明治22年、武子様は23歳で結婚されます。
お相手は銀行勤務の男爵で、[九條良致(よしむね)]氏という御方でした。
良致氏は、武子様の義理の姉の[弟]でもありました。
お二人は結婚された後、イギリスへ新婚旅行へ行かれました。
・・と同時に、それは夫のケンブリッジ大学留学を兼ねた旅行でもありました。
ところで、なぜ銀行マンの夫が外国へ留学することになったのか?
それは武子様の兄[大谷光瑞様]が、良致氏を外国で勉強させて、将来、この義理の弟を[西本願寺]の学術専門家にしたかったからではないかと言われています。
が、結果的には、武子様は一人で先に日本へ帰国されることになります。
そして、良致氏の帰国まで、10年間待つことになるのでした。 つづく
[管理用]
記事一覧
※画像をクリックすると拡大されます。
紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その3)
紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その2)

武子様はすくすくとお育ちになりました。
末っ子ということもあって、父の明如上人も取り分け、武子様をかわいがられたそうです。
彼女は『西本願寺の宝』と呼ばれ、大切に育てられたのです。
こうして、武子さまは美しい女性に成長されました。
その美しさは、『大正時代の三美人』のおひとりと呼ばれたそうです。
(※余談ながら、あとのお二人は、九州の炭鉱王と結婚しのち若者とかけおちした柳原白蓮さん、そしてもう一人は、新橋の芸者から法律学者と結婚して、社交界で有名になった江木欣々さん・・です。)
又、武子様は短歌、絵画も一流の先生に学びその才能を発揮されていったのでした。
が、悲しいことも同時にやって来ます。
武子様17歳の時、父明如上人が54歳でお浄土に還られたのでした。つづく
紙芝居:『九條武子(くじょう・たけこ)さま』(その1)

九條武子さまは、西本願寺のご門主のお嬢様に生まれました。
才色兼備のお方で、その美しさは『大正時代の三美人』のおひとりとも云われました。
そのご活躍は『仏教婦人会・連合本部長』を務め、社会事業に尽くし、現在の「京都女子大学」創設にも尽力されました。
又、歌や絵画でもその才能を発揮されたそうです。
・・がしかし、そのご生涯は短く、人生も波乱に満ちたものでした。
それでは、武子様のご生涯を紙芝居を通して見てゆく事にいたしましょう。はじまり、はじまりー。
武子様は、明治20年京都にお生まれになりました。
お父様は、西本願寺第21代門主、大谷光尊(こうそん)様=明如上人です。
武子様の『武(たけ)』という文字は、明如上人がお考えになられ付けられたそうです。
それは「『武』とは、本来、『戈(ほこ)を止める』と書く。・・つまり力(武力)を使わず、平和に物事を納めてゆく。それがこの文字の本来の精神なのだ。この子にはそんな平和の礎になって欲しい」と、考えられたお名前なのでした。
つづく
紙芝居:「与謝野晶子(よさの・あきこ)」(その9:最終回)
そして晶子は、昭和17年、狭心症の為、63歳で亡くなります。
法名は『白桜院鳳飛晶耀大姉(はくおういん・ほうしょうしょうようだいし)』。
その波乱の生涯を振り返れば、夫、鉄幹あって有名人になれた晶子であり、天才、晶子あっての、名プロデューサー鉄幹であったと思われます。
本当の意味で、良い夫婦だったのでしょう。
現在、二人のお墓は、東京多摩霊園に仲良くならんで、建っています。
おしまい
紙芝居:「与謝野晶子(よさの・あきこ)」(その8)

大正12年、関東大震災が与謝野家を襲います。
幸い、晶子の家族は、皆無事でした。
・・が、この頃、鉄幹と二人で教授を務めてきた『文化学院』という学校は、焼失してしまいました。
そして、その学校に置いてあった晶子のライフワーク『源氏物語』の全・現代語訳文も(完成目前で)すべて燃えてしまいました。
絶望する晶子。
・・が、家族は生き抜かねばなりません。
晶子たちは、東京郊外に引っ越して、新しい家を建てます。
そして、もう一度『源氏物語』の現代語訳に、挑戦するのでした。
『妻をめとらば才けて、みめ麗しく情けある・・』と歌った(一代の風雲児)与謝野鉄幹は、昭和10年、62歳で亡くなります。
が、晶子は悲しんでばかりもいられません。
「私の人生も、残り少ないわ。生きている内に『新・源氏物語』を完成させなあかん・・。」と、頑張って執筆します。
そして、昭和13年。ついに『新・新訳源氏物語』全六巻が完成し、刊行させたのでした。つづく
紙芝居:「与謝野晶子(よさの・あきこ)」(その7)
「晶子、行ってくるね」と言って、
明治44年、鉄幹はヨーロッパ旅行へ旅立ちました。(晶子が稼いだお金で・・)
・・が、去られると、晶子はもう寂しくてたまりません。
「私もパリに行きます!」と言って、半年後・・、
晶子は子供たちを夫の妹に預けて、もう一度言います。夫の妹に預けて!・・彼女は夫を追いかけ、ヨーロッパに旅立ちました。
そして、二人でヨーロッパを旅して、新鮮な愛をよみがえらせて帰国したのでした。(好きにせえ!) つづく
紙芝居:「与謝野晶子(よさの・あきこ)」(その6)
そしていつの間にか・・、晶子は政治・経済・教育・文化の多岐に渡って、積極的に発言する女性たちのリーダーになっておりました。
最終的には、12人の子供を産み育てた母親でもあった晶子ですが、彼女の仕事が順調であった反面、
一方、夫の鉄幹は[明星]も廃刊となり、極度のスランプに落ちておりました。
仕事も無く、といって、子育ても手伝わず、毎日鉄幹は庭に降り、アリを潰して時を過ごしておりました。
いわゆる、心の病気になっていたのです。
「このままでは、この人はダメになる・・」と、晶子は鉄幹にヨーロッパ旅行を勧めました。
もちろん、その費用は、晶子が懸命に(いろんな仕事をして)稼ぎだしたものでした。つづく
紙芝居:「与謝野晶子(よさの・あきこ)」(その5)
『みだれ髪』は、世の中の封建道徳に大きな問題を投げかけましたが・・、
それから三年後、晶子はまたまた、時の話題の人となります。
それは、仲の良かった弟[ちゅう三郎]の、日露戦争への出征の気持ちを歌った詩の発表でした。
それは、このような詩です。
【君、死にたまふことなかれ】(一部抜粋)
『あぁ、おとうとよ、君を泣く。
君 死にたもうことなかれ。
末に生まれし君なれば、親のなさけは まさりしも
親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて 二四(にじゅうし)まで そだてしや・・』
(※余談ですが、弟は無事に帰って来たそうです。)
この頃、日本全体、『戦争に行くなら、勇ましく戦って死んで来い!』と言うような風潮でした。
・・が、晶子は「戦争を憎み、命を大切に思うのは、人間として当然だ!」と歌ったのです。
結果、晶子は社会から大バッシングを受けます。
が、このことに対しては(晶子も夫・鉄幹も)一歩も譲りませんでした。
つづく
紙芝居:「与謝野晶子(よさの・あきこ)」(その4)

晶子は、大阪から東京の鉄幹のもとに向かって走り(家出し)ました。
が、鉄幹には妻子がいました。
しかし、「妻とは別れるから一緒になろう」という鉄幹の(ええかげんな)言葉を信じ、自分の縁談も捨てて走ったのです。
晶子は物静かな反面、思い立ったらすぐ実行するという、行動力と情熱があったのです。
そして、鉄幹と晶子は結婚しました。
結婚と同時に、晶子の活躍が始まりました。
(熱血プロデューサーでもある)鉄幹の勧めもあって、晶子は[歌集]を出すことにしたのです。(ユーミンと旦那みたいやね⁈)
晶子は、それまでに作った多くの短歌の中から、すぐれた歌を選び出し、歌集『みだれ髪』を出版したのです。
この歌集から、代表作を一つ紹介。
『やわ肌の あつき血汐にふれも見で さびしからずや 道を説く君』
(意訳)[若い情熱的な女性の恋心にも触れもしないで、道ばかり説いているあなた⁈寂しくないのですか?]
と、このような、日本の古い伝統をぶち破るような、
恋愛感情を女性の方から歌った斬新な作品などが、多く納められていました。
その新しさと美しさに、多くの若者たちが熱烈に支持したのでした。 つづく
紙芝居:「与謝野晶子(よさの・あきこ)」(その3)

「はじめまして、僕が一言でいうと、(イケメンでプレイボーイで喧嘩っぱやくてプライドが高くて傷つきやすい少女のようなおっさん)与謝野鉄幹です。
晶子さん、あなたの作品はいつも読ませて頂いてますよ。お会いできて光栄です。
これからもどうぞよろしく!」
晶子は震えた。
身体に電流が走るようでした。
商売一筋の世界で育った晶子は、文学に命を懸けた鉄幹に、強く心をひかれたのでした。
のち、彼女はこう言っています。
「一人の男と出会って、自分の気持ちが不思議なほど変わった。自分は初めて恋愛という感情を覚えた。」と。
そして・・・、
晶子は走りました。
家出をしたのです。
行先は、東京の鉄幹のもとでした。
この時、晶子は23歳でした。つづく





