
明治時代は終わり、大正、昭和へと時代は移り・・、
露子の家に次々と悲劇が襲います。
昭和16年、長男は病死。
終戦の年、昭和20年。精神の病から息子に家督を譲っていた夫が死亡。
さらに戦後の農地改革で、杉山家は[保有農地]を失い、経済的大打撃を受けます。
しかし、もっと大きなショックは、次男の自死でした。
次男が亡くなってから、露子は彼が生前からよく通っていたという、(現・河南町の)高貴(こうき)寺に、度々足を運び、住職との交流を深めてゆきます。
この山深いお寺で、露子は(おそらく)心の安らぎを求めたのでしょう。
現在、このお寺には(杉山家のお墓とは別に)、露子と子供たち三人のお墓が建っています。 つづく
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紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その8)
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その7)
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その6)
失恋の傷が、まだ癒されぬ露子に、さらに追い打ちが掛かります。
それは、師であり心の友であった家庭教師の解雇と、自分の味方であった妹の嫁入りによる別れでした。
一人ぼっちになった露子が、そのやるせなさを解放できたのは、雑誌への投稿である[文筆活動]でした。
与謝野鉄幹・晶子夫妻等と知り合いになった露子は、次第に社会へ目を向けるようになるのです。
次の歌は、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』の歌よりも、早く発表された露子の反戦歌です。
『みいくさに こよい 誰(た)が死ぬ さびしみと 髪ふく風の 行方(ゆくえ)見まもる』
(意訳)
「この日露戦争で多くの人が亡くなった。
今夜はいったい誰が死ぬのであろうか。
ああ、寂しい。
私の髪は戦場へ 風と共になびいていくようだ。
ああ、私はそのように思いやることしかできない。」
このように、露子は反戦の歌や小説を発表し、社会や国家のあり方に、自分の持つメッセージを込めたのでした。
つづく
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その5)

露子と別れた後、長田正平はどうなったか?
彼は学校を退学し、貿易関係の会社に就職して、カナダの国へ渡りました。
そして一生独身を貫いて、カナダの国で一人亡くなったという事です。
のち露子は、家を継ぐ運命の為に、初恋の正平とのかなわなかった想いを詠んだ、絶唱『小板橋(こいたばし)』を発表します。
(小板橋跡)
『小板橋』
「ゆきずりの わが小板橋
しらしらと ひとえのうばら(=野バラ) いずこより
流れか よりし。
君まつと 踏みし夕(ゆうべ)に いひしらず 沁みて匂ひき。
今はとて 思ひいたみて 君が名も 夢も捨てむと
なげきつつ 夕(ゆうべ)わたれば ああ、うばら あともとどめず
小板橋 ひとり ゆらめく」
[意訳]
「私がよく渡る小さな小板橋。
橋の下を見れば 白い野バラが どこからか流れて来た。 あなたが来て下さるかと思い、夕べ この『小板橋』まで出て来ると、言い尽くせない この野バラの香りがした。
もう あなたのことは忘れてしまおうと思うの。
その名前も、夢も・・。
そう嘆きながら この『小板橋』を渡り、下を見れば もう野バラは 流れ去り無かった。
あとは この小さな板の橋だけが、私の心のように 限りなく ゆらめいていた。」 つづく
(小板橋跡近くに建つ、現代の小板橋)
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その4)
露子は、大地主『杉山家』の跡取り娘です。
又、正平も由緒ある家の長男、・・跡取り息子です。
当時の法律では、お互い跡取りの子供同士の結婚は認められなかったのです。
それで、露子の父親は、この交際を認めませんでした。
そして、二人は愛し合いながらも、とうとう、別れることになったのです。
のち、露子は、次のような別れの時の歌の思い出を歌っています。
『霜(しも)白く 菊におきけり その日より 久に君見ず 夕別れして』
意 (霜が白く菊におりていました。その日より、あなたと会っていませんね。あの夕暮れに お別れした時から・・)
この失恋から、絶唱『小板橋(こいたばし)』が生まれるのです。 つづく
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その3)

心を開かぬ露子を心配して、父親は一人の女性家庭教師を雇いました。
[神山(こうやま)薫]という、その教師はたいへん進歩的な考えを持つ先生でした。
内向的な露子を、東北や東京などに旅行につれて行き、見聞を広めさせ、新しい文化へと目を開けさせたのです。
・・その東京旅行でのこと。
露子は運命の男性と出会うことになります。
その男性の名は[長田(おさだ)正平]という、(今の一橋大学の)学生でした。
彼は、家庭教師の先生の親戚で、東京まで来た彼女たちの『旅行ガイド』役を引き受けてくれたのです。
旅先を回りながら、やがて露子と正平は恋に落ちます。
そして、旅を終えてからも、お互い親しさを増し、翌年には、正平は露子の実家のある大阪[富田林]までやってきます。
おそらく、露子の家族にきちんと挨拶し、二人の交際を正式に、父親に認めてもらおうと思ったのでしょう。
が、しかし、この恋には一つの大きな問題がありました。
つづく
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その2)

石上露子は幼い頃から、古典・漢籍・日本画・お琴・舞いエトセトラ、エトセトラなどを習い、超高い教養を身に付けていきます。
が、しかし、彼女が13歳の時・・、
突然、実の母が離縁され、実家に帰ってしまいます。
露子と妹を残したまま・・。(離婚の原因は諸説あってわかりません。文春砲はまだ遠い・・)
まだ、母親が必要な少女期。彼女の心はどんなものだったでしょうか?
又、すぐ継母がやってきますが、彼女はなつきませんでした。
のち、詩歌の文芸誌『明星』に、露子がこの時の気持ちを思い出して投稿した歌に、次のようなものがあります。
『世にそいて つくれる媚(こび)のわびしさも よりて泣くべき 母はいまさぬ。』
これは(世間の大人たちに、自分は合わせて 寂しさを隠して生きている・・あぁ、こんな時こそ 居て欲しい母が私にはいないのだ。)という意味でしょう。
大大家族の中で育つ露子ですが、孤独感は一層つのり、泣き顔を見せない超内気な少女になっていくのでした。 つづく
紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その1)

ペンネーム[石上露子(いそのかみ・つゆこ)]。
本名『杉山タカ(孝子)』。
彼女は明治時代、日本の詩や歌(短歌)の世界に彗星の如く現れ、多くの作品を残し有名になりました。
その作品の特徴は、古典の教養を元にしながら、華麗さと悲しさを漂わせたものでした。
(富田林市 杉山邸)
大地主の家に生まれ、美しさと才能に恵まれた彼女でしたが、その生涯は決して順風満帆なものではありませんでした。
このお話は、そんな彼女の波乱万丈なものがたりです。
杉山タカこと、石上露子は(この物語では[露子]で通します)、大阪は富田林市寺内町で生まれました。
彼女の家は、『富田林の酒屋の井戸は 底に黄金の水が沸く 一に杉山、二にさどや、三に黒さぶ、金が鳴る』と、
歌われたような、大地主の造り酒屋でした。
彼女の家は、大家族で父・母・妹の他に、祖父の家族たちも一緒に住んでいました。
そこで露子は、杉山家の『跡取り娘』として、厳しく又、とても大切に、育てられたのでした。 つづく
紙芝居:「執(とら)われざる者~二人の僧侶の話」(その3最終回)

それを聞いて、兄弟子は平然として答えました。
「お前はまだあの娘に触れているのか?
私はとっくに下ろしたぞ!」と。
それを聞いて、弟弟子はハッとしました。
『そうなのだ・・。
女性に触れ続けていたのは私の方だ。
兄弟子は、もうとっくに女性を離しておられる。
こだわっていたのは、私だ。
・・兄弟子は日頃より、(戒律)規律の大切さを分かっておられる。・・が、それに縛られることなく、目の前の苦しむ人を助けられた。
規律より大切なものが、そこにあったのだ!
・・あぁ、私は執(とら)われていた。
もっと自由な心で、修行せねばいけないな・・南無仏、南無仏。』と、若い僧はこころでつぶやきました。
そして、二人の僧の旅はさらに続いてゆくのでした。
おしまい
(終わりに)
さて、我々は自分で決めた物事にとらわれ過ぎ、自由に動けなくなりがちです。
目の前の本当に大切な事を、見失っていないか考えてみることも必要かもしれませんね・・。
紙芝居:「執(とら)われざる者~二人の僧侶の話」(その2)

「お坊様、本当に有難うございました。」
と、川の向こう岸で娘は、深々と御礼を言いました。
「どういたしまして。」と僧侶たちは、娘と別れました。
・・が、しかしです。
面白くなかったのは、若い僧侶でした。
「兄弟子は、女性に触れた・・。
兄弟子は、お姫様抱っこをした・・。
兄弟子は、仏教の戒律を破った・・。
兄弟子は、言う事とやる事が違う・・。
あぁ兄弟子は、女性に触れた・・。」
と、若い僧侶は、その事ばかり思って歩いていたのです。
そして、次の日。
ついに我慢できず、兄弟子に尋ねました。
「兄弟子っ!・・兄弟子は戒律を破りました。
なぜ、女性に触れたのですか⁈
私には『女性に触れてはいけない』と、いつもおっしゃっておられたではないですか?」と、興奮して訴えました。
すると兄弟子は・・。つづく




