それからも、北と南の二つの朝廷の争いは続きました。
正儀は、武家のリーダーとして、戦さの場で懸命に働きました。
そして何度も勝つ、負けるを経て、ついに京の都を奪い返したのでした。
がしかし、念願の京の都に戻れた(正儀等の)南の公家たちは、浮かれて油断しました。
そのすきを見つけた北の朝廷の軍たちは、京の都へ襲い掛かり、その結果またまた、正儀たちは戦さに負けて、河内へと引きあげたのでした。
このようなことが、結果的に合計四度もありました。
疲れ果てた正儀は思いました。
「京の都を制圧しても、逃げた敵は又盛り返して帰って来る。・・そして又奪い返される。こんなことの繰り返しでいつまでも平和は来ない!
・・うーん、それよりも平和的に、北と南のそれぞれの天皇が一代ずつ交代しながら、この国を治めるという考えではどうなのだろうか⁉」と。
ちょうどその頃、北の朝廷内でも(正儀と)同じ考えを持つ[細川]氏という武将が居るという事を知った正儀は、すぐに秘密裏に手紙を書きました。
そして、やがてお互い意気投合した正儀と細川は、極秘に和平の道を模索し始めたのでした。つづく
(富田林:嶽山(だけやま)城跡[現在のかんぽの宿])
(河内の楠木正儀の城と云われている)
[管理用]
記事一覧
※画像をクリックすると拡大されます。
紙芝居:『楠木正儀(まさのり)和平派ここにあり!』(その3)
コメント一覧
コメント投稿
- 「名前・コメント」欄を入力し、投稿ボタンを押してください。