住職のつぼやき[管理用]

記事一覧

※画像をクリックすると拡大されます。

紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その1)

(中甚兵衛 前編)
ファイル 2330-1.jpg
昔むかしの江戸時代の半ば・・、
これは大阪に生まれ、偉大な事業を成しえた[二人の甚兵衛(じんべえ)]のお話です。
 
 一人は、今の東大阪に生まれた庄屋の[中甚兵衛]さん。
 彼は当時、洪水の絶えなかった大和川(やまとがわ)を付け替えました。

 そしてもう一人が、今の富田林市喜志(きし)に生まれた[加賀屋(のちの櫻井)甚兵衛]さん。
 彼は両替商(今の銀行みたいなものか?)の店に幼いころ奉公に出て、やがて独立。自分の店を持ち、そののち大和川を西大阪最大の新田に開発し、大阪の町の発展に尽くしました。

 これは、大和川が紡いだ二人の甚兵衛のお話です。
ファイル 2330-2.jpg
(現在の大和川)
ファイル 2330-3.jpg
 さて、初めは[中甚兵衛]さんの話をしましょう。
 彼は寛永16年(1639)、河内の国(今米村・今の東大阪市)で生まれました。
 家の仕事は村の庄屋で、今の村長さんのような役割でした。
 この当時の大阪は、大雨が降れば川は増水、氾濫し人々の生活は常に脅かされていました。
 甚兵衛さんの村も洪水被害を常に受け、その度に村民から「なんとかしてくだせぇ!」と庄屋は泣きつかれておりました。
(甚兵衛)「うーん、この水害を防ぐ方法はたった一つ!」と甚兵衛は思いつきました。
ファイル 2330-4.jpg
 それは、奈良から大阪の平野へと分散して流れ込む[大和川]とは別に、もう一本南に[新・大和川]を作って、そこへ水を流し込もうという方法でした。
 甚兵衛たちは庄屋の仲間は、何度も話し合い、その草案を持って江戸幕府に頼みに行きました。
 しかし、新・大和川の川筋に当たる地区の根強い反対運動にあって、中々工事まではいきませんでした。
 そして結局、幕府がこの川の付け替え工事を承認するまで、40年掛かりました。
 ・・40年、なんと長い嘆願運動でしょう。
 もはや、老年期に入った中甚兵衛さん。
 自らの人生のほぼすべてを使った嘆願運動でした。つづく

トラックバック

この記事のトラックバックURL
https://o-demae.net/blog/diary-tb.cgi/2330

トラックバック一覧

上に戻る