に、聖覚様は超有名人となっていったのでした。
この説法方法は、のち『日本の話芸』へと発展し、浄瑠璃・講談・落語・浪曲へと変化していきます。
又、余談ですが、親鸞聖人もこの方法で、お説教をされたという説もあるのです。つづく
紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その8)
又、或る日の事・・。
聖覚さまの所へ、一人の気落ちした中年武将がやって来ました。
彼の名は、熊谷直実(くまがいなおざね)といいました。
(熊谷)「聖覚様、私はほとほと武士が嫌になりました。先の平家との戦[一ノ谷の合戦]で、打ち取った侍の首が、私の息子と同じぐらいの年齢だったです。
私は戦が嫌になりました。・・世の無常を覚えました。
どうか、こんな私をお救いください。私はどうすれば救われるでしょうか?」と。直実は聖覚さまに訴えたのです。
(聖覚)「あなたを救えるのは、私ではありません。阿弥陀さまです。・・その教えを説いていらっしゃるのは、法然上人です。さぁ、法然上人のお寺に参りましょう。」と、聖覚様はこの武将を法然上人の元につれていったのです。(あくまでも、聖覚法印は自分の弟子にするのではなく、法然上人を頼られました。・・このこと一つにおいても、いかに聖覚法印が法然上人を信頼していたがわかります。)
こうして、熊谷直実は、法然上人の弟子になりました。
法名は[法力房連生]。のち立派なお坊様になられたという事です。つづく
紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その7)
こうして、範宴(=親鸞聖人)は、聖覚様につれられて、法然上人の居られる吉水のお寺に案内されました。
範宴さまは、法然上人にカクカクシカジカと、今までのあった事をお話し、夢の一件を尋ねました。
※ここで、ちょっとだけ余談ながら、親鸞聖人の子孫の一人[存覚(ぞんかく)]上人が書いたといわれている『親鸞聖人正明伝』には、この不思議な観音様の夢が起ったのは、法然上人の出会いの後?という事になっているが、僕は(フィクションとしてドラマチックに、)この時の出会いのキッカケにした。・・勝手に変えてすみません。
又、『正明伝』では、この法然上人との最初の出会いの時、すでに上人は親鸞聖人を存じていたと書かれてあるが、僕は当時、無名の青年僧であった親鸞聖人を、法然上人が知っているなんて『そんなはずないやろ~』とこの部分はカットした。余談終わり。
(法然)「・・うーん、不思議な夢じゃな。この末法の世。(※余談ばかりで申し訳ないが、法然上人のこの十八番決め台詞『末法(まっぽう)の世』は、今の時代でいうと(ちょっと古いが)『ノストラダムスの大予言的終末思想』を超本気で考えたぐらいの事だと思う) いかに、修行しても悟りを得るのは難しい・・。お念仏して、阿弥陀様にすがるのが一番なのじゃ。
・・観音さまは、範宴どのに『女性と結婚して、ごく普通人の生活をしながら[仏の道]』を歩んでみよ。』と、おっしゃりたかったのかもしれんのう。・・まぁ、すでに結婚して子供もいる僧侶もここにはいるが・・。(ちらっと聖覚さまを見る)」と、法然上人は言われました。
(範宴)「あっ!そうかもしれません。(聖覚様をチラッとも見ず無視して)・・そのお言葉の通りだと思います。私は『俗人』として(「俗人先輩の聖覚さまのように」・・とは言わんかったが、)仏の道を歩もうと思います。・・法然さま、何とぞ私を御弟子にして頂けませんか!」と、範宴は弟子入りを願い入れました。
(聖覚)「良かったね。・・こんな歴史的出会いの紹介者なのに、今回、こんだけのセリフかい⁉」
こうして、又、聖覚さまと範宴(=親鸞聖人)は、兄弟弟子になられたのでした。
こののち、親鸞聖人は、一生、聖覚様を兄のように慕ったそうです。(・・主役でもないのに親鸞聖人の事を書きすぎた。そろそろ、聖覚様の伝説一本に戻すことにします。)つづく
紙芝居:「安居院 聖覚法印さま」(その6)
・・ある日のことです。
聖覚さまは、共にお山で修行をした[親鸞]さまと、四条大橋でバッタリ出会いました。
(聖覚)「おぉっ、懐かしや!範宴(=親鸞)どの。・・それにしても、そのやつれたお姿、いったいどうされましたか?」
(親鸞)「あぁっ・・、聖覚さま。なつかしや・・。あなた様がお山を下りられて私はどれほど寂しかったか! あの後、私も比叡山を下り、心の平安を得るべく、一人で六角堂への百日間の参籠を致しておりました。
・・その95日目のこと。不思議なことに、観音様が目の前に現れて『私はあなたの妻となって、一生添い遂げよう』とおっしゃられたのです。・・その意味が解らず、こうして毎日、京都中を歩き回って考えている所なのです。」
(聖覚)「・・・何とも不思議な夢。・・・ここでお会いしたのも仏様の御計らいか⁉・・範苑どの、私についていらっしゃい!・・夢の意味が解るかもしれませんよ。」
(親鸞)「えっ、どこへ行かれるのですか?」
(聖覚)「私の師匠、法然上人の元へ行くのです!」
つづく
※『親鸞聖人正明伝』の一部を参照、後はフィクション



