・・人を怨んで生きるより、怨むその人を許して生きぬく方が、よっぽど難しい事だと思う。
〔法然(ほうねん)〕という人は、それを実践された。
・・たいした人だ。
でも、法然さまのその心中はいかなるものであったか?
法然さまは、武士の子である。斬ったはったの世界の人間である。・・自分の父を殺した相手を許して生きねばならないという《十字架》を背負った時、人間=法然は、常に自分の心と闘わなければならなかったであろう。
・・出家したとはいえ、さぞや毎晩、慟哭され苦しまれたであろう。
だからこそ真剣に自分が、《心、安らかに生きれる方法》を探し、それがいつしか《皆が救われる普遍的な方法》探しの旅になったのかもしれない。・・以上、余談。
人間の寿命が50年にも満たなかった時代、時すでに法然上人は43才になっておられた。・・そして、いよいよの〔法然上人〕が救われる方法を見つける、その時がやって参りました。・・続きをどうぞ。
比叡山に戻られた〔法然〕上人は、又、一心にお経を読み始められました。
そして、ついに自分が(誰もが)救われる方法を見つけられたのです。
それは、中国の善導(ぜんどう)大師という方が書かれた『観経の疏(しょ)』という書物に書かれてありました。
そこに、『一心にナムアミダブツと仏様の名を称え、どんな時も《念仏》し続ければ必ず救われる。それは仏様の《本願=本当の願い。唯一の願い》なのだからである』と書かれてあったのです。
「そうだ、そうだ、そうだ! なんと単純なこと!自分の力で、何とか救われようと考えるのではなく、最初から、(念仏を称えれば救ってやろうという)仏さまに、すべてをお任せし、念仏すればよかったのだ!・・どうして今まで気づかなかったのか!・・私が救われる方法はこれしかない!・・いや、この方法こそ、皆が救われる道なのだ! 心乱れれば乱れるままに念仏する。それでも仏様は救って下さる!・・そう、なぜならそれが、仏様の〔唯一の願い=本願〕なのだから。・・これは誰にでも出来る〔救済の方法〕だ!」
そう、大声で叫んだ〔法然〕上人でありました。 つづく
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紙芝居:「法然上人物語・念仏への道」 その3
紙芝居:「法然上人物語・念仏への道」 その2
父親を闇討ちで亡くされた《法然上人》こと〔勢至丸〕さまに、さらなる不幸は続きます・・。
それは御家『漆間(うるま)家』の没落でした。
そこで母君は、勢至丸さまを母の弟の〔お寺〕に預けることにしました。
母の弟は、〔観覚〕という立派なお坊さまで、勢至丸さまはそこで仏教の初歩を学びました。
そののち、〔勢至丸さま〕十五歳の年、京都の比叡山:延暦寺にのぼり、そこで正式に出家し、《法然房:源空(げんくう)》と名を変え、そこで厳しい修行生活に入られたのでした。
比叡山で、法然さまは脇目もふらず、すべての《お経》を読破して行かれました。
それも、すべてのお経を五回も読まれたのです。(ひょっとすると、それは〔父を殺された怨みを忘れる方法〕を、探す為だったのかもしれませんねぇ。トラウマがあったんと違うかなぁ・・余談)
こうして、いつしか法然さまは《智慧第一の法然房》と呼ばれるようになっておりました。
しかし当の法然さまは、「いくら星の数ほどお経を読んでも、いっこうに救われた気がしない!」と嘆かれ、
やがて二十五歳の時、一度お山を降り、旅に出られました。
京都や奈良の有名な寺院を尋ね、多くの人々に会い、教えを乞いました。
しかしそれでもダメで、「もう一度、比叡のお山で、一から勉強し直そう!」と決心され、又〔比叡山〕に登られたのでした。
この時、すでに〔法然上人〕四十三歳になっておられました。 つづく
紙芝居:「法然上人物語・念仏への道」 その1
プロローグからの続き~
法然上人こと〔勢至丸〕さま、九つの春・・。
隣の荘園の領主が、突然、父〔時国〕様の屋敷に、夜討ちを仕掛けて来たのです。
原因は、田んぼに引く「水争い」ではなかったかと云われていますが、はっきりとした事はわかりません。
ただ、この夜討ちの結果、母と勢至丸さまは無事だったのですが、父〔時国〕様は、重傷を負ってしまいました。
そして〔時国〕様は、遂に自分の死期を覚り、枕元に息子〔勢至丸〕さまを呼び寄せ、遺言を伝えました。
「勢至丸よ、よいか、わしが死んでも、決してわしの仇を討とうと思うな。・・そして、怨んでもならんぞ。」
「何ゆえですか?父上!」
「よいか、そちが怨みを晴らしたとて、相手の遺児が今度はお前の命を狙おう。・・そして、醜い争いの連鎖がいつまでも続くであろう。・・お前には怨みを抱いて生きるより、怨みの無い安らぎの心で生きぬいてもらいたいんじゃ。・・それが、わしの遺言じゃ。わかったか、勢至丸・・。」
「・・はい。」と、勢至丸さまは涙を堪えて答えました。
こうして、父〔時国〕様はお亡くなりになりました。(『忠臣蔵』より、エエ話やなぁ~)つづく
紙芝居:「法然上人物語・念仏への道」 プロローグ
今日、1月25日は、浄土宗開祖「法然(ほうねん)」上人のご命日にあたる。(新暦・旧暦の違いはあれど・・)
本編とは何ら関係は無いが、僕は京都の『仏教大学』を卒業した。
ちなみに『仏大』は、浄土宗の宗門校である。(総本山は〔知恩院〕だ。・・余談ながら、成人式も知恩院でやった)
もう一つちなみに、現在の僕の宗派は《浄土真宗》である。(法然上人のお弟子〔親鸞さま〕が開祖の宗派である。)
だから、浄土真宗(西)の僧侶の資格を取るときは、別の学校に行き直さねばならなくて、ちょっとだけ手間取った。
以上、余談。・・なんで、こんな事を書いたかというと、今でも僕は、親鸞聖人の師、今から紙芝居を通して述べさせてもらう〔法然上人〕には(宗門校卒もあって)特別な思い入れがあるのだ。・・又、法然さまのお人柄も大好きなのだ。
もちろん、親鸞聖人も知的でまっすぐで、好きではあるが、法然上人には、何ともいえん、優しさと大らかさがあって大好きなのだ。
まぁそんな、ど偉い方を『紙芝居』にしてしまうのは、最初から無理があり罰当たりな事なのだが、今年は『法然上人800回大遠忌』という、記念の年という事もあり、勘弁して見て頂きたいと思う。・・それでは、はじまり、はじまり~
平安時代末期(1133年)、吉備の国(現:岡山県じゃけん)、美作(みまさか)という所で、〔法然上人〕はお生まれになりました。
法然上人の幼名は「勢至丸(せいしまる)」といい、父は「漆間時国(うるま ときくに)」という、荘園を預かる豪族(地方役人:武士)でした。
もともと、時国夫婦は信心が篤く、近くの神社やお寺によくお参りされ、そして〔法然〕さまを授かったと伝わっています。
法然様こと〔勢至丸〕さまは、ご両親の愛情を一杯受け、すくすく育ってゆかれました。
しかし、そんな和やかなご家庭に突然、嵐のような大事件が起こったのでした。 つづく
紙芝居:「心やさしき聖者 念仏聖(ひじり)空也上人」 (後編)
エピソードで綴るこの〔空也上人〕の紙芝居も、いよいよ今回で終りです。
・・最後にもう一つ、空也さまの(ちょっと艶っぽい??)不思議なお話を。
空也さまが、托鉢に回っておられた時、『神泉苑(しんせんえん)』という所の前に、一人の病み衰えた《老婆》が座って居るのを見つけられました。
そこで空也さまは、その日から、朝・夕に、この老婆を見舞われ、《精》の付く食べ物や薬などを与えて、病を回復させました。
元気になったこの《老婆》は、ある日、空也さまにもう一つ、恥ずかしそうに願い事をしたのでした。
「お上人さま、私の最後のお願いでございます。・・どうか、この醜き年寄りの私ではありますが、・・その~、私を一人の女として愛して下さいませんか?抱いてくださいませ~。」と頼んだのでした。
少し驚いた空也さまでしたが、しばらく考えた末、
「わかりました。あなたの最後の願い、私が叶えましょう。・・さぁ、近くのラブ・ホテルへ参りましょう」と、言ったかどうかは知りませんが、空也さまが老女の手を取ろうとしたその時、
この老女は『パッ』と、飛び上がったかと思うと、空高く舞い上がり、一匹の《狐》の姿に変わりました。
そして狐は、「実は、我はこの『神泉苑』に棲む老狐なのじゃ。もう何百年も棲んでおるが、そなたのような慈悲深い〔上人〕には初めて出合った!上人、そなたこそ真の《上人》じゃ!」と言って、消えてしまいました。
このお話は、空也さまの(熟女好き、いや)《情》の篤さを物語る挿話の一つであります。
慈悲深き、真の聖者《空也上人》は、七十歳の時、京都は『西光寺(現・六波羅蜜寺)』で亡くなられます。
そんな《空也さま》のファンの一人で、熱心な念仏信者であった〔慶滋保胤(よししげのやすたね)〕という方は、空也上人こそ、極楽浄土からこの世に来られた《阿弥陀仏》の使者だと考えられ、上人の『伝記』を書かれました。
そこには、「空也上人は、この世での御教えの〔縁〕が尽きた時、極楽へと帰ってゆかれた。・・上人が京都に来られる以前は、《お念仏》を称える者はまれであった。・・が、上人が来られてから、皆、《お念仏》を称えるようになった。これは上人の『衆生教化(しゅじょうきょうけ)』のお力によるものだ。」と、書かれ讃えられております。合掌
おしまい
紙芝居:「心やさしき聖者 念仏聖(ひじり)空也上人」 (中編)

空也上人のお人柄をあらわすエピソードに次のような話があります。
或る日の事。
ある御用で、帰りが遅くなり、寂しい道を一人歩いておられた空也上人を突然、数人の盗賊が囲みました。
「私を出家と知っての事か?」と、空也様が問うと、
盗賊達は、「当たり前よ!」と、刀や薙刀を突き付け言い返しました。
すると、空也様は突然、大きな声で「ワァーワァー」と泣き出したのでした。
これには盗賊達も呆れ顔で、「こいつは恐れ入ったね~。お前は僧侶だろう?物惜しみしてみっともないぜ!」と言うと、空也様は、
「それは違う。お前達はたまたま《善き縁》が整い、〔人間〕の姿に生れて来た。だから、《善き徳》を積もうと思うのが当たり前なのに、今、お前達は《悪》を犯そうとしている。それによって、来世はその罪の《果報》を受けねばならない。・・それを思うと、拙僧は、お前たちが可哀想で可哀想で泣けて泣けて・・・。」と言われました。
それを聞くや盗賊達は、この僧はあの有名な〔空也上人〕だと覚り、算を乱して逃げ去りました。
そして次の日、この盗賊達は頭を丸めて、空也様に弟子入りしたそうです。
もう一つ、盗賊たちが出て来るエピソードを・・。
或る日、鍛冶職人が、空也様の前を通りかかりました。
鍛冶職人は、大金を持って隣村の実家に帰る途中だったのです。
職人はふと思いついて、空也様にこう申されました。
「お上人様、もはや日が暮れましたが、帰り道はまだまだ遠いというありさま・・。大金を所持しておりますので、どうも不安でなりません。いかなる心持で旅すればよろしいでしょうか?」と。
すると空也さまは、「心に《阿弥陀仏》を念じなされ。ナムアミダブツと・・」と、おっしゃられました。
果たしてこの職人、途中で大勢の盗賊たちに、囲まれてしまいました。
そこで、空也さまに言われた通りに、心に阿弥陀仏を念じ「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ・・」と、大きな声で称えました。
すると盗賊たちは、「おおっ、こいつはいけねぇぜ!・・この方はあの有名な〔空也さま〕だ!・・この御方に難儀をかけちゃいけねえぜ。」と、退散したのでした。
こうしてこの職人は、無事、難を逃れることが出来たということです。 つづく
紙芝居:「心やさしき聖者 念仏聖(ひじり)空也上人」 (前編)
(プロローグからの続き)
平安時代の中頃、『空也』上人は生れました。
上人は、生涯、父母について何も語られてません。
一説によると、とても高貴なお生まれだと云われているのですが、それもはっきりとした事は解りません。
空也上人は若い頃、各地を巡り修行し、捨てられた遺体を見つけると、念仏を称え火葬してそうです。
二十一才の時、上人は尾張・国分寺にて正式に『出家得度』され、僧侶となられます。
その後、日本各地を回り、山に籠って、厳しい修行をされたそうです。
そして三十六才の時、何を思われたか、突然静かな山を降り、人でごった返す騒がしい〔京〕の都に、そのお姿を現されました。
「人々の暮らしの中にこそ、《仏さま》の教えが必要なのだ!」と、思われたのかもしれません。
そして、町中で《鉦(しょう)》を打ち鳴らし、『南無阿弥陀仏』と称えながら、身振り面白く踊りながら、人々に念仏を勧め、布教されました。(当時としては画期的なことやったやろな~。今のチンドン屋さんの走りやんか!)
空也さまは、「念仏は〔死者の供養〕だけではなく、称える人の〔極楽往生〕につながるのだ!」と説いたのです。
又、〔布施〕=(お金や食べ物)を得ると、貧しい人や病人に与え、自分は粗末な場所で寝泊りし、人々の生活を応援しました。
又、上人は、罪を犯した人の心を救う為にも力を注ぎました。
この当時、〔見せしめ〕の為に、町中に『牢獄』がありました。
いつ罰を受けるかと、不安におののく囚人達に、
空也さまは、牢屋の門前に、〔鈴〕の付いた仏様の《石塔》を建てられたのです。
風が吹くたびに、その鈴が『リンッ』と鳴り、地獄に堕ちる恐怖に怯える囚人たちを癒したのでした。
罪人たちは、涙を流し『念仏』を称え、その音に聞き入ったと伝わっています。 つづく
紙芝居:「心やさしき聖者 念仏聖(ひじり)空也上人」 (プロローグ)

一昔、日本史の教科書には必ずといっていいほど、この『空也(くうや・こうや)』上人の像が載っていた。(今はどうか知らないが?)
(小島よしおがニャッと笑ったような)恍惚の表情を浮かべ、口から小さな仏像を吐き出しているこのお坊さん・・。『いったい、この人はどんな人だったのだろうか?』と思いながら、学生時代、僕はよくこの人の顔に〔落書き〕していた。(今から考えると何と罰あたりな!・・まぁ、もう時効やろ。〔笑い〕・・いや待てよ、罰当たりな事に〔時効〕ってあるのかな?)
いかんいかん、又、横道にそれてゆく。・・元に戻して、前に進まねば!「前、前、前へ・・」(小島よしおの新しいギャグです)
この『空也』上人、とっても優しく偉いお方なのです。(今さら言わんでも解ってるか!?失敬)
一説によると、『ナムアミダブツ』というお念仏を、初めて一般民衆に説かれたのも、この御方なんだそうです。
この『空也』上人、大きなお寺にも住まず、お金も持たず、ただただ困っている人を助けて、一生を過されました。
水の無い所では井戸を掘ったり、川に橋を架けたりもし、土木作業もしました。そして、道端に捨てられた遺体を、自ら埋葬し弔ったりもしました。(ボランティアの走りですね)
又、この御方が口からお念仏を称えれば、仏さまの姿に変わったそうです。・・そう、そのお姿こそがこの像なのです。
(ああ、頭にちょんまげや、リーゼントなどを書き、口から『ヤッホー』とか『アッホー』とか書いて〔落書き〕していた僕がつくづく恥ずかしい・・)つづく
紙芝居:「極楽のはなし」 その6(最終回)
突然、二人の目の前に来られた〔アミダ如来〕様は、こうおっしゃられた。
「おかん、宗兵衛、お前達の今言った通り、人間界にも『地獄』はある!
お前たちは、すでに『極楽』の住人であるゆえ、《仏(ホトケ)》である。
今から、〔シャバ〕という人間界に戻り、地獄の苦しみを味わっている者たちに、『極楽』の存在を伝えよ。
正しく人生を生き抜き、極楽に来い!と伝えよ。
又、仏の慈悲を・・、アミダ仏の慈悲を伝えよ。
《仏》となっているお前たちには、それができる!
人間界に戻り、風になっても良い、小鳥の声になっても良い、星になっても良い、冬はダイヤのように~きらめく雪になれ~。・・いかんいかん、声が段々AKIKAWA調になってきたわい。・・まぁ、どのような物に変身しても良いので、苦しむ人々、悲しむ人々に『極楽』世界の存在を伝えるのじゃ!・・さぁ、往って来い!〔おかん〕、〔宗兵衛〕!シャバへ向かって!・・シャバ・ダバダ、・・むかし、お前が人だった頃、俺は仏だった。・・そして、俺が光だった頃、お前は風になった。・・わかるかな?こんな古いギャグわかんねぇだろうな~?イェ~い。」と、アミダ仏は最後にボケをかました。
そのお言葉を聞いて、二人はようやく顔を見合わせて、微笑んだという。最後にボケてしもた。 めでたし、めでたし。 おしまい
紙芝居:「極楽のはなし」 その5

「・・おぉっ、わしらの往かんかった『地獄』とは、いったいどんな処何じゃろうのう・・?
恐ろしいトコなんじゃろうのぅ。
苦しいトコなんじゃろうのぅ。
考えただけでも、身震いがするわい」と、思わず〔宗兵衛〕は手を合わせた。
それを聞いて〔おかん〕も、
「そうですねぇ。・・私達は幸せなことに、仏様のお慈悲によって、この『極楽』に来れたのですから、ありがたいことです。ナムアミダブ、ナムアミダブ・・。」と同じように手を合わせた。
「そういえば、わしの奈良の友人から聞いた話じゃがな、〔奈良屋:悪なんやら〕という悪徳商人がおって、一度死に掛けて『地獄』を見て来たそうじゃ。そりゃ、恐ろしげな世界じゃったそうじゃよ。・・その後、〔悪なんやら〕は、善人になって、生き仏のようになったそうじゃよ。・・まるで、毎日が『極楽』の住人のような感じで生活しておるそうじゃ。」と、〔宗兵衛〕は続けて言った。
こうして二人は、しばらく、自分たちが往かなかった『地獄』の世界について、想像をめぐらし、あーだこーだと、話し合った。
それは、『奪いあう世界』でもありそうな、
『憎み合う世界』でもありそうな、
『悲しみの続く世界』でもありそうな、
『絶え間ない苦しみの続く世界』でもありそうな、・・そんな事を二人は、一生懸命に(具体的に)想像して、話し合った。
そして、やがて〔宗兵衛〕は言った。
「おかんよ、どうやら、『地獄』は、シャバの世界、つまりわしらの『人間世界』にもあるような気がするのぉ・・。」
それを聞いて〔おかん〕も、
「ほんに、自分たちの勝手さが作る『人間』世界そっくりのようですねぇ」と言った。
その時だった。
突然、アミダ如来様が二人の前までやって来られ、「そこのトコに気づけば、もうこの『極楽』での修行は終わりじゃ!」と言われた。
つづく(次回、最終回)
