住職のつぼやき[管理用]

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豊中:法雲寺さまの[報恩講法要]への出講

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(豊中:法雲寺さま)
 11月5・6日。
 二日間に渡って、豊中市の浄土真宗本願寺派『法雲寺』さまの[報恩講法要]へ出講させて頂いた。

 ・・余談だが、僕は昨年の大病以来、近畿圏内で二日間続くお寺の法要では、近隣のビジネスホテルを取って泊まる事にしている。夜になる自宅からの往復運転が、まだ不安なのだ。この日も、豊中市内のビジネスホテルに泊まって、くねくねと夜の街の散策をした。久々に夜のネオン街は楽しかった。

 さて、こちらの住職は、テレビ・新聞などのマスコミに、その多彩な活動で取り上げられている『イベント坊主』こと、辻本純昭さんだ。(先日、関西テレビの[よーい、ドン]の取材でタレントの織田信成氏がレポーターで来られたらしい。)・・面白くて楽しくて、口も頭もよく回る立派な住職だ。
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(境内のスポーツ公園)
 また以前にも述べたが、こちらのお寺の境内には、なんと『スポーツ公園』が設置されている。
 地域振興を旗頭に掲げているこちらの住職は、このバスケットコートなどがある公園を若者や子供たちに無料で提供しているのだ。(すっすっ凄い!)
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 さてさて、《報恩講法要》のことであるが、「両日共、お参りの方で、満堂に近かった! そして紙芝居を使っての親鸞聖人のお話は解りやすかった。」と、ご住職・前住職親子は、とても喜んで下さったようだ。
 僕も、それをお聞きしてホッとしたというのが、正直な気持ちだ。
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 さてさてさて、来年も、報恩講法要のご予約頂いた。
 それまで、来年の《新作紙芝居》を考えときます!合掌

 

富田林:[真宗興正派]西徳寺様の親鸞聖人750回大遠忌法要への出講

 11月1日。
 この日は、富田林市:浄土真宗興正派『西徳寺』さまの[宗祖親鸞聖人750回大遠忌法要]が行われ、記念(紙芝居)法話として、お招き頂いた。
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お天気も心配されたが、小雨も降らず、稚児行列も賑やかに、近隣のお寺さんも御参集され、大法要は大成功だった。
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 僕も張り切って、親鸞聖人の生涯の紙芝居と、その教えの紙芝居をさせて頂き、無事にその大役を(どうにか⁈)果たせた。 
 ご住職、坊守さん、若住職さん、総代さま、そしてご門徒の皆さま、誠におめでとうございました。合掌
 

パレットは、使わない

 僕は、[紙芝居]の絵を描くのに、パレットは使わない主義だ。
 パレットは、絵具の色をいろいろ混ぜ合わせ、色んな色を作り出せる効果もある。・・が、一度パレットに絵具の色をチューブから出すと、迷いが生じるのだ。
 想像していた絵と微妙に違ってしまう。
以前、NHKの記者が「宮本さんの絵の特徴というか、魅力は絵の色(=原色)にあると思う。」と言われたことがある。
 だから、なるべく[原色]をそのままに、直接チューブから、画用紙に色を出す。
 真言宗の曼陀羅絵図を見ていても、原色のチカラが大きいように感じる。
 ・・ひょっとして、昔の曼陀羅を描いていた僧も、僕と同じことをしていたのではないだろうか??
 やはり、原色のパワーは強く大きい。
 時には、マイナスの要素にもなったりするが、やっぱり、僕は原色をそのまま使って、これからも、紙芝居を描いてゆきたい。

ぼちぼちでんなぁ。

「儲かりまっか?」、「ぼちぼちでんなぁ。」という会話のように、
「体の具合どうでっか?」、
「ぼちぼちですわ。」という、檀家さんとの会話に、最近ウンザリして来た今日この頃、お寺への出前も増えてきた。
 今日も、今から大阪市のお寺へ『紙芝居法話』に行って来ます。
 去年、病気で行けなかったお詫びも兼ねて、ぼちぼち・・頑張って来ます!

次回の紙芝居は『かくれ念仏』

 次に創る紙芝居は、『かくれ念仏』(仮称)にしようと思っている。
 今、資料を読んでいる最中だ。
 こんな話・・。
 江戸時代の初期から明治時代初期にかけて、九州の薩摩藩[今の鹿児島県]では、およそ250年もの間、キリスト教と並んで、浄土真宗は[禁制]となっていた。
 これは、藩の封建体制にとって、浄土真宗の[教義]が浸透することによって、農民たちが幕府・藩に対する反抗組織を形成し、農民一揆を起こす可能性を恐れての措置だった。
 その為、領民は春秋の年二回、村役人の所へ行って、本願寺の[門徒=(信者)]ではないことを誓約していたという。
 ・・それはまるで、隠れキリシタンの[踏み絵]を彷彿させるものであったという。
 そして、信仰が万一発覚すると、厳しい拷問があり、その組織を白状させられ、一村が藩吏によって焼き払われたという。
 ・・それでも、念仏信者たちは『かくれ念仏』として、秘密裏に、京都の本願寺とつながりを持ち、約250年以上?の間、この組織は無くなることはなかった。
 あまり、知られていない話だが、僕は信仰というものの持つ[凄み]を感じた。
 これを『紙芝居』にしたい。
 実際、九州にも取材に行きたいので、この紙芝居はゆっくり作ろうと思っている。
 主人公は、本当に実在し、刑死した農民[伝助]にするか、はたまた、ルポルタージュ形式にするか、今思案中である。 乞うご期待!
 

宗教って、何?

 ・・この前の法要の時、息子が久々にお寺に帰って来て、食事をしながら僕に聞いた。

 「お父さん、宗教って、現代人にとって、何の意味があるんやろ?」と。

 難しい事、聞きよんなぁ・・と思いながらも、今、サラリーマンをやって悩んでいる息子の想いが、ビシビシ伝わって来た。
 僕は言った。
 「これは、お父さんが常に思っていることやねんけど。・・宗教とは、心を自由にする手段やと思うねん。
 ・・鳥のはばたきや。鳥が自由に空に飛ぶように、こころが羽ばたくねん。・・そんな手助けやと思う。
 だから、心を狭めるような教義などは、自由になることから真逆やと思うので、お父さんはそれは宗教やと思わない。」と言った。
 すると、「じゃ、お寺の存在意味は何?」と、ぬかしてきよったで、ごじゃりまする。
 僕は「心の解放を、手助けする場所や。だから、お父さんはお寺を使って、歌のコンサートとしたり、お芝居をしたりもするねん。もちろん、紙芝居もそんな気持ちで作って演じている。・・百の説教よりも、一つの歌が心に残ったりすることもあるやろ。どんな説教よりも、一枚の絵が心を癒すこともあると思うねんで。」と言った。
 「・・ただし、それはお父さんが勝ってに思ってることやで。」と、付け加えた。
 
 「ふーん」と言って、この息子との会話は終わったのが、僕は本当にそう思っている。
 さて、息子は何を思ったろう?

天神橋筋商店街を歩く

 雨の日が続くと、健康を取り戻す為に始めたウォーキングが実行できない。
 そこで先日、長いアーケード(南北2.6キロ)で、雨の日でも傘を差さずに歩ける「天神橋筋商店街六丁目から一丁目」までを(地下鉄の『天六』で降りてから『天満橋』まで)歩いて来た。
 よくも、まぁこんな長い商店街を作ったもんだと感心しつつ、水筒片手に、美味しそうな食い倒れのお店をゆっくり眺めて歩いた。(特にお寿司屋さんや、ラーメン屋さんが多かったな・・)
 面白かったのは、『生きたフクロウを眺めながら休める喫茶店』や、天満で見た『水陸両用の観光バス』が出発するところだった。(お客さんは中国の観光客が多かったみたい・・。でも、これ一遍、乗ってみたい。道路と川を行ったり来たりするみたいだ。今度、予約して乗ってみよう。)
 大阪下町の商店街の中で育った僕としては、懐かしく楽しいウォーキングだった。
 

紙芝居一覧表

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 [紙芝居一覧表]を、新たに書き出し整理してみた。
 平成八年の六月から作り始めた紙芝居。
 今年で19年になる。
 一番初めに作った(文学もの)『くもの糸』から、一番新しい142作目の(僧侶もの)『安居院 聖覚さま』まで、書き出してみると、「よくもまぁ、こんなに作ったもんだ。」と我ながら呆れた。

 さて、後、何作品作れるだろうか?
 

人の仕事の価値について

 僕は『人の(仕事の)価値』について、勝手な基準を持っている。
 僕の『人の価値基準』は、「自分の仕事が好きでたまらん!」と言う人が、人として『最高得点を持っている!』と思っているのだ。
 自分の仕事を好きでやっている人は、見ていれば解る。
 そういう人が(他人がどう評価をしようが、)僕は好きなのだ。
 自分の仕事に、情熱を持ってやっている人は、仕事内容に工夫がある。情熱がある。そして、自分が一番喜んで楽しんでやっている。
 そういう人とお話していると、こっちも嬉しくなり、生きる力が沸いてくる。
 ・・どんな内容の仕事でも良いのだ。
 僕は、そんな誇りを持っている人たちと、お付き合いしてより好く生きていきたいのだ。
 

宗教の違い、『アッシジのフランチェスコ』の話をもう少し・・

 もちろん、僕は仏教の僧侶なのだが・・。
 『アッシジのフランチェスコ』を調べれば調べるほど、[宗教]というものは(大局からを見れば、語っていることは)、仏教もキリスト教も「よく似ているな」と思った。
 フランチェスコは、キリスト教圏に生まれたから、キリスト教になったのだろうが、仏教圏に生まれれば、仏教徒になっていたかもしれない。

 話は変わるが、おそらく(僕のそんな性格を)知っていてだろうが、大阪の[キリスト教病院]のホスピス病棟から[紙芝居法話]を依頼されたことがある。
 その時、連絡を下さった担当の看護師さんに「キリスト教の病院に仏教の坊主が、法話に行っても良いのですか?」と聞いたことがある。
 その時は「はい、結構です。キリスト教の病院ですが、入院をされている方は[仏教]の方ばかりなので・・。好きにしゃべって下さい。信頼してますので。」と答えられた。(信頼してますと云われたので、アホなことは言えんかったが[笑い])
 そんなものだろう・・と思う。
 キリスト教と仏教、確かに違うが、目くじらを立てて睨むのはたいてい宗教者だけで、「心の安らぎ」を求めておられる方は、何宗でも何教でも良いのだ。
 確かに、そこに付け込む[悪い宗教団体]や[霊感商法]のやからはあるが、そこは、お互い信頼関係が一番大切なのだろう・・と思う。
 そういう・・ものだろう。

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