住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その7:最終回)

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 決戦は、兵庫の湊川(みなとがわ)という所で始まりました。
 ・・が、正成の予想通り、五百人の[楠木軍]に対して、十数万人の[足利軍]。
 海・陸からの大軍団には、とうてい勝てません。
 あっという間に、正成軍は総崩れ。
 最後の頑張りこそしましたが、足利軍に追い詰められ、弟の[楠木正季(まさすえ)]と共に、一軒の民家に逃げ込みました。
(正成)「弟よ。わしらは精一杯やった。・・が、もはや、これまでや。いさぎよく、自刃しょう。・・又、あの世で会おな・・。」
(正季)「はい、兄上。」
 と、二人は自刃し果てたのです。
 楠木正成、享年43歳。・・正式に歴史の中に登場した期間は、わずか7年間でした。
 正成の首は、尊氏の計らいで、河内の妻子の元に届けられたと伝わっています。
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 そして時代は巡り、足利尊氏が天下を取った[室町時代]を経て、安土桃山、徳川時代になりました。
 その[徳川時代]中期。
 天下の副将軍[水戸光圀]公こと、水戸黄門さまが、荒れ果てた[湊川]の正成のお墓を発見し、建て直そうとされます。
 そして、お墓に自筆で『嗚呼、忠臣楠子(なんし)之墓』と記し、
(黄門さま)『良いですか・・助さんも聞きなさい、格さんも聞きなさい。主君に忠誠をささげた正成公は、人間の鏡ですぞ。すべての武士は、正成公の精神を見習うべきですぞ。かっかっかっかっ(笑い声)。』と言われました・・さ。
(黄門さまは、正成の大ファンだったのですね。)
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(神戸:《湊川神社》内、楠木正成の墓)
 のち、この言葉に感銘を受けた、坂本龍馬・吉田松陰・西郷隆盛等、幕末の志士たちは、このお墓にお参りしパワーをもらい(?)明治維新を築く原動力となっていったそうなのですが、・・その活躍は又、別のお話。
 これにて、紙芝居はおしまい。
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(お墓の横に建つ[水戸光圀]像)
(うっかり八兵衛)「ご隠居~、お腹が減りました~。」
(黄門さま)「おまえは、そればかりじゃのう。・・では、皆さん、湊川神社の前の和菓子屋さんで、名物の菊水饅頭でも食べましょうか?」
(みんな)「はいっ!人生~、腹減りゃ、菓子あるさ~。」
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(皇居前の楠木正成像)
 おわり

紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その6)

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(帝)「正成、逆臣[足利尊氏]をやっつけてくれ!」と、後醍醐天皇は、正成に頼み、一時は尊氏を九州に追い払うことに成功しました。
 ・・が、しばらくすると、尊氏は九州の武士たちを皆、家来にして、今度は都に向って逆襲して来ました。

(帝)「正成、何とかせえ!尊氏をやっつけよ。」と、後醍醐天皇は、又、正成に命じたのでした。
 しかし、正成は、じっと考えて次のように言ったのです。
(正成)「帝、尊氏と仲直りしてください。・・それが出来ないようなら、今度の戦さ、勝てまへん。」
(帝)「なぜじゃ、正成⁈」
(正成)「・・一度、負けながら、皆が家来になって付いてくるというのは、尊氏が万民の心を掴んでいるという事でおます。・・万民の心には、・・勝てまへん。」と言いました。
 しかし、正成の意見は却下されました。
 
 こうして正成は、九州から大挙して帰って来る尊氏軍に立ち向かうことになりました。
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 その京の都から、兵庫(今の神戸)へ向かう途中でのこと。
 [桜井]という場所で、陣中の息子の《正行(まさつら)》を呼びました
(正成)「息子よ、お前はここから[河内]の国に帰れ。
 ・・今度の戦さ、どう考えても勝目はない。味方が集まらん。・・時勢が解っているのか、大半の仲間が去ってしもた。
・・おそらく、今度の戦さで父は死ぬと思う。
 お前は、こんな戦さで死んだらあかん。
 生きて故郷に帰って、母や弟を助けよ。そして、大きく成長して力を付けるんや。そして、これからどう生きたらベストかを、自分でよく考えるんや。・・わかったな。
 ・・残念やけど、しゃあない。これしか無かったんや、父の選択は・・。
 エエか、これは父の命令じゃ!」と言って、涙を浮かべながら、息子と別れたのでした。 次回最終回、つづく

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