住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『新・中将姫』(その5 最終回)

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「なんと!素晴らしい極楽浄土の世界が織られた曼荼羅でしょう!私が求めていたのはこの世界だったのよ!」と中将姫が思っていると、いつぞやの年老いた尼さんが又現れました。
 そしてみるみる内に、尼さんは「阿弥陀様」の姿に変わっていったのでした。
「あっ、貴方様は『王子様』では無く阿弥陀さま!・・仏様だったのですね。」
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「そうだよ。そして、曼荼羅作りを手伝った25人の尼たちは、観音菩薩たちだったのだよ。」と、尼さんたちは観音さまの姿に変わっていきました。
阿弥陀様は中将姫に言われました。
「中将姫、お前が会いたいと願っていた仏が私だよ。
 さぁ、極楽の世界を表した曼荼羅は完成した。
 これはのちの世の人々を極楽世界へ導く為の指針となるだろう。
・・では、これからお前をこの曼荼羅のような本当の極楽浄土の世界に連れて行ってやろう。いざっ行かん!」と言って阿弥陀様と菩薩たちは、中将姫の手を取って旅立ちました。
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こうして、中将姫は29才で極楽へと往生しました。(おそらく、亡くなったんやろねぇ)
そして、今もこの『當麻曼荼羅』は奈良県の當麻寺で拝む事ができます。
 我々に極楽世界を絵ではっきりと表して下さって。・・、おしまい

終わりに〜
何年か前に、當麻寺の近くのお寺に紙芝居法話で呼んで頂いた。そこで是非、我々の町のヒロイン「中将姫」の紙芝居を作って欲しいと頼まれた。・・が、僕流のどういう話が良いか?なかなか決まらず、何年も完成までに掛かってしまった。そしてようやく完成したのが、この作品でこんなコメディタッチ作品になってしまい今、すごく力不足を感じている。
中将姫の古典を読んでいると、どうしても西洋の「白雪姫」を思い出してしまう。ウォルトディズニーの映画が甦るのだ。で、この紙芝居の新しい母親には不思議な魔法の鏡を持ってもらい、最後は死んでもらい、それをきっかけに中将姫の出家動機にさせていただいた。これは全てぼくの創作なので、中将姫ファンの方には申し訳なく思っている。すんませんでした。これを最後に書かせていただきたかったのです。ハイホー!合掌

紙芝居:『新・中将姫』(その4)

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父の許しを得て、出家得度した中将姫は尼になり、懸命に當麻寺で修行をしました。
そして姫は修行の中、「私、本当の阿弥陀様に会いたい!そして極楽浄土の世界が見てみたい。」と思うようになりました。
そんな時、一人の見知らぬ年老いた尼さんが、突然尋ねて来ました。
そして彼女は「本当の阿弥陀様に会いたいなら、蓮(ハス)の糸を集めて、想像して、仏の曼荼羅世界を織りなさい。」と言って消えました。
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それから、姫は何かに憑かれたように、蓮の茎を集めて曼荼羅を織り始めました。
「でも、とても手が足りない。一人では無理だわ」と、思っていたら、どこからともなく、7人の小人ではなく、25人の尼さんたちが歌いながら現れました。
『ハイホー!ハイホーハイホー!・・じゃ無くて、お寺参りは奉拝(ほうはい)だわ!じゃみんな歌うわよ!ほうはいー、ほうはいー、お寺参り〜、私たち手伝うわー、ほうはーい!・・姫っ、曼荼羅作りを私たちにも手伝わして下さ〜い。」と明るく賑やかな尼さん軍団が、中将姫を手伝いはじめたのでした。
 そして、當麻寺の曼荼羅(マンダラ)は、ついに完成しました。ハイホー!ではなくほうはーい。つづく
※御朱印帳に、書く言葉は「奉拝(ほうはい)」と書くのです。ハイホー!ではなく、ほうはーい!つづく 次回最終回
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(中将姫が曼荼羅を編んだ場所といわれる二上山)by大阪府太子町
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(ハスの糸を掛けた木の跡)by奈良県葛城市「石光寺」

紙芝居:『新・中将姫』(その3)

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そして家来は、中将姫を自分の妻に頼み、奥深い山の中に内緒で匿ってもらう事にしました。
・・やがて月日は流れて、中将姫は16才になりました。
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一方悪?妻から「中将姫は、良からぬ家来と駆け落ちして居なくなりました」と聞いていた父の豊成は、寂しさを紛らわす為に、山へ狩に出掛ける事が多くなっておりました。
そんなある日、偶然、豊成は狩の途中の山小屋で中将姫と再会したのでした。
「姫!そなたは生きていたのか?!」と、豊成が言うと、中将姫はこれまでのいきさつを全て話しました。
 そして父は娘に謝り、親子は一緒に屋敷に帰る事にしたのでした。
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この知らせに、豊成の妻は驚きました。
「なっ何!中将姫が帰って来ると!?・・もはやこれまで、私は逃げるわ!」と言って、荷物をまとめて屋敷を急いで飛び出したのですが、誤って転び、あの不思議な鏡が割れて、胸に刺さり命を落としてしまいました。
 帰って来た中将姫はそれを見て、命の無常さ、因果の応報を悟りました。
 そして、父の豊成に思いきって告げました。
「お父さま、私は出家して尼になります。そして、仏様に一生使えます!」と。
 そして中将姫は、奈良の當麻寺(たいまでら)で得度し、尼になりました。
この時、中将姫は17才でした。つづく
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(當麻寺)
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(得度をしたと言われる當麻寺内、中の坊)

紙芝居:『新・中将姫』(その2)

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新しい妻(母親)は、中将姫を嫌いました。
それは、中将姫が自分より美しかったからです。
そうです。この妻は自分がこの世で一番綺麗だと思っていたのです。
 さらに、この妻には秘密があって、毎晩こっそり不思議な鏡に向かって話しをしていたのです。
「鏡よ鏡、教えておくれ。この世で一番美しいのは誰だい?」と。
すると、今までは『はい、それは貴方さまです。』と答えていたのに、最近は『それは貴方様ではありません。貴方の娘、中将姫です。』と答えが返ってくるのでした。
おそらく鏡の声は、中将姫の美しさに対する妻の嫉妬心から出たこころの声だと思われるのですが、この新しい妻は許せませんでした。
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「中将姫め!あの子が居なくなれば、この世で一番美しいのは私になるはず!」と、夫が出張で遠方に出かけた後、妻は家来に命じて、
「あの娘を遠くの山まで連れて行って、殺しておしまい!・・この毒リンゴを使って・・ではなく、この太刀を使って!」と言って、一本の刀を渡したのでした。
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家来と中将姫は「遠くの山で薬草を取りに参りましょう。」という名目で草深い山の奥に入って行ったのでした。
※(余談ですが、中将姫は薬草マニア、いや薬草研究家博士ちゃんであったとか?これがのちの『中将湯(とう)』という薬の名になったそうです。さらに、お風呂に入れる薬湯にもなっていきました。)
中将姫は頭の良い娘です。
すぐ、家来の様子がおかしい事に気がつきました。
そして、家来がそっと刀を抜いた時、中将姫は言いました。
「貴方は私の母の言いつけで、私の命を奪おうとしているのね。貴方は母の家来だから仕方がないわ。・・でもちょっと待ってちょうだい。私、最近『称讃浄土経』という極楽で阿弥陀様に救われるお経を毎日読んでいるの。このお経を後一回読んでから私を斬ってちょうだい。」と言いました。
 そして、中将姫はお経を読み始めました。
 その姿を見た家来は、涙ながらに「どうして、貴方様のお命を奪う事ができましょうか。」と刀を納めたのでした。
つづく
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(中将姫の墓)by奈良県葛城市

紙芝居:『新・中将姫(ちゅうじょうひめ)』(その1)

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これは、昔むかしの日本の奈良時代のお話。
 西洋のグリム童話『白雪姫』が出来た頃より、ずっと昔のお話です。
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 昔、奈良の都、平城京に右大臣[藤原の豊成(とよなり)]とその妻、そしてその子、のちに[中将姫]と呼ばれる美しい娘とが住んでいました。
 この家族、大変幸せでありました。
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ところが、幸せというものは、いつまでも続くものではありません。
中将姫がまだ幼い頃、母親が急な病で亡くなってしまったのです。
父親の豊成は、『姫にはまだ母親が必要だ』と、新しい妻を迎えました。
 しかし、この新しい妻は・・、つづく
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(中将姫の像)by當麻寺

紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その4 最終回)

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(加賀屋甚兵衛 後編)
 数々の苦労を乗り越え・・、
 そして宝暦5年(1755)、甚兵衛さんの新田は誕生します。
 のち、新大和川の川沿いに実る稲穂を見つめながら、甚兵衛さんは
「・・新大和川を付け替えた中甚兵衛さん。あなたが人の命を守る為に生涯を掛けて作られたこの大河。
 この同じ名前の、この甚兵衛がお米や農作物を作ることによって、同じように人の命を守り、生かすために志を引き継がせて頂きましたよ。」とつぶやかれた・・かもしれません。
 そしてこの地は、大阪の代官によって検地を受けて、『加賀屋新田』と正式に名前を付けられました。
 ここから、『加賀屋』という地名が生まれ現在に至っています。
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 この功績によって加賀屋甚兵衛は名字帯刀が許され、「自分は富田林の出身なので、生まれた地名の名である喜志村の『櫻井(さくらい)』という姓を名乗りたい。」と言って、この時から[櫻井甚兵衛]という名前になりました。
 宝暦7年(1757)、甚兵衛さんは婿養子に家督を譲って、その翌年、中甚兵衛さんと同じように、仏教に帰依して『圓信(えんしん)』と名乗り、新田会所で静かな隠居生活を送ります。
 そして宝暦12年(1762)、83才で往生されました。
 その後、[甚兵衛]の名はその子孫が代々継いで、会所も大いに発展します。
 やがて、甚兵衛さんの造った『新田会所』という管理運営施設も、大阪の豪商の財力が示すような大邸宅となり、そこは美しい庭園や茶室などが作られ、文化人たちのサロンとなりました。
 ‥以上が『二人の甚兵衛さん』のお話です。
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 たぐいまれな精神力で嘆願活動を続け、幕府を動かし水害から人々を守る為に[新大和川]を付け替えた中甚兵衛さん。
 そして、その新大和川沿いに西大阪最大の新田を作り、農地を成長させた加賀屋甚兵衛さん。
 二人の甚兵衛さんは、大和川という大阪の大河に関わり、懸命に働きその生涯を終えました。
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(加賀屋新田会所跡)
 21世紀に生きる我々も、彼らからどんな困難にぶつかっても意志を貫く強い精神力を学びたいものですね。 おしまい
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(加賀屋緑地)

紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その3)

※余談だが、この紙芝居制作には僕自身にも不思議なご縁がある。
 僕が紙芝居を作り、そして演じるきっかけになった場所が、「北加賀屋」駅近くにあった『特別養護老人ホーム白寿苑』というところである。(もちろん今もある。[笑])
 毎月、こちらに紙芝居法話を演じに、富田林駅から行かせて頂いていた時、この地下鉄「北加賀屋」駅で降りた時、いつも「へんな名前の駅だなぁ?・・昔に大きな旅館か料亭があったのかな?」と思っていた。まさか、この駅の名前が『加賀屋甚兵衛』の名前から付けられたものだと思わなかったのだ。
・・毎月、僕は加賀屋甚兵衛さんの生まれた所(富田林)から電車に乗って(途中から車に変えたが)加賀屋さんの新田会所まで行っていたのだ。
 又、加賀屋甚兵衛さんの旦那寺である[明尊寺]様へも『紙芝居法話』で二度ほど行かせてもらっている。・・ここでは書かないが中甚兵衛さんにも不思議なご縁があった。
・・それがわかった時、これは紙芝居を作らねばいけないなと(勝手に)思い、この紙芝居の制作に入ったのである。余談が長すぎた。・・話に戻ります。
(加賀屋甚兵衛 前編)
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 加賀屋甚兵衛さんは、延宝8年(1680)に、河内の国石川郡(現在の富田林市喜志町)で生まれました。
 11才で大阪淡路町(現在の本町近くか?)の両替商(今の銀行のようなものか?)の[加賀屋]という店へ奉公人として入りました。
 そして35才で『のれん分け』、つまり独立開業を許され、自分の店を持ちました。
 ここで[加賀屋の甚兵衛]という名前になります。
 甚兵衛さんは商売で堺へ行く途中、この新大和川をいつも眺めながら、新事業を夢見ていたのです。
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 この頃、大都市大阪は人口が増え、農作物の収穫を増やす為、農地の開発(これを新田といいます)が盛んに行われていました。
 財力のある商人は、川沿いの土砂で干上がった土地などを工事して、新田作りに挑戦していたのです。
(甚兵衛)「新大和川の河口部(今の住之江区西側)も土砂で干上がっていたなぁ・・。あの部分を干拓すれば、きっと立派な新田が出来るに違いない!」と、加賀屋甚兵衛も開発工事に挑戦したのでした。
 この時、甚兵衛45才。大工事が始まりました。
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(甚兵衛が作った高崎神社)
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(甚兵衛がこちらも故郷富田林の神社から分け御霊をもらい造った高砂神社)
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(甚兵衛)「なんとか、この地に立派な新田が出来ますように!そして水害から守ってもらえますように!」
 と甚兵衛は自分の故郷富田林の喜志にある産土神社から分け御霊を頂戴して、新田工事の場に『高崎神社』と『高砂神社』を建てて祈念しました。
(甚兵衛)「この新大和川の上流は、自分の故郷富田林につながっている。だから故郷の神様、どうかこの地もお守りください!」と信仰心の篤い甚兵衛さんは常に祈りました。
 そしてその後、本業の両替商も止めて、新田開発一本に打ち込みます。つづく

紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その2)

(中甚兵衛 後編)
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宝永7年(1714)、新・大和川の付け替え工事が始まりました。
 工事は、川下の堺の海側から開始されました。
 幕府と各命じられた藩が競うように、分担区間を工事してゆき、結果的にわずか8か月間で、シン・ヤマト川は完成しました。
 堺から河内の国[志紀郡柏原村(現柏原市)]の合流地点まで、長さ約14キロメートル・幅180メートルの新・大和川はここに完成したのです。
 この時、甚兵衛も『普請御用』という役を幕府からもらい、息子と一緒に現場で指揮したそうです。(詳しくは、このホームページの出前メニュー127の『中甚兵衛ものがたり』を見てください)
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 この付け替え工事によって、中河内の村人は大きな水害からまぬがれる事ができました。
 中河内とは今の『東大阪市・八尾市・柏原市などエトセトラ』です。
 又、鴻池(こうのいけ)新田を初め(約1050ヘクタール)の新しい田んぼや畑が、川の水が無くなった所に開発され、農業が盛んになりました。
 干上がった砂地は水はけが良く、綿栽培が最適で、こうして中河内一帯は全国一の『綿作地帯(河内木綿)』になり、大阪の大発展に貢献しました。
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 しかし、付け替え工事の南側(主に堺市や今の大阪狭山市の一部)では排水が機能せず、結局水害からは逃れる事ができず、住民に迷惑を掛けました。
・・・それが原因かどうかはわかりませんが、
 中甚兵衛は、川の付け替え工事完成の翌年、頭をそって仏教に帰依してその後、表舞台には出ずひたすら信仰に生きたそうです。・・しらんけど。
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 さて、ここで少し時間を戻して・・、
 もう一人の甚兵衛さんのお話に移りたいと思います。
 新大和川が完成した時、ひとりの若い商人が、商いで堺への道中、この川沿いを歩きながら、一人つぶやきました。
(もうひとりの甚兵衛)「ほぉー、これが中甚兵衛という御方が付け替えたという新大和川か!‥立派なものだ。私の名前も甚兵衛(じんべえ)。・・まぁ、中甚兵衛さんとは縁もゆかりもないが、同じ名前だ!
 この大和川をご縁として、私も社会に貢献できる仕事がしてみたいなぁ・・。」
 この若者の名前は[加賀屋(かがや)の甚兵衛]と言いました。
 中甚兵衛さんとは、40才ほど違う若手気鋭の商人でした。
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(二人の甚兵衛の年表)
 つづく

紙芝居:『二人の甚兵衛~中甚兵衛と加賀屋甚兵衛』(その1)

(中甚兵衛 前編)
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昔むかしの江戸時代の半ば・・、
これは大阪に生まれ、偉大な事業を成しえた[二人の甚兵衛(じんべえ)]のお話です。
 
 一人は、今の東大阪に生まれた庄屋の[中甚兵衛]さん。
 彼は当時、洪水の絶えなかった大和川(やまとがわ)を付け替えました。

 そしてもう一人が、今の富田林市喜志(きし)に生まれた[加賀屋(のちの櫻井)甚兵衛]さん。
 彼は両替商(今の銀行みたいなものか?)の店に幼いころ奉公に出て、やがて独立。自分の店を持ち、そののち大和川を西大阪最大の新田に開発し、大阪の町の発展に尽くしました。

 これは、大和川が紡いだ二人の甚兵衛のお話です。
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(現在の大和川)
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 さて、初めは[中甚兵衛]さんの話をしましょう。
 彼は寛永16年(1639)、河内の国(今米村・今の東大阪市)で生まれました。
 家の仕事は村の庄屋で、今の村長さんのような役割でした。
 この当時の大阪は、大雨が降れば川は増水、氾濫し人々の生活は常に脅かされていました。
 甚兵衛さんの村も洪水被害を常に受け、その度に村民から「なんとかしてくだせぇ!」と庄屋は泣きつかれておりました。
(甚兵衛)「うーん、この水害を防ぐ方法はたった一つ!」と甚兵衛は思いつきました。
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 それは、奈良から大阪の平野へと分散して流れ込む[大和川]とは別に、もう一本南に[新・大和川]を作って、そこへ水を流し込もうという方法でした。
 甚兵衛たちは庄屋の仲間は、何度も話し合い、その草案を持って江戸幕府に頼みに行きました。
 しかし、新・大和川の川筋に当たる地区の根強い反対運動にあって、中々工事まではいきませんでした。
 そして結局、幕府がこの川の付け替え工事を承認するまで、40年掛かりました。
 ・・40年、なんと長い嘆願運動でしょう。
 もはや、老年期に入った中甚兵衛さん。
 自らの人生のほぼすべてを使った嘆願運動でした。つづく

紙芝居:『金剛重光と宮大工「金剛組」』(その4最終回)

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 又、これは大変素晴らしい事ですが、四天王寺の年中行事であり、金剛組の仕事始め儀式「四天王寺手斧(ちょんな)始め式」が、大阪無形民俗文化財となりました。
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そて、この絵は現代の「金剛組大阪本店」玄関前に正装した宮大工達です。
 その昔、聖徳太子より「この国の平和の象徴である四天王寺に五重塔を建てて、末永く守ってもらいたい!」と言われて1400年。
形は現代の様式に変わりましたが、世界で一番古いと言われている会社組織「金剛組」は、今も日本国中の寺社仏閣建築に携わり、経営活動されているのです。おしまい

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