住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『万能の天才レオナルドダビンチ』(その1)

(はじめに)
 この紙芝居は、大学病院の病室で入院中に作ったものである。(令和5年2月21日から3月4日までの間)
 ある時は手術の後の苦しさ痛さに眠れず、それを誤魔化す為に真夜中に、スマホの灯りで絵を描いた。(たまに見つかって看護師さんに叱られた)それで、結構絵が雑になった。(彩色は退院してから塗った。)
 何故、ダビンチを描いたのかというと、僕を執刀して下さったのが、主治医T先生と医療チームの先生方、そして『ダビンチ』という名のロボット手術機なので、改めてこの名前の偉人に興味を持ち、スケッチブックを使ってベッドの中で、スマホで調べて紙芝居にして描いてみた。
それでは、波乱の人生レオナルドダビンチの半生のはじまり、始まりー。
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有名な絵画『モナリザ』の作者で知られる「レオナルドダビンチ」。
彼は15世紀(日本の室町時代)、イタリアの小さな「ダビンチ村」で生まれました。
レオナルドは絵画の才能だけでなく、楽器の演奏、制作もでき、軍事技術、建築、舞台の演出、そして人体の解剖学など幅広い分野でその才能を発揮して、のちに「万能の天才」と呼ばれました。
がしかし、絵画や彫刻の依頼を受けても最後まで完成出来ず、ほとんどの作品は「ちゅーと半端」に終わり、晩年彼は「私はまだ何もしていない」とぼやいたり、その孤独な性格から「私には友達がいない」と落ち込んだりしました。
それでは、ルネサンス期の巨人・ダビンチの生涯の始まり、はじまりー。
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レオナルドダビンチは、イタリアで生まれました。
そのイタリアの文化都市[フィレンツェ]、そして大都市[ミラノ]で才能を発揮して最後は、フランスで亡くなりました。
ダビンチは生涯独身で、旅から旅の人生を送りました。
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レオナルドの父はお金持ちの公証人でした。
が、母は貧しい家の娘。
それで父と正式な結婚はできず、レオナルドが生まれても、一緒に住む事はできませんでした。(蓮如さんに似てるなぁ)
やがて父は他の女性と結婚し、母も他の男性と結婚しました。
一人ぼっちになったレオナルドは、祖父に預けられ親族によって育てられました。
レオナルドの叔父は、そんな彼を大事にして、大変可愛がりました。
自然の生き物を深く観察する大切さを教えたのは、叔父の影響だと伝わっています。こんなレオナルドを母は、星飛雄馬の姉のようにそっと見守っていたようです。
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祖父の家で13才にまで育ったレオナルド。
「こいつは絵画の才がある」とレオナルドの才能に気づいた父は、芸術都市フィレンツェに連れ行き、そこの芸術家工房に預け弟子入りさせました。
そこで、彼は下積みの仕事から、イベントの出し物の制作、そして彫刻から絵画の基礎まで学んだのでした。つづく

紙芝居:『僕のダビンチ手術体験記』(後編)

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「そう、あの万能の天才「レオナルドダビンチ」から名前をとった手術機ですよ。アメリカの開発会社がそう付けたのです。」と先生は言われた。
偉人好きの僕はそれを聞いて、「その偉大な名前の手術機で是非僕の手術もお願いします」とお頼みした。
そして手術の説明や順番を待ち、もちろんリスクも聞いて、僕のダビンチ手術の日は令和5年2月24日に決まって手術は始まった。
手術室は大きく手術スタッフは10名以上は居られた。又、部屋の端っこに例の「ダビンチ」機は(映画ロボコップの敵型ロボのように)どっしり待機していた。「僕はまだ全身麻酔が効いていなかったので、その目で回りをしっかり眺めて、その景色を覚えていた。・・が、あっという間に意識は遠のいた。
 「宮本さん、手術は成功しましたよー」という主治医の先生の声に目を覚ましたのが、5時間後。まだ、麻酔が効いているのか痛みは無かった。
その日は集中治療室で一泊。(痛みが始まり、この日が一番しんどかった。)
次の日からは一般病棟へ移動。そして、身体中のコードを抜いて、3日目からリハビリの開始。そして、一週間後に無事退院となった。(早っ!・・が、まだ身体はしんどい。一ヶ月は安静にしなければならないらしい。が、心臓はドックドックと言い、もうシューとは言ってない。すごい。しかも血液の輸血もしなかったそうだ・・。ダビンチ恐るべし!)
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僕は思う。もし、あの『レオナルドダビンチ』の霊魂がこの世に現れ、このロボット機と出会ったら、どう思うだろう?
「人の命を救う神の手として、私の名前を使ってくれて大変嬉しく思う・・が、私はもっと俗っぽい人間だったのだがな・・はっはっはっ」と笑ったのではなかろうか。(その俗っぽさと偉大さは、次の人間「レオナルドダビンチ」の紙芝居で描かせて頂きます。その作品も病棟で描きました。)
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未来の医療機の名前にも使われる偉大な名前ダビンチ。
この名前だったからこそ、僕はすぐ手術をお願いしたような気がする。
なにわともあれ、ダビンチと医療スタッフの先生方のお力によって、私の命は助かった。この命を大事に使わせていただきます。大学病院の先生、そして医療スタッフの皆さま、本当にお世話になりありがとうございました。合掌。おしまい

紙芝居:『僕のダビンチ手術体験記』(前編)

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令和5年2月、僕は『僧帽弁閉鎖(そうぼうべんへいさ)不全症」という、心臓の病気(心臓弁膜症)になり手術をした。
・・これは、結構大きな手術であった。
お陰様で手術は成功した。そして今はリハビリ中。ありがたい事である。
さて、今から発表するこの(2本の)紙芝居は手術も終わり、痛さと辛さを紛わす為に病室で何とか描いたものである。それでは、はじまり、はじまりー。
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・・月日は少し遡り、令和4年。
僕は河南町の町民健康診断で、「心雑音がします。心臓がシューシューと鳴り、ドックドックとなってません。精密検査を受けて下さい。」と言われ、地元の大病院からさらにセカンドオピニオンを経て、大阪天王寺の大学病院の検査を受ける事になった。
 以前から、すぐしんどくなって休む事が多かった僕は、この病気が原因なのであった。
 大学病院の先生は言われた。
「僧帽弁とは、お坊さんの帽子のような形をした弁膜の事。これが切れています。血液が逆流し、はっきり言って重症です。そのままほっておくと心不全になり命の保証はできません。手術しか治す方法がありません。」と言われた。
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大学病院の(のち)僕の主治医となったT先生はこう言われた。
「この病気の手術は、ひと昔前は胸と骨を切って、心臓を直接治すしかなかったのですが、今は大きく切らず、小さな穴を何箇所か開けてロボットアームを挿入して遠隔手術をする方法があります。このロボット手術機を使うと出血も少なく回復も速いのです。・・これを[ダビンチ]ロボット手術と言います。」と言われた。
「ええ、ダビンチ!?」 続く

紙芝居:『泳げ!夢応の鯉魚』(その3 最終回)

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「・・私は、高熱であまりの苦しさに気を失い、気がつくと私の魂は身体を離れ、なんと琵琶湖の辺りに立っておりました。
そこで私は裸になり湖に飛び込んだのです。
・・初めて泳いだ湖の底。とっても気持ちが良いものです。
その時、魚の神様が突然現れて、私に話しかけられたのです。
「ギョギョ、いつも我々を助けてくださって、ありがとうギョざいます。そのギョ恩に報いる為に、この金色の鯉の着物を差し上ギョます。・・ただし、釣り針には気をつけてくださいね。ギョギョギョー」と。
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それから、金色の鯉になった私は、この大きな琵琶湖の素晴らしい景色を味わい堪能して泳ぎ回りました。
しかし、あまりにお腹が空きすぎて、目玉がぐるぐる回っちゃい、たまにはエビでも食べなけりゃ、淡水ばかりじゃふやけてしまう〜。と、私は鼻歌を歌いながら、目の前のエビにかぶりついたのです。
・・が、それは小さな釣り針でした。
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・・やっぱり私は坊さんです。
少しクセある坊さんです。
釣り上げた漁師は喜んで料理人に手渡し、私はあなた方の宴会の席で、切られようとしたその瞬間、私は布団の中で目が覚めたのです。
 ・・が、これは夢か誠かわからぬので、あなた方においで頂き、お尋ねしたという事なのです。申し訳ございませんでした。・・でもこれで、あれは誠の事とであったとハッキリいたしました。ありがとうございました。合掌」
「・・おおー、これは何と不思議な話じゃろうか!我ら、今すぐ帰りましたら、食べずに置いたあのお刺身を湖に返すといたしましょう。」と言いつつ帰って行きました。
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その後、この興義というお坊さんは、ずいぶんと長生きをされ、さらに絵をたくさん描き幸せに暮らされたという事です。
・・ただ、このお坊さんの描いた鯉の絵は、いつの間にか絵の中からみんな逃げ出してしまい、今では一枚も残っていないという事です。おしまい

紙芝居:『泳げ!夢応の鯉魚』(その2)

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そんなある日の事。
興義は重い病気になりました。
そして、あっという間に亡くなってしまいました。
ただ、その遺体は息はしていないのですが、胸のあたりがまだ暖かいのです。
それで、弟子達は不思議に思い、埋葬せずに大事に寝かしておきました。
すると、三日目に・・・、
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突然、興義は息を吹き返し、布団から起き上がり、弟子達にこう言ったのです。
「おい、誰か!今すぐ、檀家の平(たいら)の助(すけ)殿の屋敷に行って、皆に『今すぐお寺に来てくだされ』と伝えてはくれんか!」と言いました。
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「急に何事ですか!?この宴会の途中に・・」と言って、平の助殿の皆は弟子の知らせを受けてお寺に集まりました。
そして、布団の中で興義はまず、皆に無礼を謝りこう話し出したのです。
「皆様、今から私は突拍子もない事を申しますが、どうかお許しください。
最初に・・平様、貴方さまは本日、宴会の為に、漁師から大きな金色の鯉を買われたのではありませんか?」
「ああ、はい。その通りでございます。」と不思議そうに答えました。
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そして興義は言い続けました。
「・・その鯉が来た時、お二人は囲碁をされ、もう一人は桃の実をかじりながらそれを見ておられた。」
「はい、全くその通りです。金田一興義探偵。」
「そこへ料理人が包丁を持って『おお、これは立派な鯉じゃ!お刺身にしましょう。』と言われた。・・そうですね。」
「はい、その通りです。でも何故?あなた様はまるで見た来たように知っておられるのですか?」
「その訳を今から、お話ししましょう。実は・・」つづく

紙芝居:『泳げ!夢応(むおう)の鯉魚(りぎょ)』[雨月物語]より(その1)

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(上田秋成作「雨月物語」より)
昔むかしの物語。
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滋賀の三井寺というお寺に、[興義(こうぎ)]という名前の大変絵の上手なお坊さんがいました。
「ああ、毎日毎日、ワシらは仏殿の、修行に明け暮れ、いやになっちゃうよ〜。」と、こんなお坊さんでしたので、暇を見つけては絵ばかり描いておりました。
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ただし、このお坊さんの描くのは、魚の絵で、それも鯉を好んで描くのでした。
又、その絵を描く方法も独特で、漁師が琵琶湖で釣って来た鯉を買い求め、絵を描いたのち、「もう捕まるなよ。」と言って、元の琵琶湖に返すのでした。
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ある日、この興義というお坊さんは、不思議な夢を見ました。
それは、自分が鯉になって自由に琵琶湖を泳ぎ回る夢でした。
興義は、その夢を絵にして、『夢応の鯉魚(むおうのりぎょ)』(夢で応えた鯉)と名付けて大切にしました。つづく

紙芝居:『新・身代わり泣き不動さま』(その4 最終回)

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「押すなよ!絶対に押すなよー、三途の河に落ちるからな!」てな事を言いながら、証空に化けた(燃えない着物を被った)お不動様は、鬼達に連れられて閻魔大王の前にやって来ました。
 閻魔大王は言われました。
「これ、証空とやら。そちは何故、ここに来たのか?さぁ答えてみよ!」と言って、その着物を剥がしてみると・・
「あっちゃー!」とびっくり!
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「これは、なんと!お不動様ではございませんか!・・申し訳ございません。何かの間違えで!・・えっ〜、『証空の身代わりになってここまで来た』と、それはそれは、涙ぐましいお心持ちで!・・ええい、このバカ鬼どもめ、ずが高い!すぐにお縄をお解きし、皆で土下座じゃ!申し訳御座いませんでしたー。そしてお茶、お茶じゃ!」と、てんやわんやです。
 鬼達は叱られ損で「俺たち、聞いてないよ〜」と嘆いています。
 そしてすぐにお不動さまに、仏の世界に丁重に帰って頂きました。
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やがてこのお話は、広く世に伝わり、掛軸のお不動様は『身代わり泣き不動』というお名前で呼ばれるようになりました。
さらに、このお不動さまをモデルにした仏像も作られ、今も京都の清浄華院というお寺にまつられています。めでたし、めでたし。おしまい
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(清浄華院で頂いてきたお不動さまの御絵の写し)

紙芝居:『新・身代わり泣き不動さま』(その3)

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弟子の証空は、高熱にうなされて倒れてしまいました。
そのあまりの苦しさで、証空は思わず自分の信仰しているお不動さまの掛け軸に向かって、
「ああっお不動さま・・。私はお上人の身代わりになった事に後悔はしていません。
・・しかし、これほどこの病いが苦しいとは思いませんでした。
お不動さま、どうか早くこの命を終わらせて、あの世に連れて逝って下さい。お願い致します。」と呟きました。
すると不思議な事に、お不動さまの掛け軸が、バラリッと落ちました。
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そしてその瞬間、証空の熱はいっぺんに下がり、彼は元気を取り戻したのです。
不思議に思って、証空はその落ちたお不動さまの掛け軸を見てみると、
 するとなんと、お不動様が泣いていらっしゃるのです。
 その時、不思議な事にそのお不動さまは、証空に話しかけてこられました。
『証空よ、お前のその優しい心掛けに、私は猛烈に感動した。
 お前は智興の身代わりを引き受けたから、今度は私が、お前の身代わりになってやろう!』と、言われました。
 そして、掛け軸からお不動さまは消えました。
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 こうして、智興上人も証空も、病いを克服して元気になり、その後も長生きされ、世の為、人の為に尽くされたという事です。
めでたし、めでたし・・、いや、ちょっと待ってください。
大事なお方の事を忘れていました。
そうです。証空の身代わりになったお不動さまです。
掛け軸から消えたあのお不動様は、いったいどうなったでしょうか?!
その証空達が元気をになったその頃・・、つづく

紙芝居:『新・身代わり泣き不動さま』(その2)

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安倍晴明はお寺にやって来て、何やら不思議な呪文を称えお祈りを始めました。
そしてやがて口を開きました。
「うーん、これは私にも治すことは出来ません。
この病気には、身代わりが必要なのです。
・・智興上人のご病気を、私の呪文で誰か他の人に移します。
この方法でお上人は治ります。
・・ただし、移された身代わりの人は、同じ病気になって苦しんで亡くなります。
この方法しかありません。」と晴明はきっぱりと言いました。
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弟子達の会議が又始まりました。
「さぁどうする?誰かお上人の身代わりになる者はおらぬか?」と一番弟子が言いました。
・・が、皆は同じ病気で苦しんで、亡くなるのが恐ろしくて、誰も手を上げません。
見るに見かねた一番弟子は、「・・では仕方がない。私が身代わりになるとしよう。」と言うと、
二番弟子が、「いやいや兄弟子、私が身代わりになりましょう。」と言いました。
 それを見た三番弟子、四番弟子も同じ事を言います。
 すると、末席に居た[証空(しょうくう)]という新米弟子が、そぉっと手を挙げて、「この中では、私が一番若い弟子なので、私が身代わりになります。」とボソッと呟きました。
すると皆は・・、
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「どうぞ、どうぞ、どうぞ!」と、身代わりの役を喜んで譲りました。
「ちっくしょう、」
こうして証空は、智興上人の身代わりになったのでした。

※余談ですが、この紙芝居を企画していた昨年の春に、ダチョウ倶楽部の上島さんが亡くなったとニュースが流れた。ファンの僕は悲しくて、誰も傷つけず、いつも自分が犠牲になってお客を笑わせてくれたこの芸人さんのギャグを紙芝居の中でも使いたいと思い(そういえば、以前も紙芝居「ダンテの神曲」で[くるりんパ]を一度使わせて頂いたが、)不謹慎ながら今回も使わせてもらいました。上島さんのご冥福をお念じ申し上げます。合掌
 
そしてその後、安倍晴明が呪文を掛けて、智興上人はみるみる内に元気を回復しました。
が、しかし・・、つづく

紙芝居:『新・身代わり泣き不動さま』(その1)

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「お不動さん」の名で親しまれる不動明王(ふどうみょうおう)。
 炎を背負い、悪を許さぬ剣を持ち、怒りの表情で我々をしっかり守ってくださる仏様です。
 おや?・・このお不動さま、目に涙を溜めて泣いていらっしゃる。
 何故でしょう?
 実はこのお不動さま『身代わり泣き不動明王』という名で、滋賀県は三井寺のお話に登場される仏様なのです。
 そして現在では、京都の清浄華院に(絵が)祀られています。
 それでは、この不思議なお不動さまのお話を聞いて頂きましょう。
はじまり、はじまり〜
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 昔むかし、滋賀県の三井寺というお寺に、「智興(ちこう)」という名の偉いお坊さんがおられました。
 このお坊さんがある時、重い重い病気になりました。
そこで、お弟子さんが集まって「どうすれば良いか?」という話し合いが始まりました。
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まず、一番弟子が口を開きました。
「これだけ我々がお祈りをしても治らないのだから、ここはひとつ、あの評判の陰陽師「安倍晴明(あべのせいめい)」殿に来て頂き、ご祈祷としていただこうではないか!」と言いました。
 皆はこれに賛成し、安倍晴明はやって来ました。つづく
 
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(京都市『清浄華院(しょうじょうけいん)』)

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