住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その5)

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・・が、しかし、『これで平和の世が来る』と、安心したのも束の間、
 又、暗い影が押し寄せて来ようとしておりました。
 それは、天皇・公家中心の新しい時代の到来と、《建武の新政》と名付けられ『新政権』が生まれたのですが・・、
 何分、長年[政治]を取ったことのない(野党・・ちゃうちゃう⁈)公家たちでしたので、前より重い税金を万民に命じ、自分達はやりたい放題、し放題。
 有頂天な気持ちで、おごってしまったのでした。(昔の話と思えまへんなぁ・・)
 これで又もや、万民の心は新政権から離れてしまったのです。(どえらい昔の話とは思えまへんなぁ・・もうええか(笑))
 そんな皆の不満の気持ちを一身に引き受け、天皇とその政権に逆らった武将。・・それが、足利尊氏でした。
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 尊氏は、新政権への不満の多かった武士たちの代表として、天皇・公家政権に戦さを仕掛けてきたのです。
 公家たちは、大わらわ!
 すぐに『くっくっくすのき、正成を呼べ!』という事になったのでした。つづく
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紙芝居:「楠木正成ここにあり!」(その4)

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 幕府の滅亡は、あっという間でした。
 足利(高)尊氏軍が京都を攻め、尊氏の親戚の新田義貞軍が、鎌倉幕府を攻め滅ぼしたのです。 
 こうして、150年続いた[鎌倉幕府]は潰れました。
 島流しになっていた後醍醐天皇は、島を脱出。 
 意気揚々と京の都に還って来たのでした。
帝「正成、すべてお主のお陰じゃぞ。朕は感謝する!」
正成「はい、帝。これで万民が安心して、重い税に苦しまず、平和に暮らせる世が来ます。」と、正成は頭を下げて涙ぐむのでした。
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 戦を終え、河内の国に帰って来た正成は、皆に言いました。
「この戦で、たくさんの犠牲者を出してしもうた。・・攻めて来た者も、守った者も、皆、亡くなればホトケや。
 わしは、すべての者の供養をしたいと思う!」と、
 味方だった者のお墓=『身方(みかた)塚』。
 敵であった塚のお墓=『寄手(よせて)塚』を造り、手を合わせました。
 これは小さい頃、正成が[観心寺]というお寺で、仏教の精神を学んだことが、動機であったのかもしれません。 つづく
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(寄手塚=敵塚と言う名前ではないのが良いと思う)
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(実際は、二つの塚は隣り同士にはなく、7~8mは開いている)
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(身方塚: 実際に、正成が二つの塚を造ったかどうか?は(地元では)疑問視されている。石の材質が、どうやら違うらしいので・・、でもそんなの関係ねぇ。正成の心の優しさは本物だと思うのです。)

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