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堺市:萬福寺さまの春季彼岸会・永代経法要

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(萬福寺様ご家族) 
 本日、堺市の萬福寺様の[春季彼岸会・永代経法要]にお招き頂き、『紙芝居法話』をさせて頂いて来た。
 堺市は、本当にお寺が多い。
こちらも、その1ヶ寺だ!
 お寺の横にもお寺があり、その横にもお寺があり、お寺大集合地帯。迷う。
 お聞きすると、戦国の昔に堺を守るべき地帯(川や海沿いなど)に、お寺や神社をたくさん造り、敵からの攻撃に対して、神仏の力をお借りして守ろうとしたからだ(という一つの説を)教えて頂いた。
でも、このお寺激戦区!今は何かと大変だろうな。
 なにわともあれ、本日、こちらのお寺は本堂満堂。参拝者の方々は熱心な御門徒さまばかりであった。
良かった、良かった。
 万福寺のご家族の皆様、総代様、御門徒の皆様、大変お世話になりました。有難うございました。合掌
 
 

慈雲尊者を訪ねて

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(大阪中之島[慈雲尊者生誕の碑])
 次の紙芝居制作に入っている。
 その取材に行って来た。
 つぎは、お釈迦様再来の尊者といわれた『慈雲(じうん)』様の紙芝居だ。
 その生誕の地は、大阪中之島にある。
 場所はリーガロイヤルホテルの横だ。・・今は賑やかな場所の中にひっそりと立っている。
 サラリーマンたちは見向きもせず、通り過ぎていく・・。これが現実だ。
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(大阪東住吉区『法楽寺』:慈雲さま得度修行の寺院)
 次は、東住吉区にある慈雲さま得度の地『法楽寺』様。
 こちらで、慈雲さまは修行をされた。
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(法楽寺ご住職と)
 運よく、御住職[小松庸祐]様にお会いすることが出来たので、慈雲さまについて、そして紙芝居制作について、いろいろお話をお聞きすることができた。
 僕は運が良い・・と、つくづく思った。

雨の寺カフェ

 先日、春雨というか、まだまだ寒かった風雨の日に『寺カフェ』を開いた。
 婦人会のボランティアの皆さんは「今日は雨なので、お客さんも少ないやろし、暇やろな⁈・・気楽にやろか」と言いつつ準備を始めた。
 ところが、お店を開くと、次から次へとお客さんは来て下さって、座るところのないほどの超満員になって、てんてこまいだった。
 その要因の一つは、雨の日はお百姓さんは暇になってしまい「お茶でも飲みにいこか」という話になったから・・らしい。
 もう一つは、「今日の[寺カフェ]は雨で暇やろ、お客になって(売上を)助けに行こか」と(ボランティア精神で)来てくだった方が多かったようだ。
 何はともあれ、お客さんの増加はうれしいことだった。・・赤字にならなくて。

紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その9 最終回)

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 昭和34年、露子は、自宅で二度目の[脳出血]を起こします。
 そして、享年78歳で、その生涯を閉じることに成ります。
 亡くなったその日は、ちょうど晴れ渡った秋の日だったそうです。
 虫干しの為、色鮮やかな着物の中で、露子は倒れて亡くなったと伝わっています。
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(杉山邸内) 
『人の世の 旅路のはての 夕づく日 あやしきまでも 胸にしむかな』
 これは、露子七十代の歌です。
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 明治時代のロマンチズムの清純さを、代表する歌人であった石上露子。
 南河内随一の大地主の娘に生まれ、才色兼備を持ち合わせながら、波乱万丈の人生を生きねばならなかった露子。
 それでも、彼女は懸命にその人生を生き抜きました。
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 今、露子の杉山家は、富田林市が買い取り、国の重要文化財の指定を受け、一般市民に公開しています。
おしまい

紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その8)

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 明治時代は終わり、大正、昭和へと時代は移り・・、
 露子の家に次々と悲劇が襲います。
 昭和16年、長男は病死。
 終戦の年、昭和20年。精神の病から息子に家督を譲っていた夫が死亡。
 さらに戦後の農地改革で、杉山家は[保有農地]を失い、経済的大打撃を受けます。
 しかし、もっと大きなショックは、次男の自死でした。
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 次男が亡くなってから、露子は彼が生前からよく通っていたという、(現・河南町の)高貴(こうき)寺に、度々足を運び、住職との交流を深めてゆきます。
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 この山深いお寺で、露子は(おそらく)心の安らぎを求めたのでしょう。
 現在、このお寺には(杉山家のお墓とは別に)、露子と子供たち三人のお墓が建っています。 つづく
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紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その7)

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が、露子は大地主の[跡取り娘]です。
 文筆活動を止め、婿養子をもらい家を継ぎ、子供を作り家を繁栄させねばなりません。
 そういう、時代だったのです。
 それで、彼女は26歳で結婚。
 奈良県から、(家の釣り合いの取れた)婿養子を迎えます。
 そして、二人の男の子をさずかります。
 が、露子の父が亡くなり、後を継いだ婿は、恐慌時に株で大失敗。
 杉山家の所有財産が、三分の一まで減ってしまうのです。
 この頃から、夫婦仲が悪くなり、露子と夫は別居することになるのです。 つづく 
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(杉山邸の庭)
 

紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その6)

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失恋の傷が、まだ癒されぬ露子に、さらに追い打ちが掛かります。
 それは、師であり心の友であった家庭教師の解雇と、自分の味方であった妹の嫁入りによる別れでした。
 一人ぼっちになった露子が、そのやるせなさを解放できたのは、雑誌への投稿である[文筆活動]でした。
 与謝野鉄幹・晶子夫妻等と知り合いになった露子は、次第に社会へ目を向けるようになるのです。
 次の歌は、与謝野晶子の『君死にたまふことなかれ』の歌よりも、早く発表された露子の反戦歌です。

『みいくさに こよい 誰(た)が死ぬ さびしみと 髪ふく風の 行方(ゆくえ)見まもる』
 (意訳)
「この日露戦争で多くの人が亡くなった。
 今夜はいったい誰が死ぬのであろうか。
 ああ、寂しい。
 私の髪は戦場へ 風と共になびいていくようだ。
 ああ、私はそのように思いやることしかできない。」

 このように、露子は反戦の歌や小説を発表し、社会や国家のあり方に、自分の持つメッセージを込めたのでした。
 つづく

紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その5)

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 露子と別れた後、長田正平はどうなったか?
 彼は学校を退学し、貿易関係の会社に就職して、カナダの国へ渡りました。
 そして一生独身を貫いて、カナダの国で一人亡くなったという事です。
 のち露子は、家を継ぐ運命の為に、初恋の正平とのかなわなかった想いを詠んだ、絶唱『小板橋(こいたばし)』を発表します。
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(小板橋跡)
 『小板橋』
「ゆきずりの わが小板橋  
しらしらと ひとえのうばら(=野バラ) いずこより
流れか よりし。
 君まつと 踏みし夕(ゆうべ)に いひしらず 沁みて匂ひき。
 今はとて 思ひいたみて 君が名も 夢も捨てむと
なげきつつ 夕(ゆうべ)わたれば ああ、うばら あともとどめず
小板橋 ひとり ゆらめく」
 [意訳]
「私がよく渡る小さな小板橋。
 橋の下を見れば 白い野バラが どこからか流れて来た。 あなたが来て下さるかと思い、夕べ この『小板橋』まで出て来ると、言い尽くせない この野バラの香りがした。
 もう あなたのことは忘れてしまおうと思うの。
その名前も、夢も・・。
 そう嘆きながら この『小板橋』を渡り、下を見れば もう野バラは 流れ去り無かった。
 あとは この小さな板の橋だけが、私の心のように 限りなく ゆらめいていた。」 つづく
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(小板橋跡近くに建つ、現代の小板橋)

紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その4)

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 露子は、大地主『杉山家』の跡取り娘です。
 又、正平も由緒ある家の長男、・・跡取り息子です。
 当時の法律では、お互い跡取りの子供同士の結婚は認められなかったのです。
 それで、露子の父親は、この交際を認めませんでした。
 そして、二人は愛し合いながらも、とうとう、別れることになったのです。
 のち、露子は、次のような別れの時の歌の思い出を歌っています。
 『霜(しも)白く 菊におきけり その日より 久に君見ず 夕別れして』
 意 (霜が白く菊におりていました。その日より、あなたと会っていませんね。あの夕暮れに お別れした時から・・) 
 この失恋から、絶唱『小板橋(こいたばし)』が生まれるのです。 つづく

紙芝居:「歌人 石上露子(いそのかみ・つゆこ)」(その3)

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心を開かぬ露子を心配して、父親は一人の女性家庭教師を雇いました。
 [神山(こうやま)薫]という、その教師はたいへん進歩的な考えを持つ先生でした。
 内向的な露子を、東北や東京などに旅行につれて行き、見聞を広めさせ、新しい文化へと目を開けさせたのです。
 ・・その東京旅行でのこと。
 露子は運命の男性と出会うことになります。
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 その男性の名は[長田(おさだ)正平]という、(今の一橋大学の)学生でした。
 彼は、家庭教師の先生の親戚で、東京まで来た彼女たちの『旅行ガイド』役を引き受けてくれたのです。
 旅先を回りながら、やがて露子と正平は恋に落ちます。
 そして、旅を終えてからも、お互い親しさを増し、翌年には、正平は露子の実家のある大阪[富田林]までやってきます。
 おそらく、露子の家族にきちんと挨拶し、二人の交際を正式に、父親に認めてもらおうと思ったのでしょう。
 が、しかし、この恋には一つの大きな問題がありました。
 つづく