住職のつぼやき[管理用]

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天神橋筋商店街を歩く

 雨の日が続くと、健康を取り戻す為に始めたウォーキングが実行できない。
 そこで先日、長いアーケード(南北2.6キロ)で、雨の日でも傘を差さずに歩ける「天神橋筋商店街六丁目から一丁目」までを(地下鉄の『天六』で降りてから『天満橋』まで)歩いて来た。
 よくも、まぁこんな長い商店街を作ったもんだと感心しつつ、水筒片手に、美味しそうな食い倒れのお店をゆっくり眺めて歩いた。(特にお寿司屋さんや、ラーメン屋さんが多かったな・・)
 面白かったのは、『生きたフクロウを眺めながら休める喫茶店』や、天満で見た『水陸両用の観光バス』が出発するところだった。(お客さんは中国の観光客が多かったみたい・・。でも、これ一遍、乗ってみたい。道路と川を行ったり来たりするみたいだ。今度、予約して乗ってみよう。)
 大阪下町の商店街の中で育った僕としては、懐かしく楽しいウォーキングだった。
 

紙芝居一覧表

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 [紙芝居一覧表]を、新たに書き出し整理してみた。
 平成八年の六月から作り始めた紙芝居。
 今年で19年になる。
 一番初めに作った(文学もの)『くもの糸』から、一番新しい142作目の(僧侶もの)『安居院 聖覚さま』まで、書き出してみると、「よくもまぁ、こんなに作ったもんだ。」と我ながら呆れた。

 さて、後、何作品作れるだろうか?
 

人の仕事の価値について

 僕は『人の(仕事の)価値』について、勝手な基準を持っている。
 僕の『人の価値基準』は、「自分の仕事が好きでたまらん!」と言う人が、人として『最高得点を持っている!』と思っているのだ。
 自分の仕事を好きでやっている人は、見ていれば解る。
 そういう人が(他人がどう評価をしようが、)僕は好きなのだ。
 自分の仕事に、情熱を持ってやっている人は、仕事内容に工夫がある。情熱がある。そして、自分が一番喜んで楽しんでやっている。
 そういう人とお話していると、こっちも嬉しくなり、生きる力が沸いてくる。
 ・・どんな内容の仕事でも良いのだ。
 僕は、そんな誇りを持っている人たちと、お付き合いしてより好く生きていきたいのだ。
 

宗教の違い、『アッシジのフランチェスコ』の話をもう少し・・

 もちろん、僕は仏教の僧侶なのだが・・。
 『アッシジのフランチェスコ』を調べれば調べるほど、[宗教]というものは(大局からを見れば、語っていることは)、仏教もキリスト教も「よく似ているな」と思った。
 フランチェスコは、キリスト教圏に生まれたから、キリスト教になったのだろうが、仏教圏に生まれれば、仏教徒になっていたかもしれない。

 話は変わるが、おそらく(僕のそんな性格を)知っていてだろうが、大阪の[キリスト教病院]のホスピス病棟から[紙芝居法話]を依頼されたことがある。
 その時、連絡を下さった担当の看護師さんに「キリスト教の病院に仏教の坊主が、法話に行っても良いのですか?」と聞いたことがある。
 その時は「はい、結構です。キリスト教の病院ですが、入院をされている方は[仏教]の方ばかりなので・・。好きにしゃべって下さい。信頼してますので。」と答えられた。(信頼してますと云われたので、アホなことは言えんかったが[笑い])
 そんなものだろう・・と思う。
 キリスト教と仏教、確かに違うが、目くじらを立てて睨むのはたいてい宗教者だけで、「心の安らぎ」を求めておられる方は、何宗でも何教でも良いのだ。
 確かに、そこに付け込む[悪い宗教団体]や[霊感商法]のやからはあるが、そこは、お互い信頼関係が一番大切なのだろう・・と思う。
 そういう・・ものだろう。

夢のはなし

 これは、あくまでも僕の『夢の話』である。

 僕は、今年の三月に『脳内出血』のよる緊急手術をした。
 それは、四時間掛かった手術だった。
 全身麻酔をする直前まで意識があったので、今でも『その事』は、はっきりと覚えている。
 麻酔をして意識を失った僕は、夢を見た。
 砂漠を歩いているのだ。(後で思ったのだが、花畑ではなく、三途の川もなかった)
 その内、目の前に『万里の長城』の規模を小さくしたような壁が見えた。
 僕は、まっすぐに行かねばと思った。
 が、壁が邪魔である。
 「右側から行けば良い」と思って行くと、上から『丸太ん棒』が落ちて来て邪魔をする。
 僕は「危ないなぁ・・」と思って、今度は左側に行くと、又同じこと。
 それで上を見ると、僕の小学校の時に死に別れた『お爺ちゃんとお婆ちゃん』と知らないおっちゃんの三人がいる。(なぜか、父は居なかった。[笑])
 祖父母は、何も言わないで笑っている。
 僕は「お婆ちゃーん、お爺ちゃーん」と大きな声で呼ぶが、笑っているだけ何も言ってくれない。
 僕は、もっと大きな声で呼んだ。
 その内「おばあちゃーん!」という声が、「宮本さーん!」という声に変わって、僕は『うるさいなぁ』と思って、目を開けたら、そこは手術室で、五・六人のドクターが居て僕の名前を呼んでいたのである。
 そして「ああっ良かった。手術は成功しましたよ」とドクターは言ってくれて、その続きの話は、このブログにも書いてきた。
 もう一度言う。
 これは夢の話なのだが、ご先祖様というものは、(有り難いことなのだが)ずっと子孫のことを心配しているのであろうか?・・又、もう一人いた謎の人って誰?
 そして、あの壁の向こう側には、何があるんや?(僕が良くお話してる極楽浄土か?)
 それとも・・?
 

 

思えば、色んな事をやり過ぎたか・・

 ふと、『なぜこんな大病になったのかなぁ?』と、思ったのだが・・(息子にも言われたのだが、)考えてみたら、いろんなことをやり過ぎたのかもしれない。
 『お寺の出前』は、『呼ばれれば、断らない!』と、いうことをモットーとしていたので、・・とにかく、仕事以外の時間は、みんな『出前』に使った。

 老人ホームや地域の老人会などへは、紙芝居「二つの墓穴」や「三尺三寸の箸」などを持って、『老いても生きがいを持つ』をテーマにお話し、

 病院やホスピスなどへは、紙芝居「子供を亡くしたゴータミー」などを持って、『生きること、そして死ぬという事』をテーマに(患者さんや看護師さんなどへ)お話してきた。

 会社の研修には現役のサラリーマンへ、紙芝居「サイオウの馬」などを持って、『運命なんてクソくらえ!誰がなんと言うと、人間らしく自分らしく生きる』をテーマにお話し、

 学童保育には、紙芝居「幸福の王子」や「でんでんむしの悲しみ」を持って、『命の教育やいじめ』について、子供たちにお話した。

 そしてもちろん、お招き頂いたお寺には、紙芝居「おしゃかさま物語」や「アミダブツ物語」などの仏教説話をお話し、『宗教の基本は、皆が幸せになることである』と主張してきた。

 また、最近では、お寺に観光バスで来て下さるお客さまにも『仏教説話』の紙芝居もしていた。

 そしてその間、お寺の法要行事や檀家参りに人生相談、法事・お葬式、寺の掃除に運営会計計算と、全部一人でやって来た。
 おお、そして『紙芝居』の新作も作ってた作ってた。その数、140本!(今、141本目を作っている)
 こりゃ、病気になるわぁ。(息子に言わせると、「一人で五人分働いている」と言われた)
 妻には「それだけ働いているんやから、いつ死んでも悔いはないよね。私は諦めているよ」と言われてきた。

 でも、仏さまから『むちゃすんな。ここらでストップ、ザモーメント!おまえにはもうちょっと生きててもらわなあかん』とお声がかかって病気になったのであろう・・と思う。

 あと、どれぐらい生きれるかわからないが、自分自身の生き方を、もうちょっとここらで方向転換して考え、そして見つめなおしてみたい。
 
 

男の料理

 先日、河南町が実施している『男の料理教室』へ行って来た。
 ・・それは入院をした時、同室の患者さんから、『男でも料理が出きんとあかんなぁ・・嫁さんが逆に入院した時、ほんまに困るぞー。』と、聞いたためだ。
 いるいる、教室には60代70代の「わしは、包丁も握ったことがない!」というおっちゃん連中が。
 さすが、50代前半のおっちゃんは僕だけだったが・・。
 女の先生に「あぁぁぁっ、あぶなぁ・・、包丁握ってはる姿をみたら、冷や冷やするわ。」と言われながら、なんとかナスビ料理ができました。
 味は、まぁまぁ・・やったかな。
 でも、料理って[切る]・[煮る]・そして[後片付け]が、基本であることが、何とかわかった気がした。

病院の一人部屋について

 ・・前回は、僕が救急車で運ばれた病院の[六人部屋=大部屋]での[人間模様]について書いたが、今回はその次に移った『リハビリ病院』の部屋について書く。

 はっきり言って、僕は[大部屋]の人間関係のややこしさには懲りていたので、リハビリ病院の時は、是非[個室の病室]が良いと願った。
 しかし、中には患者仲間から「宮本さん、個室の病室は、お化けが出て気味悪いから、絶対[大部屋]がええよ。」と言われた。
 ・・が、僕は「お化けなんか、どうでもよい。生きてる人間の方が、よっほどややこしいから嫌だ・・。」と思っていたので、[個室]をお願いしたら、運良く部屋が空いていて、(家族もそれを了承してくれたので)入室させてもらった。
 
 そして、個室に入室した次の日の朝、看護師さんが心配そうに、僕に「・・よく寝れましたか?・・みんな最初は眠れなかったと言われるのですが・・」と聞かれた。
 僕は「ぐっすり、眠れました。前にいた病院の二十日間分眠れましたよ。」と答えた。
 「・・それは良かった。」と、看護師さんは言ってくれたのだが、奥歯にまだ物が挟まったような、まだ何か言いたげな感じだったので、例の[お化け出現]の事かな?と思い、「あああ、大丈夫です。僕、お寺の坊主ですので、全然こわくなかったですよ。もう、めちゃめちゃ熟睡できました。・・お化けよりも生きてる人の方が怖いですから。」と言ったら、「安心しました。」と言って笑って、いろんな⁈超常現象談をしてくれた。
 どうやら、看護師さんも、そんなことを気にされていることがよーく解った。
 結果的に、まぁそれで、退院まで(お化けにも合わず(笑))、僕は快適に過ごさせていただいたのである。
 
 

「中外日報」に載ったものの・・

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 僕がまだ入院中(4月4日号)に、「中外日報」という宗教新聞の一面に、『寺を飛び出し 教え伝える ~老人ホームで紙芝居 不安に耳を傾ける~』という題名の記事が載った。
 それは、僕が『寺を飛び出せない』時に掲載されたもので(取材は去年の12月頃だったか⁉)、何とも皮肉なものとなった。
 ・・でも、第一面に載ったので、「よし、又頑張ろう!」と僕を元気づけるものとなった。
 
 「妻が新聞に載ったでー!」と言って、病院まで持ってきてくれたので、看護師さんに新聞記事をもじって、『寺を飛び出し 病院に入る ~不安だ、誰か耳を傾けて~』に題名を変えてくれへんかなぁ。」と言って笑っていた。
 
 

自分の中の[善]と[悪]と[普通]

 この一か月間、ずっと『ジキル博士とハイド氏』という(人間の心の闇をテーマにした)紙芝居の制作を続けているのだが・・。
 ・・それでその間、絵を描きながら、又、セリフや文章を考えながら生活していると、僕自身が紙芝居の世界に入り込み過ぎ、今の僕ははたして「ジキル(善)なのか?ハイド(悪)なのか?」とばかり考え込んでしまって・・。
 もともと、僕は「内気な目立ちたがり屋」のような二重人格的性格なので(笑い)、このお話には入りやすい。
 だから、僕自身を投影しながら作っているのだが(ここも笑い)、それでもやはり人間の本質について、つい考え込み過ぎてしまう。
 すでにこの紙芝居は、もう95パーセントは完成しているので、そろそろ、このお話の世界から抜け出せると思っているのだが、・・今のところ僕は、このお話は[善]と[悪]をテーマにしたものではなく、[普通]と[悪=欲]を主題にしたものではなかったか?とも思っている。(原作者のスティーブンソン氏が聞かれれば苦笑されるだろうが。)
 [善]という言葉をそのまま使えば、それは[偽善]になるような・。だからそれは[普通]なのだ。
 つまり、ジキル博士は[善]ではなく、[普通]だったのではないか?
 [普通]と[欲]の対立・・とした方が、今の僕にはしっくりいく。

 ・・でもでも待てよ、[悪=欲]の行動そのものにも、善(=普通の言い訳)的要素が含まれているような気もするので、これもやはり[欲]と[普通]の対立ではなく、ただの[普通]の心の動きの話のような。・・ああ、訳がわからん様になって来た。

 そう考えれば、このお話は、極、普通の人の話となる。
 
 紙芝居『ごく普通人 ジキルとハイド』という題名に変えようかなぁ。・・いや『みんなのジキルとハイド』の方が楽しいか。待てよ、「あなたもジキル、私もハイド」がいいかなぁ~。(笑)

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