先ほど、富田林にある(尾崎クリニック内)のゆうせいデイサービスへ「お寺の出前」に行って来た。
こちらへの出前は、ほぼ一年ぶりぐらいだろうか。
でも、入るなり「お久しぶり~」と、おっしゃって下さった利用者のおばあさんがおられて、ちょっと嬉しかった。
そして、今日の出し物は(春の紙芝居)「おしゃか様物語」と「共命鳥のはなし」の二本。
そして、最後はお釈迦さまについて、少しだけ法話をさせて頂いた。
「ほんまやなぁ~」とか「そやなぁ~」とか大きな声で、感想を言ってくださる方もあれば、突然途中、立ち上がってぬりえの鉛筆をガリガリガリーッと音をたてて削りに行かれる方もあって、小さなハプニングがいろいろと起こった。
「ああっ、ここはお寺の中ではない。僕のホームグラウンドや。」と改めて思ったのだった。
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(尾崎クリニック内)ゆうせいデイサービスへの出前
心の闇
『因幡の源左さん』という、熱心な(文盲の)念仏者の紙芝居を作ってから、ずっと気になっている言葉がある。
それは『心の闇(やみ)』という言葉だ。
この『心の闇』とは、鳥取の『源左』さんゆかりのお寺〔願正寺〕の御住職から、直接聞かせて頂いた言葉で、
僕が「なぜ、源左さんはまだ交通の便もままならぬ明治の初期に、京都や各地のお寺に(家族を残して、しかも新婚の時から)命がけで(何度も)出かけて行き、有名な布教使さんからお説教を聴かれたのでしょうか?」と、お尋ねした時、
ご住職は、「おそらく、源左さんはそれほど『心の闇』が深かったのでしょうねぇ」と云われた、・・その言葉なのだ。
「『心の闇』が深い」、この言葉がずっと僕の中からぬけない。
おそらく誰でも(子供でも)、『心の闇』は持っているだろう。
その『闇』というものが深い。
う~ん、闇が深ければ深いほど、人はその闇に光をもたらそうと熱心に、又救いを求めて(極端に言えば命がけに)なってもがくのだろうか?
僕はどうなのか?
『心の闇』。・・『広辞苑』で引いてみた。
『心の闇』=〔思い乱れて、『理非』の判断に迷うことを、闇にたとえていう語。〕=「なんか、軽いような(笑い)」
では『理非』って何や?・・『広辞苑』で又、引いてみた。
『理非』=〔道理にかなっていること、かなっていないこと。〕
うーん、『道理』って何や?
『道理』=〔物事のそうあるべきすじみち。人の行うべき正しい道。〕
『そうあるべき』って何や?・・載ってないやんかいさ。
つまり『心の闇』とは、〔人の行うべき正しい判断に迷い、パニくってる苦しい自分の状態〕とでもいうのだろうか。・・ちょっと、まだ軽いようだがええとするか。
それが、『深い』のだ。
『源左』さんは、深く深く、(自分の心の中の)道理の判断に迷い、正しい道を模索するため、命掛けで『救い』とは何か?を追求したのかもしれない。
さて、僕はどうなのか?
『心の闇』はまだ浅い・・ような気がする。
「闇が浅けりゃ、道理が引っ込む」ってか。