住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「『信心を得よ!』物語」~「蓮如上人御一代記聞書」より〔後編〕

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 又ある時、このような事がありました。
 久宝寺村の〔法性(ほっしょう)〕という門弟が、蓮如様の下に訪ねられた時のこと・・。
(法性)「蓮如さま、ただ仰せのままに『浄土に往生させて下さい』と、阿弥陀様を信じてお任せするだけで『往生』は確かに定まると思っておりますが、これで宜しいのでしょうか?」とお尋ねになると、別の者が、
(別の者)「それはいつもお聞きしていることだろう。もっと別の解らぬ事などをお聞きせよ」と、口を挟みました。
 すると蓮如様は、
(蓮如)「それだ!それがいつも私が良くないと言っている事なのだ!!誰も彼も、目新しい事を聞きたい、知りたいとばかり思っている。・・しかし、信心を頂いた者は、何度でも心の中の思いを、この〔法性〕のように口に出すのが良いのだ。」とおっしゃられたという事です。(「おっおっ俺かいっ!怒られるのはっ!」と、この〔別の者〕が言ったかどうかは記録には残っていません。)
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 浄土真宗の再興を果たし、各地にお念仏の道場をたくさんお造りになった蓮如様でしたが、時代はやがて『応仁の乱』から戦国時代へと移り、本願寺もその戦いの渦に巻き込まれていきました。
 大きくなった『本願寺教団』を、守護大名たちは皆、味方につけようと、誘いを掛けてきましたが、蓮如様は、断固として撥ね付けました。
 が、しかし、門弟の一人〔蓮崇(れんそう)〕という僧が、お言葉に従わず、『蓮如様の命令』と嘘をつき、門徒を扇動して戦いに駆り立て、結果的にたくさんの死傷者を出してしまったのです。
 この責任を問われ、〔蓮崇〕は破門されます。
 そののち、蓮如様がご病気になられた時、蓮崇は、蓮如上人にお詫びを申し上げようと参上しますが、誰も取り付いてくれませんでした。
 しかし、蓮如様は「私は蓮崇を許してやろうと思う・・」とつぶやかれると、ご子息方は「それはどうでしょう。」と大反対。
 が、蓮如様は「それがいけないのだ。何と嘆かわしい事を言うのだ。心さえ改めれば、どんな者でもお救い下さるというのが、阿弥陀如来様の願いではなかったか。」と仰り、蓮崇をお許しになったと伝わっています。
 そして蓮崇は、上人の下に参り、お目に掛かった時、感動の涙で畳みを濡らしたと伝わっています。
 そののち、蓮如さまがお亡くなりになられた時、蓮崇も同じく亡くなったと伝わっています。(殉死したのかなぁ・・?)
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 蓮如様は、その晩年このように仰っておられます。
(蓮如)「私はもはや、何も思い残すことは無い。ただ、子供達の中にも、信心の無い者がいることを悲しく思う。
 世間では、思い残すことがあれば、『死出の旅』の妨げになるなどというが、私は今すぐ往生しても、妨げとなるような思いは無い。
 ・・ただ、信心の無い者がいるのを嘆かわしいと思うだけなのだ。」と。

 こうして、『信心を得なされ、信心を得なされ』と仰り続けられた蓮如様でしたが、明応八年(1499)三月二十五日、お念仏を称えながら、静かに八十五年のご生涯を閉じられました。 南無阿弥陀仏。
 おしまい

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