・・このような《教育方針》でありましたので、適塾からは、さまざまな分野の『達人』たちが生れました。
幕末の戦争で、敵味方の区別なく傷を負った兵士を治療した『日本赤十字』の創始者や、又、今や壱万円冊の顔となった慶応義塾大学の創立者〔福沢諭吉〕など、多くの偉人たちを輩出しました。
やがて、そのような〔洪庵〕の評判を聞きつけた《江戸幕府》は、「是非、江戸に来て、『将軍』様専門の医者(奥医師)になってくれ」と言ってきます。
それは、医者としては目もくらむような名誉な事でした。
しかし、〔洪庵〕は断りました。
「決して、有名になろうと思うな。」という、自分の戒めに反する事だったからです。
しかし幕府は許さず、・・・ついに〔洪庵〕は「もはや断りきれない。討ち死にの覚悟で参ろう。」と、いやいや大阪を出発しました。
江戸に行った〔洪庵〕は、その次の年、そこであっけなく亡くなってしまいます。
もともと病弱であったのですが、江戸での華やかな生活は、〔洪庵〕には合わず、心の長閑さが失われてしまったのが原因でした。
江戸城での、〔しきたり〕ばかりの生活に気を使いすぎ、それが彼の健康を蝕み、命を落とさせたのでした。
振り返ってみると、〔洪庵〕は、自分の恩師達から引き継いだ、《たいまつの火》を、より一層大きくした人だったのでしょう。
彼の偉大さは、自分の《火》を、弟子たち一人ひとりに移し続けた事でした。
弟子たちの《たいまつの火》は、後にそれぞれの分野で、明々と輝きました。
やがて、その火の群れは、日本の《近代》を照らす大きな明かりとなっていったのです。
後生の私達は、〔洪庵〕に感謝しなければならないでしょう。
緒方洪庵、享年54歳。
おしまい
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