住職のつぼやき[管理用]

記事一覧

※画像をクリックすると拡大されます。

大阪の川の流れを変えた男「中 甚兵衛」のこと

ファイル 1021-1.jpg
 大阪には、現在二本の大河が流れている。
 その一本は、京都から大阪湾へ(北東から南西へ)流れ込む「淀川(よどがわ)」。
 そしてもう一本が、奈良を越え柏原市から堺港へ(東から西へ)一直線へと流れ込む「大和川(やまとがわ)」である。
 では、その現在の「大和川」は、人工的に作られたものだというのはご存知だろうか。
 江戸時代初期、奈良から流れて来た「大和川」は、現在の柏原市を境に(北西の)大阪市へと、何本も川が分かれて、大阪城あたりで「淀川」と合流し、大阪湾に流れ出たのである。
 ゆえに大雨が降ると、これらの何本もの川は、大阪平野で耐え切れず、大洪水を起こし、住民にとって大きな被害を出していたのである。
 そこで、「(旧)大和川」を(現在のような流れにして欲しいと)付け替え工事を幕府に願い出て、反対意見にも負けず(50年近くも嘆願書を出し続け、粘りに粘って)ようやく、付け替え工事を完成させた男が、誰あろう『中 甚兵衛(なかじんべえ)』その人なのである!パパン、パンッ!(ハリセンを叩いた音)
 彼は、庄屋(お百姓さんの代表)出身でありながら、たぐいまれな粘り強さで、人生のほとんどをこの事業に費やし、みごとに大和川の流れを現在のように変え、大阪平野を見事に豊かな土地へと生まれ変わらせたのである。
 現在の大阪の発展は、彼のお蔭であると言っても良い。(しかし、新しき川の流れを作るために、(提案された流れの上に住まう人々は)土地の立ち退きを強いられ、彼らは間違いなく『甚兵衛』を怨んだ。・・ゆえに、現在でも『甚兵衛』をアンチヒーローと呼ぶ土地の人々もいる。・・それは当然かもしれない。
 彼は、自分が行った事によって、多くの人の運命を変えてしまったを悔やんだに違いない。(ひょっとすると、上の(ちらしの)出家した後の『甚兵衛』の肖像画の、おでこから目の上にある傷跡のようなものは、怨みを持つ誰かに襲われて出来たものかもしれんと僕は思っている。・・あくまでも想像だが)
 だから、『大和川付け替え工事』が終った次の年、彼は突然『出家』をして、浄土真宗の僧侶となる。
 うまくやれば(その晩年)栄誉を欲しいままに、出来たにも関わらず、彼は一人の僧侶となったのである。
 それが又、すがすがしいではないか。
 長々と書いてきたが、僕は今、『中 甚兵衛』の紙芝居製作に取り掛かっている。
 きっかけは、今年の三月、甚兵衛さん生誕地近くの(東大阪市今米の)お寺で、甚兵衛さん所縁の子孫のお方と出会い、お話を聞かせて頂いたからだ。
 その時、甚兵衛さんの逸話をいろいろと聞かせて頂き、いつか、紙芝居にしたいと思ったのである。
 それから、機会があれば、甚兵衛さんゆかり土地を歩き、又資料を集め、今、ようやく製作開始までこぎつけたのである。
ファイル 1021-2.jpg(大谷本廟)
 そして、昨日、京都に行く用事があったので、大谷本廟にある『中 甚兵衛』さん夫婦のお墓にお参りをして、紙芝居がちゃんと出来ますようにと手を合わせて来た。
ファイル 1021-3.jpg
 順調にいけば、来年の2月までに完成させたいと思う。 
 お浄土で、甚兵衛さんにお会いしても、恥ずかしくないものを作りたいと思っている。頑張ります。

上に戻る