住職のつぼやき[管理用]

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紙芝居:『神武東征記』(その3)

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(東大阪市・日下直越道)
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(この坂をイワレビコの命軍は急いで撤退したのか⁈)
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命からがら日下の下船の地まで戻れた一行は、五瀬命(イツセのみこと)の手当てをしました。重傷でした。
 そして五瀬命は、か細い声でイワレビコの命たちに言いました。
「・・我々は天照大御神(アマテラスオオミカミ)の子孫。太陽の子孫だ。太陽が東から昇るのに、我らはその東に向かって兵を進めた。
・・それが誤りだった。
 これよりは船を南(現在の和歌山、三重県)に向けて、大回りして大和(奈良県)へは、東より西へ向けて攻めよ。
 ・・無念ではあるがワシはここで死ぬ。イワレビコの命よ、後は頼んだぞ。」と言って五瀬命は亡くなりました。
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(神武天皇盾津顕彰碑(現在は住宅地の中にポツンと建つ。この日はカラスが鳴いていた。・ここまで撤退し盾で味方の陣を守り、イワレビコの命は雄叫びを挙げたらしい。『太陽に吠えろ』ではなく『太陽の子は吠えろ!』) つづく

紙芝居:『神武東征記』(その2)

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イワレビコの命(みこと)一行は、ナニワ(現・東大阪)の[日下(くさか)]という所で、船団を止めました。
 そしてそこから徒歩で生駒山を越えて、大和の国(現・奈良県)へ向かおうを出発されました。
 その時です!
 突然、山の上から人影が現れて、弓矢で攻撃を仕掛けられました。
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(日下・大激戦の地[神武天皇聖蹟孔舎衙顕彰碑])
 それは大和の国に入らせまいとする地元の豪族『ナガスネヒコ』軍の待ち伏せ攻撃でした。
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 突然の攻撃に、イワレビコの命たちは身を守るのに必死です。
 その時、一本の矢が長男の兄『五瀬命(イツトセのミコト)』の肘(ひじ)に刺さりました。
 「兄上ー!・・皆の者、退却じゃー!船まで戻るのじゃー。」と血まみれの兄を背負い、イワレビコの命等全軍は総退却になったのです。
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(五瀬命碑文・厄山の碑)
※ここで、五瀬命は負傷したのか⁉・・僕はこの場所でさぞや痛かったでしょう。無念だったのでしょうと、手を合わせた。つづく

紙芝居:『神武東征記』(その1)

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昔々の大昔。
 これは『天照大御神』をご先祖に持つと言われる、初代天皇『神武(じんむ)天皇』のお話。
 このお話の主人公[神武]様の正式なお名前は【神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレビコのみこと)】と言います。
・・がこの紙芝居では[イワレビコ]の命(みこと)とお呼びさせて頂きます。
 このお方は『日向の国(今の宮崎県)』にお生まれになりました。
 四兄弟の末っ子ながら持って生まれた人徳があり、15才でこのミコトは皇太子となられました。
 やがて45才になられたイワレビコの命(みこと)は、皆を集めて重大な会議を開かれました。
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「兄上方、並びに重臣たちよ、我らはこれより用意を整え、東の国を目指して旅立ちたいと思う。
 我が先祖[天照大御神]は、『この国を一つにまとめなさい。そして平和で豊かなお米が実る国にしなさい。』とおっしゃられた。
 ここから東の国は、力の強い豪族たちがお互い争い合っている。
 今こそ我らが行って、一つの国にまとめ上げるのだ。
 皆の者、ついに出陣の時は来たのだ!」と、イワレビコのみことは宣言されたのでした。
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 こうして船団を作り、イワレビコのみこと一行は日向の国を出航。 
 大分、福岡を経て、瀬戸内海を東へ。
 そして順調に浪速(なにわ・今の大阪湾)の海に到着したのでした。・・が、ここからが大変でした。
 この頃の大阪湾は、現在の東大阪市(西半分)までが海になっていました。
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(現在の東大阪市日下(くさか)公園・クジラの骨が貝塚から出たらしく公園にクジラのモニュメントがある)
つづく

紙芝居:『ワカタケルとワカクサカ』(その5 最終回)

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ワカタケル大王(オオキミ)は、124才まで生きられました。
・・ホントかどうかはわかりません。聞いたことが無いので‥?
 思えば大王のご生涯は、若き頃は波乱に飛んでいましたが、晩年は穏やかで安定しておりました。
「ワカクサカ、これもお前のお陰じゃ」と、素直に言える程穏やかでした。
 その最後は家来,豪族達を枕元に呼び、息子のことを頼む。そして、民がいつも安心して食事を取れるような、そんな国をずっと築いてくれ。」と言いお亡くなりになりました。
 えっ?、ワカクサカ皇后はいったい何歳なのか?ですって・・。
 女性にそんな失礼な事を聞いてはいけません。
 私は元巫女ですよ。神様のお使いをする為、そう200歳以上は生きるつもりですよ。オホッホッホッ。
 最後に足腰が弱りましたら、懐かしい実家の日下の里に帰りましょうかねぇ?
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 私の夫、ワカタケルの大王。
 第21代雄略(ゆうりゃく)天皇。
 そのお墓は、今[大阪府羽曳野市]に祀られています。
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(雄略天皇の古墳)
 おしまい

紙芝居:『ワカタケルとワカクサカ』(その4)

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そうそう、忘れてはならないのは・・、ワカタケル大王がたいへん女性好きであった事。
 ・・こんな事がありました。
 大王(オオキミ) が若き頃、散歩の途中で美しい少女にお会いになります。
 一目惚れした大王は少女に、「私はワカタケルといいます。貴方、私と結婚しませんか?奥さんの一人にしましょう。・・もうしばらくすれば必ず迎えに行きます。ですから絶対に結婚しないで待っていて下さいよ。」と、言われ別れたのです。
 そしていい加減な大王は、ご自分が言われた事をとうに忘れ・・、やがて80年が経ちました。
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 やがて大王は120才?になられました。
 あの日、腰の曲がった老婆が大王の元に訪ねて来ました。
 そして開口一番、「あの~、まだお迎えには来ていただけないのですか?私はずっと待っているのですが・・。」と老婆は言いました。
 それを聞いて大王は「・・この老婆は何を言っているのだ?」と訳を尋ねると、
 老婆は「あなたがずっと待って居よと言われたのですよ。だから私は80年待っていました。」と説明すると・・、
大王は真っ青になって「そっそなたは、その年になるまでずっと待っていてくれたのか⁈・・私はとうの昔に忘れて居た。すまなかった!許してくれ。」と何度も謝り、その後たくさんの財宝を与えて帰ってもらったのでした。
 私ワカクサカが思いまするに、80年間も待つ老婆も老婆ですが、倭の国の大王が、何度も老婆に対して謝っている姿になぜだかほっこりしてしまいました。
 このおっちょこちょいの大王の自分の過ちを素直に謝る姿に、民や家来・豪族たちがついてくるのだなと思ったのです。つづく(次回、最終回)

紙芝居:『ワカタケルとワカクサカ』(その3)

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・・ワカタケル大王(オオキミ)が倭の国(現・日本)を統一に向わせた、ちょうどその頃の事です。
 海の向こうの外国(現・朝鮮半島)から、難しい交渉があり、さすがの暴れん坊大王の[ワカタケル]さまも慎重に(日本の舵取りを)お考えになる日々が続いておりました。
 そのような時、大王は私に「おい、ワカクサカ。この倭の国の為に神に祈ってくれ。」とよく言われました。
 そう、私(ワカクサカ)は、神々に対しての巫女(みこ=シャーマン)のような役目もしていたのです。
 日頃乱暴者の大王も、この国の運命が掛かるような大事な時は、真剣に神々にお祈りをしておりました。
 そして、外国との危機を脱する事が出来た大王は、宋の国(現・中国)から信頼を得て、倭の国(日本)で初めての[大将軍]という称号を頂かれたのでした。
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 そういわば、こんな事(エピソード)もありました。
 ある儀式が終わった時、ワカタケル大王は「儀式は終わった!誰か酒を持て!」と言われました。
 すると、一人のお付きの女性が持ってきて、お酒を注ごうとしたのですが、その時1枚の葉っぱが落ちて来て、お酒と一緒に入ってしまったのです。
 それを見た(瞬間湯沸かし器の)大王は、「きさま、わしに葉っぱを飲めというのか!」と、剣を抜いて切り殺そうとすると・・、
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 凍り付いたその場で私が止めようとすると・・、
 そのお付きの女性は「大王、待ってください!わざと葉を入れたのではございません。・・しかし、しくじりをした私を成敗する前に、私の舞と歌をご覧になってからお斬り下さい。」と言いました。
 そしてその場でその女性は、自分の失敗を笑いに変えたみんなを和ます歌と舞を即興で披露したのです。
 それを見た大王は「わっはっはっは、見事な歌と舞じゃ許す!」と言われたのです。
 乱暴で恐ろしい大王でしたが、たいへん歌や舞など(芸)はお好きで、ご自分でもよく歌を作られました。
 ※のち『万葉集(まんようしゅう)』という、歌を集めた書物にも、ワカタケル大王(のちの雄略天皇)の歌が最初に出てきます。つづく

紙芝居:『ワカタケルとワカクサカ』(その2)

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 私の王宮での新生活が始まりました。
 ワカタケル大王(オオキミ)と一緒に生活をしていますと、大王の良い所も悪しき所も、その英雄たるご性格が良く分かります。
 地方で豪族の反乱が起こると知ると、大王は一番に飛び出して征伐に向かいます。
 そして、男も女も子供でさえも皆殺しにしました。
 大王は天皇に逆らう者は許しませんでした。
 又逆に、味方についた豪族は大変大事にしました。
 こうして、英雄ワカタケル大王の噂は、倭の国(日本)全土に広まり、日本の国は徐々に統一されていったのございます。
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 ある日の事。ワカタケル大王は大変喜んで、イノシシ狩りから帰って来られました。
 私は「何か良い事があったのですか?」と聞くと、
大王は「あった、あったのだよ!ワカクサカ。今日、偶然神様に出会ったのだよ!神様の名は『一言主(ひとことぬし)の神』と言われた。
 神は私と同じ服装をされていたので、何も知らない私は「お前、生意気だ。私と同じ服装をしやがって!殺してやる!」と言うと、向こうも同じ事を言う。
 不思議だなと思ってじっと見ていると、突然光輝き始めて「我は一言主の神である」と言われたのだ。
 私はびっくりして、土下座をして無礼を謝ったら許してくださった。
 その後、神と私は仲良くなったのだ。嬉しい事ではないか!はっはっはっ!」と笑われたのです。
 不思議な話ですが、その後この話は世間に広まり「ワカタケル大王は神にも好かれる徳のあるお方だ!有徳の大王だ!」と呼ばれるようになったのです。つづく
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(金剛山の山頂。ここでワカタケルは一言主の神と出会ったとか?)

紙芝居:『ワカタケルとワカクサカ』(その1)

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 昔々の大昔・・。これは5世紀?古墳の時代のお話です。
 この頃【倭の国(日本)】は、各地の豪族たちが力を持ち、今だ平和な国とは言えませんでした。
 この戦国のような時代を、豪快な力で(まるで織田信長のように)統一に向わせたのが、今からお話します[ワカタケル大王(おおきみ)]、のちの第21代天皇[雄略(ゆうりゃく)天皇]です。
 さてこのお話は、そのワカタケル大王と結婚され、その暴れん坊大王を上手にサポート(コントロール)し、やがて平和な日ノ本の国を築かれた[ワカクサカ皇后[若日下部王(わかくさかべのみこ)]]とのご夫婦のお話です。
 それでは、はじまり、はじまりー。 
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 私の名前は[ワカクサカ(若日下部王(わかくさかべのみこ))]。
 あの(お墓が世界遺産になった有名な)仁徳天皇の娘のひとりです。
 今、ナニワ(大阪)の『日下(くさか)現・東大阪市日下町)』という所に引き籠って暮らしています。
 なぜ引き籠って居るのかって?・・それは私の兄が暗殺され、世の中が嫌になったからです。
 そんな私に今日、『ワカタケル』という青年皇族が結婚を申し込みにやって来るというのです。
 それで私は迷っています。
 私にはワカタケルという御方がよくわかりません。
 恐ろしい御方なのか⁈それともお優しいのか⁈・・いろんなお噂がある御方なので・・?
 それでは、ワカタケル様が到着されるまで、私が聞き得たあのお方の噂を少しお話しましょう。
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 ワカタケル様は、天皇家の血筋ですが、その天皇家の地位を実力で勝ち取った御方です。
 現職の天皇であった兄の非業の死を聞かれた瞬間、彼は天皇の地位を自分が奪おうと思われたそうです。
 そして、やる気の無かった二人の兄たちを殺し、もう一人の天皇候補のいとこも殺し、自ら天皇になられたのです。
 だから世間では、ワカタケル様の事を『大悪天皇(はなはだ悪しき天皇)』と噂しました。
 私はそのお話を聞いた時、「何と恐ろしい御方だろう!」と思いました。
 あっあのお方のお姿が見えました。
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 「やあやあ、そちらに見えまするはワカクサカの姫ではございませんか⁈ 私はワカタケルです。
 今日はあなたを皇后としてお迎えに参りました。
 まあ、血筋の良いあなたと結婚すれば、私の世間の目や声も少しは良くなるだろう!と下心のあっての事ですが・・、はっはっはっ。まぁお願いします。私と結婚してください。
 結婚してくだされば、ここに来る途中に、生意気な豪族から奪い取ったこの珍しい白い犬を差し上げますので・・はっはっはっ」とワカタケル様は開口一番言われました。
 私は思いました。「まぁなんと傲慢な物言い!・・でも少年のように正直な心を持っているような感じがする・・。」と思ったのです。
 こうして、私はワカタケル大王の皇后になりました。 つづく 
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(ワカクサカ皇后のお墓か?[東大阪市日下(くさか)]・・暑い中探しました。)

紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その6・最終回)

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 新しくなった[寺ヶ池]完成後、與次兵衛さんはご領主から呼び出されました。
「與次兵衛、ようやった!あっぱれじゃ!褒美としてそなたに、今の家とは別に土地をやろう。そして、そなたをそこの代官にしよう。これからも励むよう!」
「ありがとうございます。」
こうして、河内郷代官となった與次兵衛さんはさらに励みました。
 そして、いつしかその新田開発により、昔の100倍のお米が取れるようになったそうです。
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 その後、與次兵衛さんは子供達に仕事を任せ、自分は父と同じように頭を丸めてお坊さんになりお寺に入ります。
「極楽にいる親父さま、いやご住職、私は万人の幸せの為に働く事ができました。住職が言われたように、人の幸せを願って働くことは、自分自身をも幸せにすることでした。皆は私に感謝し、私は私で今幸せを感じています。私は大事な事を学びました。これからはその心で、この水路(井路)を通って流れ来る清らかな水のように、悩める人の心にそっと寄り添いながら、仏様の教えを伝え生きてゆきたいと思います。」
お坊さんになった與次兵衛さんは寺ヶ池の前でそう思いました。
 與次兵衛さんは『祐和(ゆうわ)』というお坊さんの名前になり、晩年を過ごされました。
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 今も人々の為に豊富な水を満たしてくれている、河内長野市にある寺ヶ池。
 恩恵を受けた多くの人により、與次兵衛さんの活躍を讃えて、今も池の北に「祐和」の碑という石碑が建っています。
おしまい
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(中村與次兵衛さんのお墓)

紙芝居:『中村與次兵衛と寺ヶ池』(その5)

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こうして総年数16年、延べ約4万人が関わった大工事は、慶安2年(1649)ついに終わりました。
 その周囲2200メートル、深さ29メートルの大きさでした。
 石川上流から流れ来る大量の水を見て、大きくなった寺ヶ池が、水で埋め尽くされたのを見た與次兵衛さん達村人は、言葉にもできぬ程の感動があったでしょう。
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 こうして完成した寺ヶ池の周囲は2197メートル、南北650メートル、東西約108メートル、貯水量は60万トン。
 そして池より、南西の水源地の底までの水路(井路)は、約3.8キロメートル以上ありました。
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(写真右下が現在の水路(井路)。いまも現役なのです。)
つづく

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