昔むかしの鎌倉時代。
親鸞聖人が、関東から京都にお戻りになられた頃のお話。
第一部のお話から、15年の歳月が流れました。
さて前回、猟師(日野左衛門)の子であった〔松若〕は、仏縁遇って出家し、今は親鸞聖人にお仕えする若き僧侶となっておりました。そして、名も〔唯円房(ユイエンボウ)〕と名乗っていたのでした。
これは、その〔唯円房〕の恋のお話です。
はじまり、はじまりー。
(親鸞)「おーい、唯円や。・・唯円は居らぬか?」
と、お寺の中で親鸞聖人は(吉本新喜劇のはじまりのように)登場し、弟子の唯円を探すのでした。
(唯円)「あっ、はーい、お師匠さま。・・唯円はここにおります。」
(親鸞)「おおっ、唯円。そこにおったのか。何をボーっとしておるんじゃ。そろそろ、夕方のお勤めが始まる時間じゃぞ。」
(唯円)「あっ、そうでした。申し訳ございません。」
(唯円)「あの、お師匠さま。一つものをお尋ねしても、よろしゅうございますか?」
(親鸞)「なんじゃ、改まって。・・何か、言いにくい事か?」
(唯円)「はっはい。・・恋とは、どのようなものでございましょうか?」
(親鸞)「えぇっ。・・う~ん、そうじゃなぁ・・甘くてすっぱい初恋の味『カルピス』のようなもんじゃ。」・・とは言わず、こう言われました。
(又又、親鸞)「恋とはな、『苦しいもの』じゃ。『罪にからまった』ものじゃ。・・この世で罪を作らぬ恋はない。」
(唯円)「・・では、恋はしてはいけないものですか?」
(親鸞)「いけなくても、誰でも一度は恋をする。《関所》のようなもんじゃな。・・まじめにこの関所にぶつかれば、人は《運命》を知る。
浮いた心で向かえば、ぐうたらになる。」
(唯円)「では、《恋》と《信心》とは、一致するものですか?」
(親鸞)「恋は、信心に入る《通路》だと、わしは思っておる。
恋する時、人は不思議に純粋になる。
つきつめれば、皆、《宗教的意識》になるのじゃ。」
(唯円)「では、私も恋をしても良いのですね。」
(親鸞)「・・どうやら、お前は恋をしておるようじゃな。
わしは、良いとも悪いとも言わん。
・・が、ただし、恋をする時は『一筋』でやれ。
・・わしが言えるのはそれだけじゃ。」
(唯円)「はいっ、お師匠さま。」
(親鸞)「よしよし、では夕方のお勤めに参ろうぞ。皆、待っておるぞ。」
(唯円)「はいっ。」
さぁて、何やら、大事件勃発の雰囲気が・・。つづく
愛子 2011年10月28日(金)00時59分 編集・削除
うむ~~。
私も恋というものがよくわからないので(笑)
この先が楽しみです。