住職のつぼやき[管理用]

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今年の「出前」先・・パンフレットから振り返る

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今日は、今年「出前」した《施設・病院》等の『パンフレット』を少し読んでみたい。
 はじめに《老人施設》などに「出前」に行くと、たいてい担当の職員が出て来られて、そこの施設の『パンフレット』を差し出され、《施設の理念》などをお話して下さる。
 (そのお話によって『宗教色をどこまで出してしゃべるか』を決めるのだが、「好きなようにしゃべって下さい」と言われたら、ホンマに好きなことを、べらべらべらべらとしゃべるので、私は或る意味、危険な男なのです。〔笑〕・・以上、余談)
 さて、今年頂いた『パンフレット』からの抜粋。 
 たいていどの施設も同じような事が書かれてある・・が、特色もある。
 たとえば、『・・そもそも、老人の《老》と云う字は「ねれる」という大変尊敬される意味を持っています。又、親孝行の「孝」という字は、子供が老人をいたわり背負う姿です。(なるほど!)当施設では、この「尊敬」と「いたわり」の精神をモットーにお世話したいと思っております。』と書かれたパンフレットがあって、「ここは文字の意味から理念を掲げるのか」と思い、結構こう云う《落とし文句》は僕は好きである。
 又、こういうのもある。
『介護技術はもちろん大切。しかし、利用者の思いやニーズを汲み取る心と、やさしい笑顔を忘れてはなりません。ここ○○は、愛情こそが福祉サービスの原点だと確信しています。』というのもあって、ここは『愛情』がコンセプトなのだとわかる。
 最後にもう一つ。『ここ○○はこだわりました。話すことや笑うこと、ふれあうことを忘れないでいただきたいと。・・ご老人の持てる力を引き出し、その人らしい生活を支えます。』と、ここも凄く立派なうたい文句が並ぶ。
 やはり施設の宣伝『パンフレット』だけあって、一読しただけで『ここに決めよう!』と思ってしまうだけの殺し文句が並べてある。
 後は、本当にそこがその通りの『施設』なのかが問題なのだが・・、それは又別の話。その〔見聞記〕はいつかコッソリお話しましょう。〔笑〕

今だから言える話・・・

 先々週の話・・。
 うちの村の一人の高齢男性が、三日三晩行方不明になっていた。
 ご本人は「タバコを買いに行く」と言って車に乗って出たまま、夜になっても帰宅されず、ご家族の方が心配になり、役場・警察に連絡を入れ、村全体に行方不明者の放送も流れ、大々的な捜索となったのである。
 二日目には、車だけが山奥の駐車場で発見された。・・が、本人はおらず、事故や事件の可能性もあるかと、ヘリコプターまで出て捜索となった。
 この方、うちの檀家さんでもあるので僕も大変心配し、三日目には覚悟もした。
 四日目になり、奈良県側で一人で(裸足で)山を降りて来られたのが発見され、無事にこの騒動は終った。
 (この時本人はいたって元気であり、病院に行かれてもすぐに帰って来られた)
・・が、多くの疑問が残った。いったい何を食べ、どこでどのように過ごして居たのか?本人に聴いてもよくわからないのだ。(話のつじつまが合わないのである。)
 ご高齢の為、少し忘れっぽくなっておられるは知っていたが、このような事がおこると、これから先の事が心配である。(居場所の判る携帯電話を買ってはいても、本人が所持してなけれれば意味が無い)
 ・・でも、僕としては、今ホッとして本当に見つかって良かったと思っている。
 今だから言えるお話でした。

紙芝居:『夫婦善哉』を作ったもう一つの理由

 2002年9月、2003年4月、<法善寺>横丁は、二度の火災にあった。
 ちなみに《法善寺》は浄土宗のお寺で、ご縁があって〔御住職〕さんと二度ほどお会いした。
 それで、一度目の火災の後、復興ボランティアとして、僕も(宗派は違うが)横丁の人達へのカレーライスの炊き出しに行かせてもらった。
 〔法善寺〕横丁は大阪の顔である。
 それで、もっと何かお手伝いが出来ないと考え、作ったのがこの「紙芝居」である。
 実は〔横丁〕の人達に、元気を出してもらおうと、2003年の春に浄土宗の青年会が〔イベント〕を企画して、・・そしてその余興の一つとして、僕にも声が掛かり、この紙芝居の製作を決めたのである。
 ・・が、もう一度の火災が起こり、〔イベント〕は中止となり、この「紙芝居」はお蔵入りとなった訳である。
 あれから5年が経ち、〔法善寺〕横丁も見事に復興した。
 この「紙芝居」が、このお話の舞台〔法善寺〕の水掛不動さんの前で、今度は、楽しいイベントとして披露できることを今、夢見ている。
 

〔死後の旅〕と《七つの裁判》

「・・住職さん、うちの死んだお婆ちゃん、今頃どの辺まで往ってるんでっしゃろな~」とお葬式の後、七日毎のお参りの時によく聞かれる。
 僕の宗派の考え方では、阿弥陀仏のお力によって、死後すぐに〔極楽浄土〕に生まれる事が出来ると考えるが、・・今日はひとつ一般的な仏教の考え方で話を勧めたい。
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 ・・となると、仏教哲学の大御所〔ひろさちや〕先生の著書『仏教百科』を頼るしかないので、その本からそのままパクらせて頂く。
 それでは〔死後の旅〕のはじまり、はじまり~。(あんまり楽しそうじゃないなぁー〔笑〕)

 人は亡くなると〔四十九日間〕の旅を経て、その後〔六道輪廻〕の世界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)に生まれると仏教では考える。
 それでは、その〔四十九日間〕、いったいどのような旅路が待っているのか?
 では参りましょう・・。
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 人はまず、死後〔七日間〕を掛けて《死出(シデ)の山》を歩く。その山は岩がゴツゴツしていて、人は《星明り》を頼りに歩き続けなければならない。
 そして〔七日〕後、《秦広(シンコウ)王》という裁判官のいる『裁判所』に着き、〔五戒(殺生・盗み・邪淫・嘘・飲酒)〕についての書類審査を受ける。
 その後・・、
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 いわゆる一つの《三途の川》を渡る。
 なぜ《三途》か?・・それは善人は〔橋〕。罪の軽い者は〔浅瀬〕。重い者は〔激流〕の三つの道があるからである。(なるほど!)
 そして、川を渡ると、
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 《奪衣婆(ダツエバ)》と《懸衣翁(ケンエオウ)》というボディービル級のマッチョな婆さん、爺さんに会わなければならない。
 二人の後ろには《衣領樹(エリョウジュ)》という一本の木があり、マッチョな(・・もうエエか〔笑〕)《奪衣婆》が死者の服を剥ぎ取り、《懸衣翁》がその木に服を懸ける。生前の罪が軽ければ、少し揺れ、重ければ、大きく揺れる。この事を〔証拠物件〕にし、次の法廷へ向かう。

〔十四日目〕、《初江(ショコウ)王》の裁判所に着き、〔殺生(みだりに生き物を殺していないか)〕について裁かれる。
〔二十一日目〕、《宋帝(ソウテイ)王》の裁判所に着き、〔邪淫〕について裁かれる。
〔二十八日目〕、《五官(ゴカン)王》の裁判所に着き、〔生前の言動〕について裁かれる。
〔三十五日目〕、(やっと出ました!)《閻魔王》の裁判所で〔嘘〕をついた事を裁かれる。
〔四十二日目〕、閻魔王の報告に基づき《変成(ヘンジョウ)王》の裁判所で〔大裁判〕が行われる。
 そして〔四十九日〕、《泰山(タイザン)王》の最高裁判所で〔判決〕が下される!

 その『判決方法』とは、《泰山王》が六つの《鳥居》を指差し、死者は自ずから、自分が往く《鳥居》を選ぶのである。この《鳥居》の向こう側が〔六道の世界〕となる。
 この時、死者は、自分の往く世界の選択権が、自由にありそうに思われるが、これだけの〔裁判〕に次ぐ〔裁判〕を経て来たからには、自分の《業》に自ずから気づき反省し、正直に自分に合った世界に進んでしまうという事である。

 ・・以上が〔死後の旅〕の全日程コースでございました!楽しんでいただけましたでしょうか??お疲れ様!! 
 
 
 

『ブログ』な・・一年

 この『ブログ』を書き始めて、ちょうど一年が経った。
 これまでは『紙芝居』を作るのに時間を費やしていたが、このホームページが出来てからは、その『紙芝居』を『ブログ』に載せて発表するのに時間を費やした。(といってもまだ半分の作品も発表してないが・・)

 以前にも書いたかもしれないが、最初は『紙芝居』をホームページ上で載せるつもりはなかった。

 たが、或る檀家さんに「一部の方(老人ホームのお年寄り達や病院の入院患者さん)だけに見てもらうだけではもったいない。一般の方もこのような話を求めている人がきっといるはず・・」と熱心に発表を勧められ、載せる決意をしたのだが、今ではその方法を選んで本当に良かったと思っている。
 確かに、「たかが『紙芝居』、されど『紙芝居』なのだ!」と思うことが最近多い。
 というのは、「話の内容をイメージしやすい」というのがトップに来て、二番目は「その物語の〔趣旨〕をつかみ易い」という感想を多くの方から頂戴するからである。

 先日も、或る知的障害を持たれた子供さんのお母さんからお礼のお手紙を頂いた。
 そこには、「子供が『くもの糸』の紙芝居を見て、それをお母さんがさらに詳しく説明し、それから小さな生き物を大事にするようになった」という内容が書かれてあった。
 このような手紙を知らない方から頂くのは本当に嬉しい。

 願わくば、この『HP紙芝居』が、さらにこんなお話を求めている人達に届くことができますように!
 これからもボチボチ書き続けてゆきます。合掌
 
 
 

『情報』って大事なの?

 秋も深まり、近くの住職さんや友達と一杯飲む機会も増えてきた。
 当然、酔いが回ってくると皆、饒舌になる。
 「中年よ、良く飲んでよく喋れ!」とばかり、ストレス発散もあるが、身近な人の話題(失敗談や滑稽談が多い)で盛り上がる。
 ・・・が、たいていどうでも良い、話題ばかりである。
 それがお互いの『情報交換』の場になってるとはいえ、「聞かなければ良かった」と思う話題もある。
 酔っていても、後日それは覚えているものだ。
 よく友達が「情報は大事ですよ!兎に角、色んな情報を聞いて知っておきましょう」というが、僕はそれに疑問符をつける。

 ・・たとえば、先日或る葬儀屋さんが、霊柩車からご遺体を引き出す時、しくじって地面に落としてしまい、ご遺族が怒り大騒動であった、とその顛末を知り合いから聞いたのだが、聞いた時、「それは大変やったろうなぁ」と思い正直びっくりしたが、次の日になってそれを思い出した時、ものすごく後味が悪く『聞かなければ良かった』と思った。

 確かに今は『情報』が商売となり、生活の如何にもかかってくるが、なんでもかんでも取り入れるというのは、僕は反対だ!
 願わくば、聞いた人間が〔元気になる〕ような、そんな『情報〔話題〕』ばかりを聴いていたい・・・。

お別れのキッス

 先日の《お葬式》での話。
 棺が式場から出棺する時、旦那さんのご遺体に奥さんが《キス》をされた。それを見て娘さんも同じようにそのお顔に《キス》をされた。そして流石におばあちゃんは《キス》をされなかったが、ご自分の両手でお顔を挟んでおでこを合わされて「良いトコ往きや」とお別れを言われた。
 (確かこれによく似た場面が、この前見た『おくりびと』という映画にもあったなぁ・・)
 僕はこの光景を横で見ていて、悲しいけれど人間の優しさ溢れる素晴らしい場面だなぁと思った。

 今日あるお家で、「住職さん、・・それでは《お葬式》をされて『良かったなぁ』と思われるのはどんな光景ですか?」と問われた。
 僕はつい《お葬式》の現場の、(金銭に絡む)嫌な人間模様の話を檀家さん宅でしてしまう癖があるようだ、・・が、こんな話をしても誰も嬉しくないのだ・・と今日気がついた。(反省!!)
 これからこの《別れのキッス》の話専門でいこう!

知らされなかった《トピックス》

 先月、鎌倉の《光明寺》にて開催された〔仏教看護・ビハーラ学会〕へ「紙芝居講演」に行って来たと、このブログでも書いたが、その時の内容が、今月の月刊『SOGI』という本の《トピックス》欄に掲載されていると、九州の知り合いの方から連絡が入った。僕は全然その事を知らなかったので、本日その方からコピーを送って頂いた。
 内容が結構面白いので、全文このブログでも紹介したいと思う。
 (以下、本文のコピー。ちなみに僕の事が書かれてあるのは3枚目である。・・・「宮本氏のコミカルな語り口・・」という文句は少し気になるが、まぁ、そう思われたのだから良しとしよう・・か〔笑い〕。良かったら読んでください!)
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映画『おくりびと』を見て・・・

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 先日、映画『おくりびと』を見てきた。
 この映画は、ご遺体を棺に納める『納棺師(ノウカンシ)』を描いた日本の作品である。
 実はこの作品、以前僕は《葬儀・仏事情報紙》で内容を知って、封切られたら絶対見に行こうと決めていた。
 ・・が、きっとヒットしないマイナー作品だろうと思っていたので、はたして、僕の知っている近くの映画館で上映されるかどうか不安であった。・・が、なんと《モントリオール世界映画祭》で〔グランプリ〕を受賞したので、そんな不安も吹き飛び話題となって、近くの映画館でもやってくれた。
 さて、映画を見た感想であるが、一言で言えば「感動した!」。今年見た映画の中で一番素晴らしかった。
 ストーリーは、新人納棺師〔本木雅弘氏〕が、さまざまな「おくり」を通して、愛することや生きることを紡ぎ出し、時にはユーモラスに、時には感動的に『納棺師』の日常を描いている。
 映画の中で、ひとり又ひとりと人が亡くなって、その『納棺』の儀が終るたびに、主人公たちが、目一杯、食物を口にほおばり、自分が生きてる事を再確認するような場面が出てくる。
 これを見て、僕も「そうや、そうや、僕もお葬式が終る度に無償に食欲が湧き、食べることによって(自分は今、生きてる!)という事を再確認することがあるんや」とすごく共感した。
 
 僕はこの映画、きっとお寺の友人も関心を持つだろうと思って聞いてみたら、皆、案外関心がなかった。
 たとえば、「そんな〔ご遺体〕を扱う仕事の話なんて、生々しくて見たくないわ」とか、「この大阪で、『納棺』専門の仕事師なんておらんで。みんな『葬儀屋』さんがやってくれてるもんなー。どっか地方の話やろうから、興味ないわ」とか言われた。(そんなもんなんやなぁー・・)
 
 僕は、人が亡くなったら〔枕経〕に呼ばれて、ご遺体の横でお経をあげる。
 僕がその場に到着した時、すでにそのご遺体は、〔エンゼルメイク〕も済み、お顔の鼻や口には脱脂綿が詰められ、白い着物を羽織、手は合掌され念珠をかけられている。
 つまり、旅立ちの仕度はすでに整っているのだ。
 だから、読経するだけで良いので、楽と言えば楽なのである。
 が、たまに、葬儀屋さんよりも早く、僕がそのお宅に到着する事があり、その時、ご遺体の横で後から来られた葬儀屋さんの仕事を見ることになる。それは大変な重労働である。なぜならご遺体は、死後すぐに硬直し始めるからである。
 それで『ゴキッ、バキッ』とか音が鳴り、骨を折って合掌ポーズを無理やり取ったりされる。見ていて痛々しくもあり、でもこれをしなければ始められないので、割り切ってじっと見ている。
 僕はそれを見て、いつも『僧侶』はずるいと思う。
 それは自ら重労働で手を汚すことなく、又、たまにであるがテンションの上がった遺族さんの罵声も浴びせられず、〔キレイ〕な仕事だけしかしなくて良いからだ。
 だからこそ、僕はこの〔僧侶〕という仕事を(自分にできる範囲で)精一杯する事に決めている。

 ・・なんとも、長くまとまりのない文章になってしまったが、今回この映画を見て、改めて、自分の仕事への情熱を再確認した次第である。
 
 

《死に顔》って、恐ろしい・・?

 亡くなられた人の顔を見るって、皆さんは恐ろしいですか?
 先日、ある(ご高齢の)おじいさんが亡くなられて、《枕経》に行って来た時のこと・・。
 〔読経〕が始まる前に、おじいさんが寝かされている布団の横に、皆が集まって《死に顔》を見に、そして手を合わせに来られました。
 そこに(五才の)女の曾孫さんも来ました。
 その女の子は、しばらくその《お顔》を見ていたのですが、「もう、いい・・。あっちに行く。怖い・・」に言って、立ち上がりました。
 それを見て親戚のおばさんらしき人が、「おじいちゃんの顔をちゃんと見とこうね」と言ったのですが、「いや、怖い」と言いました。
 僕はその時「おじいちゃんは、仏様になったんやで、怖くないで」と言ったのですが、女の子はその部屋から、出て行ってしまいました。
 僕は自分でこのような事を言っておきながら、少し疑問符が頭に残りました。

 そこのお宅から帰って来た後、僕はその女の子の言った「怖い」という意味を、ずっと考え続けました。
 そして、女の子の『怖い』と言ったことは、非常に正直な意見だと思いました。
 この子は、今まで一緒に生活していた人が、まったく動かなくなってしまった事実を『怖い(恐怖)』と感じたのでしょう。
 僕は大人ですので、死者を見ても怖いとは感じませんが、自分の父の《死に顔》を思い出す時、『自分もいずれこのようになるのだ』という、なんともいえぬ恐怖があった事を思い出し、やはり死者は違う意味で『怖い』です。
 
 《死に顔》を見るという事は、『もうこの人は亡くなったのだ!』と自分を納得させ、かつ、『人は常に《死》と隣合わせに生きてるのだ!・・だから《生》を大事にするのだ!』と認識する大事な儀式だと思うのですが、やはりできるなら・・・見たくないと思う(心)があるのが本音です。僕は・・。

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