新しくなった[寺ヶ池]完成後、與次兵衛さんはご領主から呼び出されました。
「與次兵衛、ようやった!あっぱれじゃ!褒美としてそなたに、今の家とは別に土地をやろう。そして、そなたをそこの代官にしよう。これからも励むよう!」
「ありがとうございます。」
こうして、河内郷代官となった與次兵衛さんはさらに励みました。
そして、いつしかその新田開発により、昔の100倍のお米が取れるようになったそうです。
その後、與次兵衛さんは子供達に仕事を任せ、自分は父と同じように頭を丸めてお坊さんになりお寺に入ります。
「極楽にいる親父さま、いやご住職、私は万人の幸せの為に働く事ができました。住職が言われたように、人の幸せを願って働くことは、自分自身をも幸せにすることでした。皆は私に感謝し、私は私で今幸せを感じています。私は大事な事を学びました。これからはその心で、この水路(井路)を通って流れ来る清らかな水のように、悩める人の心にそっと寄り添いながら、仏様の教えを伝え生きてゆきたいと思います。」
お坊さんになった與次兵衛さんは寺ヶ池の前でそう思いました。
與次兵衛さんは『祐和(ゆうわ)』というお坊さんの名前になり、晩年を過ごされました。
今も人々の為に豊富な水を満たしてくれている、河内長野市にある寺ヶ池。
恩恵を受けた多くの人により、與次兵衛さんの活躍を讃えて、今も池の北に「祐和」の碑という石碑が建っています。
おしまい
(中村與次兵衛さんのお墓)
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記事一覧
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紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その6・最終回)
紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その5)
紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その4)
與次兵衛さんは、水が流れ来る道(井路)を考えねばなりませんでした。
ここ(寺ヶ池)から、上流の大きな川(石川)まで繋がるコースを決めました。
そして水がきちんと流れて来るように、土地の高い、低いを見極めるに、夜に提灯を並べて、その明るさを頼りに調べました。
皆で交代しながら、その高い低いの印に従って、井路(水路)を掘って行きました。
その井路を掘り進めるのは大変でした。
途中、硬い岩盤にぶち当たる事もあったからです。
その場合は、皆でトンネルを掘って井路を作りました。
そうこうしながら、與次兵衛さん達は井路を完成させたのでした。
その長さは、結果的に約13.8キロという、途方もない長さになったのでした。
一方、池も大きなため池に広げなければなりません。
そこでまず、池の西側と東側に元々あった、なだらかに続く丘を利用して広げました。
そして北側と南側には堤防を作り、ダム式のため池を考えたのでした。
これは、現代のように機械が無く、すべては人の手で作業をしなければならない為、大変な工事でした。つづく
紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その3)
そして與次兵衛さんは、水をどこから引いて来るかなど考えて、ご領主に工事の許しをもらいに行きました。
「與次兵衛、その方の考えは大変素晴らしい。完成すれば、米も多く取れ、藩も潤い、民衆も生活が楽になる。・・がしかし、難しい工事になるぞ。出来るか與次兵衛!?」
「はい、たとえ自分の全財産を使い果たしても、皆の生活を考えやってみようと思います。」
「あっぱれな心掛けじゃ!お前をこの工事の責任者に任命する。又、我が藩からも出来るだけ応援するぞ。」
「ありがとうございます。」
こうして、次はこの工事に関わる農民達の協力要請や説得に行きました。
「與次兵衛さん、あんたの考えはよう分かった。要は水の多い石川の上流から長い水路(井路)を作って、大きく広げた寺ヶ池まで流すっちゅう事やな。確かにそれが出来たら、仰山水田が出来て潤うやろ。しかし、わし等の土地はどうなるんや。池に広げられたら無くなってしまうやないか?!」
「心配せんでもエエ。米が多く取れるように村から、土地は分けてもらうように話しはつけた。」
「水路になる村は土地が緩んで、水が溢れたりせえへんか心配や?」
「それも慎重に水路になる所を選んで、安全安心に工事するから大丈夫や。」
「その何処かで聞いたような、[安全安心]という言葉は心配やなぁ。」
こうして與次兵衛さんは、反対意見を熱心に聞き、それを説得して話をまとめてゆきました。
そして各村からの協力を得て、いよいよ工事は始まりました。
つづく
紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その2)
江戸時代の初め。
庄屋の中村與次兵衛(よじべえ)さんは、小さな[寺ヶ池(てらがいけ)]の周りを歩きながら、つぶやきました。
「あぁ、この池がもっと大きく水が豊富やったら、まわりに水田を仰山作って、お米がいっぱい取れるのになぁ・・。
このままやと、この村はいつまでも貧乏のままや。なんかエエ方法はないもんか?
あっそうや、極楽寺のおやじに相談してみよう。」
與次兵衛さんの父親は、[佑算]という名前に変えて、今近くのお寺のお坊さまになっていました。
「親父さま、いやご住職さま、あの池を何とか大きく改築できんもんですかのう・・。」
「與次兵衛、その方法はたった一つ。あの池にどっかから水路を作って水を仰山運び入れるんや!
もちろん、今のままやったら池が小さすぎるから、池も広げなあかんわなぁ・・。
これは大工事になるやろ。お金も人もいる。ご領主さまにも相談せなあかん。大変なこっちゃ・・。
でもな、仏さまは『一人は何万人が幸せになることを常に願って働かなあかん』と言うてはる。これが自分も幸せになる方法やと・・。又なぁ、反対に何万人はたった一人の幸せの為に力を合わせとも言うてはるんや。
この考えをしっかりもっとったら、この大工事は絶対成功する!
これをやれるか?與次兵衛・・。」
「はい、親父様、いやご住職。その心でやってみます!ありがとうございました。」
與次兵衛は一大決心をしました。 つづく
紙芝居:『中村與次兵衛(よじべえ)と寺ヶ池(てらがいけ)』(その1)
昔々の大阪にこんな歌がありました。
『一に寺池(=寺ヶ池)、二に狭山池、三に和泉の久米田池』。
これは南大阪で、たいへん大きく、深く、そして枯れる事のない、人工池の順位を唄ったものです。
この一番に出てくるのは、現在の大阪府河内長野市にある[寺ヶ池]。‥この池、初めは小さな池でした。
それを今からお話するこの物語の主人公、[中村與次兵衛]という一人の庄屋さんが開発し、大きい池に築造したのです。
そのおかげで、今でもこの地域は水不足に悩まず、皆が安心して暮らしていけるようになりました。
それでは、その與次兵衛さんのお話をさせて頂きましょう。
はじまり、はじまりー。
(大阪府河内長野市/寺ヶ池)
つづく
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その6 最終回)
そして嘉永4年(1851)、福井藩は公立の[種痘所]=(ワクチン接種無料の『除痘館』)を作った。
ここの責任者となった良策の悲願はついに達成されたのである。
「もうこれで沢山の大八車に乗せられた遺体の行列を見なくて済む・・。わしは果たした。」と良策は呟いた。
この良策の仕事は、この2年先の嘉永6年(1853)までに、6595人の庶民にワクチンを接種することができたという事である。
そしてやがて江戸時代は終わり、近代国家・明治時代に移り・・。
良策は、福井で「種痘事業」が完全に根を下ろした事を見届け、その後、東京へと移住する。
そして明治13年(1880)、病いに倒れ亡くなった。
享年72才。
その死顔はワクチン事業を成し遂げた満足気な表情であったそうである・・。
それでは、この紙芝居は笠原良策の残した一つの歌で終わるとしましょう。
『たとえ我、命死ぬとも 死なましき、人は死なさぬ 道開きせん』=(たとえ自分は死んでも、死ななくても良い人は絶対死なせない。そういう道を私は開きたい。)
お墓は、福井県の大安禅寺にあります。
おしまい
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その5)
「この牛痘さえすれば、一生[疱瘡(天然痘)]にならんでええんじゃぞ!」
と、良策は福井の町中を回って宣伝し続けた。
がしかし・・.
「牛の膿(うみ)を身体に擦り込んだら、わし等の子供も牛のようにツノがはえて、牛になって死んでしまうべ!」
「あの医者はとんでもない嘘つきだべ!偽医者だ!めっちゃ医者だ!」
と、悪い噂はあっと言う間に広まり、町の人々は良策の姿を見ると石や雪などを投げて追い払った。
又、役人の武士たちも、それを見て見ぬフリをした。
そう、福井藩では、良策のワクチン接種運動は完全に空回りしたのであった。
それに、本来味方であるべき漢方の医者たちも「良策の言うことを信じてはいかんぞ!」と言いふらしたのである。
良策は自分の全財産を使って、これまで無料でこの(ワクチン)接種をしようと頑張ってきた。
が、誰もが彼を無視し、今や良策は身も心もずたずたになろうとしていたのである。
(余談になるが、大阪の緒方洪庵は『牛痘法』を嫌がる庶民に対して、お米やお菓子を手渡す事で、ワクチン接種を広めたらしい。さすがナニワのお医者様!(笑)・・商品券や宝くじなどを渡してコロナワクチンを広めようとするどっかの国とよく似ているな‥(苦笑))
がしかし、それから半年ほど経ったある日、事態が急変した。
藩のお役人から呼び出されたのである。
役人は、「笠原良策、牛痘法はすばらしい天然痘の治療法である事が他藩からのしらせで解った。これから我藩でも、この治療法を全力をあげて推進していきたいと思う。良策、お前は福井藩の先頭に立って励むよう。‥又、理解の無い町医者たちには我々が厳しく処罰するでな。わかったか良策!頼むぞ。」と、申し渡されたのであった。
良策は泣いた。
心の中では『理解が無かったのはあなたたちも同じではないか!』と叫びたかったが、皆の命を救うためと怒りをぐっと我慢した。
そして『これで天然痘から福井藩を救えるぞ!』と涙を流し続けたのであった。 つづく 次回 最終回
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その4)
良策は思った。
「先日も、緒方洪庵という医師が大坂からやって来て[牛痘]を持ち帰った。彼なら大坂の町の予防接種は大丈夫だろう。・・もうこれで、京・大坂の町は大丈夫だ。・・いよいよ次は我が故郷[福井]だ!」と。
そう、彼はまだ地元・福井の町で牛痘予防接種をしていなかったのである。
風の便りによると、どうやら福井の町でも天然痘の患者が増えているらしい・・。
「が、今は真冬だ!どうする良策!?京から福井へ行くには大雪の峠を種痘しながら、子供達を連れて行かねばならない。予防接種は大人ではなく子供達でないとダメなのだ。そんな事が果たして出来るか?・・こう考えている内にも福井に犠牲者が出ている。」と、良策は自答自問を繰り返していた。
そして、彼はやがて決断した。
「よし!子供達を連れて種痘をしながら、福井に行くぞ!」と。
嘉永2年(1850)11月19日、4人の子供と8人のその親、そして良策を合わせた総勢13人は、京都を出発した。
それは子どもの腕に種痘(ワクチン)をして出発して、途中、次の子供に植え継ぎしながら進むという7日間予定の旅だった。
旅の途中、[栃の木峠]という難所で大雪になった。
一向は雪の横なぐりに合い、子供は泣き叫び、2メートル以上の雪の中に埋まってしまった。
「もうダメか!・・」と思ったその時、
「あっあれは!」
奇跡のような二つの松明が見えた。
それは、良策達の旅の話を聞いて、身を案じた先の村の住民達が、迎えに出て来てくれていたのであった。
「助かった・・!ありがとうございました。」と良策達は手を合わせて感謝した。
こうして無事、福井の町に着いた。
「これで福井の人々を天然痘の恐怖から救う事が出来るぞ!」と、良策は喜んだ。
が、彼は甘かった。
もっと大きな試練が、次に待っていたのであった。
つづく
紙芝居:『決め手はワクチン!めっちゃ医者 笠原良策先生』(その3)
良策35才。
一度京都から福井に帰った彼だったが、さらに研鑽を積むべく、再び京都に出て西洋医学を学び初めていた。
そんなある日、師匠からビックリするような話を聞いた。
「良策、天然痘に罹らなくて済む方法が見つかったぞ!ヨーロッパのジェンナーという医者が発見したんだ!」と。
・・それは[種痘(しゅとう)=[牛痘接種]という方法だった。
これは、天然痘に一度罹った牛の膿(うみ)を、人間の腕にメスで少しだけ傷つけて植え付けるという方法だった。これをすれば、死ぬまで人間は天然痘に罹らないで済む・・という方法だった。
この方法はすでに実証済みで、天然痘へのワクチンの大発見だった。
嘉永二年(1849)、40才になった良策は、数々の困難を乗り越え、師匠と共に努力して、牛痘の苗(ワクチン)を外国から(長崎経由で)手に入れた。
そして子供達へのワクチン接種に成功したのだった。
当時、この接種の難しさは、子どもの腕にメスで牛痘を植え付け、膿が吹き出るまで待ち、それを取って、別の子どもに植え継ぎしなければ効果が出ない事なのだった。・・これが少しでも遅れれば、ワクチン効果がなくなってしまう。
つまり駅伝タスキのようなスピード感が必要なのだった。
が、良策達はこれに成功した。
そして京都で150人以上の種痘を済ませ、命を救ったのである。
つづく