住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『華岡青洲物語』(その2)

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華岡青洲の少年時代(雲平[うんぺい]と言います)のエピソードを一つ紹介します。
 ある日、雲平は田んぼの畦道で大金の入ったサイフを拾います。
雲平は『きっと落とし主が探しにやって来るだろう』と、その場で夕方まで待っています。
やがて、その落とし主が必死の形相で現れたので、「おじさん、どうしたの?」と、雲平はまず聞いて、訳を聞くと、まずサイフの形や中身の金額を聞き、間違いないと思ったのでその場でサイフを渡し、何も言わず帰ったそうです。
「帰りが遅い!」と心配していた父は、息子にその訳を聞き、『こいつは立派な者になるに違いない!」と大層喜んだそうです。
が、それを後で聞いた村の人達は「馬鹿正直な奴」と影で噂したそうです。
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やがて大きくなった青洲は、「医学修行の為に京都に行きたい!」と言い出します。
が、貧乏な華岡家はお金がありません。
そこで金策の為、母や妹達は織り物をしてお金を作り学費にします。
青洲はそんな家族に手を合わせて涙して感謝し、医学修行を励みます。
こうして彼は家族の期待を背負い、西洋医学(主に外科)を懸命に学ぶのでした。
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やがて京都で三年の医学修行を終えて、青洲は評判の良い医者になり、和歌山に帰って来ます。
が、そこで待っていたのは悲しい現実でした。
兄の為と織り物をし、懸命に働いた妹の一人が乳がんになって倒れてしまうのです。
「兄さん、外科の手術で私を助けて!」と妹は頼みますが、まだ手術の為の麻酔薬がありません。
麻酔薬が無ければあまりの痛さの為に手術はできません。
そして妹は手術ができずに亡くなってしまいました。
青洲は泣きながら、「悪い所は切り取れば治る。が、その為には麻酔薬がいる。‥私は何としても麻酔薬を開発する!」と固く誓うのでした。
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(自宅内は記念館になっている)
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(記念館内の機織り機)
つづく

紙芝居:『華岡青洲(はなおかせいしゅう)物語』(その1)

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昔むかしのお話。
江戸時代の紀州、和歌山。
このお話はこの地で、世界で初めて麻酔薬を使って手術をして、多くの患者の命を救ったお医者さん『華岡青洲』とその家族のお話です。
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さて、まずは『華岡家』のご先祖様(ルーツ)のお話から・・。
 華岡家は、ずうっと昔から和歌山で暮らしていたのではありません。
その昔、華岡家の先祖は大阪は『富田林』は(中野村)という所で暮らしていました。
この家は、河内の国、楠木正成という武将の一族だったのです。
・・がしかし、戦さで楠木家も滅び、一族で和歌山へと引っ越したのです。
 そこで、この先祖はお医者さんを始めました。
この物語の主人公、華岡青洲はその子孫なのでした。
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和歌山の(平山、今の紀州市)で、医院を開業した華岡家でしたが、田舎の医院でもあり、華岡家は家族も多く大変貧乏でした。
医者の父と母、そして長男の青洲(子供の頃は雲平と呼ばれていました).、そして妹たちや弟などの大家族でした。
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(和歌山県・華岡青洲宅・春林軒)
つづく

紙芝居:『二人の衣通姫(そとおりひめ)』(その4最終回)

『古事記』(後編)
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そして四国の愛媛にて、衣通姫は軽王子と無事再会します。
ここで、ようやく二人は世間の目を気にせず、これからひっそりと暮らしていけると思いました。
・・、がしかし、
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都では、
『流罪となった軽王子が復讐の為、四国の軍隊を率いて、都に攻め登って来る!』との噂が流れておりました。
それを恐れた弟の安穂の王子は、都の軍隊を引き連れて、四国へ向かって攻める準備をしていました。
 この噂を聞いた軽王子は自決を決意しました。
「私がこの地で生きている限り、戦争が起こり、多くの人たちに迷惑が掛かるだろう。
だから私は自決する事にする。その方が良いのじゃ・・。衣通姫、そなたはどうする?」と言うと、
「私は貴方がいなければ、生きてゆけません。私もお供いたします。」と言いました。
そして二人は自殺しました。
これが、日本史上最初の心中事件といわれています。
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こうして、禁断の愛に生きた衣通姫と軽王子は、悲劇的な終わりを告げました。
現在、愛媛県松山市の『軽の神社』には、二人のお墓と思われる石碑が二つ仲良く並んで祀られています。
・・がこれが、王子と姫のものかは、はっきりとはわかっていません。

 さて、この『二人の衣通姫』ですが、どちらの姫も絶世の美女で、どちらも悲劇的で、又どちらも不道徳な雰囲気を醸し出しているように感じます。
ひょっとすると、衣通姫というのほ、世の中が社会的モラルを打破したい願望の代名詞として、世間が名付けた名前であったのではないのでしょうか?・・・知らんけど。 おしまい

紙芝居:『二人の衣通姫(そとおりひめ)』(その3)

『古事記』(前編)
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 さて、こちらのお話も允恭(いんぎょう)天皇と皇后が登場します。
・・がしかし、衣通姫は皇后の妹ではなく、皇后の娘として登場するのです。
こちらの衣通姫も絶世の美女、いや美少女なのですが・・、
実の兄を愛してしまうのです。
いわゆる、禁断の恋でした。
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こちらの衣通姫には二人の兄さんがおりました。
長男は皇太子『軽王子(かるのみこ)』。
次男は『安穂王子(あなほのみこ)』と言いました。
妹の衣通姫は、長男の軽王子と恋に落ちるのです。
しかし、実の兄と妹との結婚は許されません。
やがて、この事が発覚して、父の天皇の怒りをかいました。
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そして軽王子は、皇太子の資格を剥奪され、四国の愛媛県へ流罪となりました。
その後、妹の衣通姫は泣いて暮らします。
その時の姫の歌が残っています。

『君がゆき、日(け)長くなりぬ造木(やまたず)の 迎えを行かむ 待つには待たじ。』
(意味)
「あなたが旅立たれて随分日が経ちました。私はあなたをお迎えに参りましょう。もう待てません。」という意味です。
 そして、今の天皇が亡くなった時、衣通姫は命を掛けて四国まで旅立つのです。つづく

紙芝居:『二人の衣通姫(そとおりひめ)』(その2)

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「日本書紀」(後編)
しかし、その秘密はやがて、皇后の知るところとなりました。
「ちょっと狩りに行って来る。」と言って、允恭天皇はこの日も出掛けようとすると、皇后が、
「・・動物にも、姉と妹があるでしょうに・・、かわいそうな事。」と言いました。
『ばっばっばれている・・』と、真っ青になった天皇は、
「そうだのう。・・これから動物の殺生は止める事にする・・」と言って、出掛けるのをやめました。
「その方が良いでしょうねぇ」と、皇后はキッパリと言い返しました。
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一方、衣通姫は・・、
「今日も、オオキミ(大王)は来ない!」と、茅渟の宮でずっと待ち続けていました。
・・がしかし、天皇が姿を現わすことはもうありませんでした。
そこで、衣通姫は歌を読んで、天皇の元に届けようと思いました。
『とこしえに、君もあへやも いさな取り、海の浜藻(はまも)の 寄る時々を』
(意味)
「海の浜藻が、岸辺に漂うように、たまにしかあなたは私に会ってくれません。寂しいですわ。」という意味でしょう。
しかしこの歌は、天皇の元には届いたのですが、皇后に知られたらいけないという配慮から、『見なかった事にしょう』とされたようです。
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そしてこの歌は、現在、泉佐野市上之郷『茅渟の宮跡』とされる、伝承地の石碑に彫られ祀られています。
そして、毎年春に宮跡を守る地域の人々によって、姫をしのぶまつりが行なわれているという事です。

これが『日本書紀』に登場した[衣通姫]の伝説です。

では、次に『古事記』の衣通姫のお話しをしましょう。つづく

紙芝居:『二人の衣通姫(そとおりひめ)』(その1)

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古代日本の国で、絶世の美女と言われた「衣通姫(そとおりひめ)」。
実はこの女性、『日本書紀』と『古事記』という二つの書物では、違った描かれ方がされているのです。
それでは、この紙芝居では『日本書紀』と『古事記』に分けて、二つの衣通姫のお話しをいたしましょう。はじまり、はじまり〜
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『日本書紀』(前編)
昔むかしの大昔。・・五世紀の前半の頃。
第19代允恭(いんぎょう)天皇が、日本を治めていた頃。
允恭天皇の奥様。つまり皇后様には、一人の美しい妹がおりました。
あまりにお美しいので、『衣(ころも)を通して光輝くようだ!』と、衣通姫と呼ばれておりました。
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ある日、允恭天皇は皇后が留守の時、妹の衣通姫を館に招き入れました。
そして、そのあまりの美しさに目がくらみ、姫と結ばれてしまいました。
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それからというもの、允恭天皇は皇后にわからぬように、茅渟(ちぬ)の里(今の泉佐野市上之郷あたり)に別邸の宮を建てて、
「ちょっと狩りに行って来る・・」と言っては、衣通姫に元に通ったのでした。つづく
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(現在の泉佐野市上之郷・茅渟の宮跡)

紙芝居:『岩橋善兵衛と伊能忠敬の望遠鏡』(後編)

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 この天文学者の二人も、善兵衛さんの望遠鏡を見て、その精巧さに大変驚きました。
 この一人、高橋至時さんの関東での弟子の一人が[伊能忠敬]だったのです。
 そして、天文学者の間重富さんは、望遠鏡に触れたその感動から、『岩橋善兵衛さま、是非、その望遠鏡を我々にも作ってもらえないでしょうか?よろしくお願いします。』と手紙を書いてお願いしました。
善兵衛さんは快諾しました。
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それから、江戸で仕事を始めた間重富さんと高橋至時さんは、「正確な日本地図を作るには、善兵衛さんの精密な望遠鏡が役に立つに違いない。」と地図の測量に旅に出る事になった[伊能忠敬]さんに、その望遠鏡を手渡したのでした。
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伊能忠敬さんは「これは素晴らしい望遠鏡だ!」と、大変喜んだそうです。
 こうして善兵衛さんの望遠鏡は、忠敬さんに渡り、正確な日本地図作成の大きな手助けになったという事なのです。
おしまい
※多少、作者の創作(フェクション)が入ってます。すみません。

紙芝居:『岩橋善兵衛と伊能忠敬の望遠鏡』(前編)

※(はじめに) このミニ作品は、196作『星に願いを〜岩崎善兵衛ものがたり』の番外編にあたる。
 これは、貝塚市の教育委員会の方が「岩橋善兵衛」さんを主人公にしたこの作品を小冊子にして、貝塚市の地元の子供達に配布したいと私のお寺に来られて頼まれたもので・・、
その時に、このお話に出てくる[伊能忠敬]公と善兵衛さんとの関係を、もうちょっと紙面でプラスしてもらえないかと頼まれ、作った[番外]作品なのである。(その時、チラッと言われたが、貝塚市長さんが千葉県『伊能忠敬記念館』へ挨拶の為に持って行きたいらしいので・・と言われた。話が大きくなって来たがこれは実現するかはわからない。)
 さて、この小冊子の話はもうすぐ実現するだろうが、その前にこの『番外編』を、私のホームページに一足先に載せたいと思う。
それでは、はじまり、はじまり〜
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 岩橋善兵衛さんが、精魂込めて作った天体望遠鏡。
 そしてその望遠鏡を持って、日本地図を完成させた伊能忠敬(いのうただたか)さん。
 お互い住む場所は、関西の[善兵衛]さんと関東の[忠敬]さんで離れてはいます。
 では、二人を結び付けたのは、いったい何だったのでしょう。
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 それでは、始めは善兵衛さんのお話からスタートしましょう。
 善兵衛さんは、自分の天体望遠鏡が完成して、とても嬉しかったのでしょう。
 それを持って、あちこちの有名な知識人のお屋敷を回って見せておりました。
 その一人が[木村蒹葭堂(きむらけんかどう]という町学者でした。
蒹葭堂さんは驚きました。・・だって、この望遠鏡という筒の小さな穴から空を覗けば、まるで星々が手に取るように見えるのですから。
蒹葭堂さんは言いました。
「善兵衛さん、その望遠鏡を一つ私にも分けて下さい。」
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そして、その望遠鏡を持った蒹葭堂さん。今度は星々に興味を持つ自分の親友たちにこの話をしました。
その親友というのが、[間 重富(はざましげとみ)]さんと、[高橋至時(たかはしよしとき)]さんでした。
彼等は当時、江戸幕府から任命され、[天文方]という改暦作業(使用している暦法を改める事)を、行う仕事をしておりました。
後編に続く

紙芝居:『知識の巨人 木村蒹葭堂』(その4最終回)

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・・が、しかし蒹葭堂の人生に最大の試練がやって来ます。
 蒹葭堂55才の時、酒屋の実務を任せていた手代(支配人)が、過失を犯して店を幕府によって、取り潰されてしまうのです。
そして、蒹葭堂も謹慎処分を言い渡されます。
 そして、蒹葭堂一家は三重県の伊勢に引っ越します。
・・が三年後、58才で再び大阪に帰って来て、今度は文具屋を開き繁盛させました。
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そして相変わらず途切れる事なく、来客は次から次へとやって来たそうです。
 のち蒹葭堂は67才で病いにかかり亡くなります。
 彼の集めたコレクター品は、その後幕府が預かることになり、のちこれらは日本の宝となっていきました。
 もの静かで欲が無く、コレクター品も「貸してくれ」と頼まれたら、喜んで貸したという、生涯一商人趣味の人で通した蒹葭堂。
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(大阪市天王寺区「大応寺」様)
日本の文化に大きな発展と功績を陰ながら残した蒹葭堂。
知識の巨人、木村蒹葭堂のお墓は現在、大阪市天王寺区の「大応寺」様に立っています。
そして彼の邸宅跡には、現在、巨大な図書館が建ち、知識の巨人の想いを彷彿させています。おしまい

紙芝居:『知識の巨人 木村蒹葭堂』(その3)

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「知識の巨人」・「なにわの大コレクター」いや「日の本のコレクター」の噂を聞いて、各分野の著名人や学者、又教養ある大名まで、蒹葭堂の屋敷に訪ねてやって来ます。
「わからない事があれば、蒹葭堂の屋敷に行けば何でも解るぞ!彼は謙虚な欲の無い教養人だ。彼に聞け!又、珍しい物がたくさんあって面白いぞ!」と言って、日本中の評判となり、人が集まって来ました。
彼が書き残した日記には、述べ9万人の来客者の名前が記録されています。
 それは今でいう[文化サロン]でした。
その客人の名前を少し上げて見ましょう。
医者の杉田玄白。作家の上田秋成。絵師の池大雅、伊藤若冲。学者の頼山陽、本居宣長・・、当時、超一流の文化人ばかりです。
「日の本を代表する文化人たちが、一町人の家に毎日やって来る!こんな嬉しい事があろうか!」と彼は充実した毎日を送った事でしょう。
そんな蒹葭堂の気持ちを歌にしましょう。
『ああ、嬉しいなぁ。一曲歌いたくなってきたぞ!
「♪知識人になったら、趣味人生になったら、友達100人出来るかな♪100人で呑みたいな〜、煎茶に売り物日本酒も、ごっくん、ごっくん、ごっくんと〜♪」』
そう、この当時で蒹葭堂のようにジャンルを問わず友達の多かった人はいないでしょう。
 「さぁ、皆で叫ぼう!『友達できたー!』と。つづく
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(大阪市天王寺区「大応寺」様)
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(「木村蒹葭堂墓」※墓石が崩れやすいのか?プラスチックカバーがしてありました)

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