
「何という事だ!お山にとって善いと思ってした事が、かえって高野山を二つに割ってしまった・・。仏様、お大師様、申し訳ありません・・。」と、覚鑁上人は反省を繰り返し、今度は『密厳院』というお堂に籠られ、千日間の[無言の行]に入られました。
そして、その行の最後に有名な『密厳院(みつごんいん)発露懺悔文(ほつろさんげもん)』を書かれるのです。
少しだけ中身を述べますと・・、
『我々は懺悔します。・・多くの罪を作っています。・・行動と、言葉と、心の働きは数えきれない程、良くない行いを犯しました。・・私はすべての人々に代わって、ことごとく懺悔します。』というような文が続きます。(お坊さんは一読有りです)
清らかな心の悟りを開き、高野山のトップに立ち、長年の夢であった、弘法大師のような最高指導者になったものの、良き指導者になることが出来なかった悲しさと、そして上人の心の純粋さが文面からにじみ出ています。
(根来寺 覚鑁上人の墓) つづく
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紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その6)
紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その5)

その結果、覚鑁上人は、わずか二か月間で、両方の座主の座を辞任してしまわれます。
そして、お不動様のお堂に籠ってしまいます。
この時、反対勢力と戦う方法もあったと思われますが・・、あえて御山(高野山)での戦さを避けられるのです。
そして、もう一度(なぜ、こうなったのか?と)しっかり、自分自身を見つめ直す道を選ばれたのでした。
・・がしかし、覚鑁暗殺団の僧兵たちは、武装してお堂の中に乗り込んで来ました。
「覚鑁はどこじゃ!見つけ次第、殺してしまえっ!」と。
僧兵たちは、槍や刀を持って、お不動様のお堂に入って来ました。
「おかしいなぁ・・。先ほど、覚鑁らしき坊主の姿が見えたのに、どこにもおらんぞ⁉
あっあれを見ろ!不動明王が二つある!・・覚鑁め、不思議な術を使いおって、お不動さまの仏像に姿を変えたに違いない! おい、槍で突いてみろ!・・血が出た方がきっと覚鑁じゃ!」と、僧兵たちはお不動さまを、槍で突き刺しました。
すると、不思議なことに、両方のお不動様から血が飛び散りました。
「やっやっ、これはいかんっ!不動明王の罰をくらうぞ!皆の者、引けい引けいっ!」と(吉本新喜劇みたいに)逃げ出しました。
こうして、覚鑁上人は命拾いしました。
これは有名な、覚鑁上人身代わり不動尊(きりもみ不動)の伝説です。つづく
紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その4)

覚鑁は、高野山で厳しい修行に打ち込み、様々な行を成就してゆきます。
そして、わずか40歳で《金剛峯寺座主》、新たに建立した《大伝法院座主》に就任し、『弘法大師の再来』と呼ばれ、最高権力の座に登り詰めました。
そしてさらに、当時もっとも流行していた[浄土信仰]も、真言宗密教に取り入れるのです。
覚鑁上人は言います。
「浄土に居られる阿弥陀如来様は、真言宗の大日如来様を中心としたマンダラの中に居られる。だから南無阿弥陀仏の教えも、突き詰めれば、真言密教の教えの一つなのだ。つまり同じものなのである。我々も念仏者と一緒に庶民の中に入り、人助けの為の活動をしようではないか。」と。
が、しかし、彼のあまりにも急いだ大きな高野山改革に、御山の僧侶たちは大反発、「覚鑁はとんでもないことを言いよる坊主じゃ!」と、覚鑁上人の命を狙い、排除しようとするのでした。つづく
(高野山)
紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その3)

弥千歳麿は、お兄さんにその事(=父ちゃんカッコ悪いー!って事)を話してみました。
お兄さんは言いました。
「そりゃ、父上は肥前の国では強くて権力を持っておられる。・・しかし、都のお役人の方が、父より偉いんだよ」と。
それを聞いて「じゃあ、都の役人が世の中で一番強いんだね?」と言うと、
兄さんは「違うよ。お役人よりもっと偉いのが天皇さまだよ」と言いました。
弥千歳麿は「じゃあ、天皇様が一番偉いんだね」と言うと、兄さんは「それも違う。・・天皇様より偉いのが、うーん⁉お寺の仏様っ、うちの宗派だと[大日如来]様が一番偉いのさ。」と言いました。
すると弥千歳麿は、「兄さんっ、僕は大日如来さまのようになりたい!」と叫んだのでした。 
やがて父が亡くなり、弥千歳麿は、出家することになりました。
『僕は大日如来さまのように、きっとなってみせる!』と、彼は猛勉強し、京都の仁和寺で出家得度したのでした。
彼のお坊さまとしての名前は《覚鑁(かくばん)》でした。
やがて、覚鑁は修行する中で、悟りを開かれた(ある意味、大日如来のようになられた)《弘法大師空海》にあこがれ、20歳で高野山に上がり、さらに熱心に修行に励むのでした。 つづく
紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その2)

・・覚鑁上人。
幼い頃は、弥千歳麿(やちとせまろ)と呼ばれていました。
彼は、九州の[肥前の国]=(今の佐賀県)に生まれました。
父は地方豪族の追捕使(ついぶし)。[今の警察庁長官]で、海賊などをビシバシ捕まえる凄腕であったそうです。
「父上は凄い!かっこいい!」と、弥千歳麿は大変、父を尊敬しておりました。
・・が、しかし、
弥千歳麿は見てしまったのです。
ペコペコ頭を下げて、カッコ悪い父の姿を。
それは、父の上役の貴族役員が、都からやって来て、父をしかりつけている所でした。
その時、父はただただ、ひたすら汗をかいて、あやまっておりました。
この姿を見た弥千歳麿は、ただもう、たいへんショックでした。
そこで・・。 つづく
紙芝居:「懺悔の聖者 覚鑁(かくばん)上人」(その1)
紙芝居:「妙好人 赤尾の道宗」(その10 最終回)
紙芝居:「妙好人 赤尾の道宗」(その9)

道宗さんが生涯慕い続けた[蓮如上人]は、明応八年(1499)、85歳で往生されます。
その二年後、道宗は、蓮如さまとの思い出を胸に、『二十一箇條の心得』を書かれます。
それは道宗にとって、自分自身への信心の問い掛けであったものでした。
長いモノですので、・・少しだけ読んでみましょう。(全文、興味のある方はアマゾンなどで探してみてください。まるで、聖書みたいな文章(道宗と阿弥陀さんとの心の会話)も出てきます。道宗の仏への魂の叫びみたいで凄いっすよ。)
第一条「御生の一大事、命のあらんかぎり、油断あるまじき事。」(意味:命が終わったらどうなるのであろう⁉それを今、しっかりと聴聞しなくてはいけない。油断して聞いていてはいけない!)
第二条「仏法より他に、心に深く入ること候わば、浅ましく存じ候いて、すなわち、ひるがえすべき事。」(意味:仏法より他に、心に誘惑が入るなら、それは浅ましい事だと思って、すぐ反省し、心を入れ替えるべし!) エトセトラ、エトセトラ‥このような事が書いてあります。 つづく(次回、最終回)
紙芝居:「妙好人 赤尾の道宗」(その8)

このような道宗さんでしたので、その噂を聞いた隣村のお坊さんが、『一度ためしてやろう!』とやって来ました。
そして、草抜きをしていた道宗の後ろから、いきなり蹴り飛ばしたのです。(無茶しょるなぁ・・)
前につんのめった道宗でしたが、何食わぬ顔で、又草抜きを始めました。
それを見たお坊さんは、もう一度蹴り倒しました。
しかし前と同じように、草抜きを又始めるのです。
お坊さんは、「お前さん、なぜ蹴られても怒らんのか⁉」と問うと、道宗は振り向いて言いました。
「お念仏の教えを頂くと、自分が蛇やサソリのような心で、人様と接していると思い知らされます。・・お宅様にも、どこかで知らず知らず、御迷惑をお掛けしたのございましょう。・・だから、私はこのような目に遭うのでしょう。・・お恥ずかしい事でこざいます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。・・どうかお許しください。」と手を合わせました。
それを聞いて、このお坊さんは心の底から反省したという事です。 つづく
(行徳寺内の『赤尾の道宗記念館』)
(棟方の書『南無阿弥陀仏』も飾られている)
(日本を代表する版画家『棟方志功』が残した道宗の版画:戦時中、棟方はこちらのお寺に疎開し、道宗を知り熱烈なファンになったという)
紙芝居:「妙好人 赤尾の道宗」(その7)

村人A「おいっ、お前知っとるけ?道宗さんはいつでも『お念仏の教えには、修行はいらん!』と言うとるじゃろう。・・ところが、夜にはこっそり、自分だけ[割木]の上に眠る、ヨガの行者みたいな苦行をしとるらしぞ。・・体のあちこちに傷跡があるのを見た者が居るそうじゃ。・・いっぺん、道宗さんを問い質してみようかのう⁉」
そこで、村人たちは道宗さんの家に向かいました。
そして、尋ねてみると・・、
道宗「あぁっ見られてしもたか⁉・・確かに、わしは割木の上で寝て居る。
・・が、これは修行では無いのじゃ。・・阿弥陀様がわしのような愚か者でもお救いになる。これは何とももったいない事じゃないか!
・・こんなワシが、夜には、ぬくぬくあったかい布団で朝まで眠てしまう。・・ワシは思ったんじゃ。割り木の上で眠ったら、その痛さで目が覚める。そのたびに、阿弥陀様への感謝のお念仏がこぼれて来る。阿弥陀様のご苦労がほんの少しでも分かるような気がする・・と。
ワシは阿弥陀様のお慈悲を忘れんが為に、こうして休ませてもろとるんじゃよ。・・ナンマンダブツ。」と、言われたそうです。つづく
愚かな僕もやってみた。
とても、痛くて長時間出来なかった。
実際に赤尾村で見たのだが、本当の赤尾の割り木は、もっと太くてデカかった。これより、めっちゃ痛いと思います。
超人道宗に敬服、南無阿弥陀仏。





