住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「安楽庵 策伝・伝」(その4 最終回)

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(京都『誓願寺』様)
 策伝さんは、60歳で京都『誓願寺』の55世法主となります。
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 それと同時に、徳川幕府の御代官に頼まれ(御代官の世間知らずの息子の為に書いて欲しいと、友人の策伝さんに頼んだとの説がある)、『オチ』のある法話全集の執筆に入ります。
 その書物の名を『醒睡笑(せいすいしょう)』と言います。 それは『ねむりを、さまして、わろてまう』という意味なのです。(余談ですが、この『策伝・伝』の第二部で、その『醒睡笑』の中身を紙芝居で、少し見て頂くことにしましょう。)
 ・・この書物、ひょっとすると、戦さや不慮の事故で亡くなった人の親族を、『笑いの力』で慰めようと、策伝さんの願いが込められた物でもあったかもしれません。
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 江戸時代、初期。
 策伝さんは89歳で、誓願寺の茶室『安楽庵』で亡くなります。
 大往生でした。
 そして、策伝さんが亡くなってから、時代は江戸中期に移り、江戸・京都・大阪から、三人の[落とし噺(ばなし)]の芸人たちが、彗星の如く現れます。
 それは、まるで策伝さんの弟子のように・・、
 江戸の[鹿野武左衛門(しかの・ぶざえもん)]。
 京都の[露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)]。
 大阪の[米沢彦八(よねざわ・ひこはち)]。
 これらの人たちが、策伝作の『醒睡笑』から、大なり小なり影響を受けて、今日の[落語]となってゆくのです。
 第二部へつづく・・。 
 ひとまず、おしまい

紙芝居:「安楽庵 策伝・伝」(その3)

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 豊臣秀吉公が亡くなってから、又、大きな合戦が起りました。
 働き盛りの男姓たちの多くが、そこで亡くなったのです。
 ・・次のエピソードは、筆者が、昔何かの本で読んだ、策伝記の小ネタを、少しアレンジしたお話です。
 この日、策伝さんは用事の為、戦場跡を歩いておられました。
 その時、一人の武士の遺体の前で、或る親子が大声で泣いていたのです。
 「わーんわーん、お父ちゃん、どうして死んじゃったのー!」、
 「あーっあんた~、私はいったい、この先どうすれば良いのー。この子たちをどう育てれば良いのー!」と。
 それを見て策伝さんは、居てもたっても居られず、手厚く遺体を埋葬しました。
 そして、読経しその親子を慰めました。
 が、親子は泣き止みません。
 そこで策伝さんは・・、
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 「・・お母さん、大丈夫! 仲良い夫婦のあんたらが、ふーふーと言うて、作った子やろ。子供は強いもんや。子供は『風の子』ともいう。ふうふ~、フウフ~~の子なんや。何かあったら、お父さんが極楽から『いつまでも夫婦のわしが守るでー』と、風吹いて守ってくれんでー。ふ~ふー、とな。」と言いました。
 「・・ん、お坊さん?・・それシャレか?へんなしゃれ。くすっ。・・でも、私らを慰めてくれてるんやな。おおきに、おおきに。・・いつまでも泣いてたらあかんなぁ。頑張らな!」と、親子は御礼を言って去って行きました。
 この時、策伝さんは改めて、『笑いが、人の心を楽にすることもあるんや!・・わしも、自分が楽になる為に、笑いのネタを書き溜めてきたんやった。・・これを法話に入れて仏さんの話をしよ!それで、皆も救われる力が大いに上がるはずや!』と、[笑いの力の大きさ]を感じたのでした。
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 それから、策伝さんの法話には、難しい仏の話にも、笑いのオチを必ず入れて、皆に肩の力を抜いて聞いてもらうようになりました。
 特に、夫や家族を亡くした女性、又その子供にも親しみやすく法話をしたのです。
 その笑いのオチの部分は、小僧の時から書き溜めていた[おもろい小話]のメモが、たいへん役に立ちました。
 又、絵を使ってわかり易く法話をする『マンダラ絵説法』という手法も考え出されたということです。(それって紙芝居法話と、ちゃうの?・・)つづく

紙芝居:「安楽庵 策伝・伝」(その2)

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 さらに[策伝(さくでん)]さんは、名人[古田織部]公に茶道を習います。
 こうして、策伝さんの心の修行も深く積んでいかれました。
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 やがて策伝さんは、西日本へ精力的に布教活動に出られます。
 そこで、多くの寺院を建立・復興させていったのでした。
 その後、再び、岐阜へ戻り、(得度をした)浄音寺の住職となります。
 その後、大阪堺のお寺から呼ばれて、そこのお寺で住職をしたり、再び岐阜へ帰ったりして、忙しい日々を過ごされました。(もはやこの頃、策伝さんは有名人!)
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 そしてその後、策伝さんは、天下を統一した[豊臣秀吉]公の相談役(=御伽(おとぎ)衆)の一人となりました。
 策伝さんは、秀吉公の前で、日頃、自分自身が感じた世相を面白おかしく、厭きさせないようにお話したと伝わっています。
 (やはり策伝さんの魅力は、やはり『話芸』のうまさだったのでしょうねぇ・・、今でいうタモリさんとNHkアナウンサーと一流の世相評論家を合体させたような感じだったのかな?)
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(今も残る『策伝さんの肖像画』:ハート形の頭が魅力です。ちなみに僕は、ウルトラセブンに出て来た[バド星人]を、策伝さんのモデルにして描きました。)
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(バド星人by円谷プロ)
つづく
 

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